アニメ「ディーふらぐ!」の<幸福>度

アニメ「ディーふらぐ!」は、1クールの12話で、ひとまず終了したが、その内容は、まあ、原作通りというものであったが(ずいぶんと、はしょられていることは他のアニメと同じだが)、私が言いたかったことは、その世界観のどこかしらにただよう、<幸せ>さについてであった。
もちろん、ギャグ漫画になにかしらの「意味」を見出そうとする姿勢は、ヤボであり、余計なことであるのだろうが、そもそも、なにかを「おもしろい」と思うことには、それなりの「姿勢」のようなものがあって、つまり、私たち自身の日常と通底している部分があって、そこを読み飛ばしてしまうと、つまらない哲学みたいな一般論になってしまう。
なぜ、「ディーふらぐ!」はおもしろいのか。それを、アニメ第10話から第12話の最終話における、タマちゃん先輩による、ゲーム制作部(仮)の廃部をかけた、おにごっこの回において考えてみよう。
なぜ、タマちゃん先輩は「強い」のか。それは、漫画でいうと第5巻の35話、アニメの第12話の最初の、烏山千歳(からすやまちとせ)が幼稚園で、砂場でお城を作っていた場面において示される。
友達もなく、砂場で、ひたすら砂のお城を作ることを楽しみとしていた、幼稚園時代の千歳に対し、常に、カラんできたのが、タマちゃん先輩であった。タマちゃん先輩は、突然あらわれて、千歳が作ったお城を次々と、お相撲さんで言う、張り手のような姿勢で、手を押し出す形で、壊していく。
この回想シーンが、なぜタマちゃん先輩の「張り手」が、<最強>なのかを示している。千歳にとって、いつも砂場で作ったお城を壊された記憶は、強烈なものとして残っている。もちろん、こういった行為は、その幼稚園時代の「回想」と並列して、小学校から今の高校時代まで続く。つまり、お互いの「記憶」の中の印象として、それは共有されている。
こういった意味で、タマちゃん先輩と千歳は、まったく、幼稚園時代の砂場でお城を壊された時の、幼かった時間と同一の空間を生きている。千歳がお城を壊されたショック、その「パワー」や「乱暴」さ「強さ」は、まったく、幼稚園時代と同列に「想起」されるわけである。
おそらく、子供の喧嘩とは、こういったものなのであろう。
子供たちは言うまでもなく、幼い頃の経験をもつ。つまり、その経験の「世界」を生きている。その経験の「想起」を生きている。それは、たんに今の自らを物理的に、物質的に構成している諸要素を、デカルト的に摘出していけば、「その人そのもの」になるわけではない。
子供たちの幼馴染(おさななじみ)という「ツーカー」の関係が、そこに、なんらかの過去における共体験として、お互いを意識させる。そのお互いがお互いを小さい頃から「知っている」という感覚が、なんともいえない、「幸福」さを、この作品に与える...。