田鍋良臣『始源の思索』

あなたは「倫理」という言葉を、道徳と違った意味において考えようとしたとき、一体、どのように定義すればいいと思われるか。
しかし、ものの本を読んでも、なぜか、往々にして、この違いについて、あまり書かれていない。
このことが何を意味しているのかは分からないが、つまりは、現代人が倫理的に生きておらず、道徳的に生きている、ということを意味している、と考えられるのかもしれない。
つまり、倫理的ではなく、道徳的であることを「正しい」ことであると思って生きている、ということである。
倫理とは、古代ギリシア語においてそうであるように、一般に、家庭といったような身近な諸関係を出発点として考えるなにかに対して、名付けられる。
他方において道徳とは「ルール」のことである。道徳において重要なことは、その「ルール」が、どういった出自のものであるのかを問わない、ということである。つまり、道徳は常に、どこか上から目線で、啓蒙的にどこからか、もってこられ、<与え>られる。しかし、それを「与える」人が、どういった「資格」においてそれをするのかは、常に曖昧である。
往々にして、

  • 道徳的な人は、倫理的に嫌われる

わけだが、それは、その道徳という「ルール」の自明性が、倫理的な地平において、自明と考えることには、どこか飛躍があるからであろう。
しかし、逆に問うてみよう。たとえそうであったとしても、道徳的であることは「正しい」のだから、嫌われる側に非はないのではないか、と。
私たちは、そもそも、欲望の塊である。自分が思ったこと、言いたくなったことがあるなら、それを口に出して言うしかないであろう。たとえ、それで、自らが「差別主義者」だと非難されることになったとしても、それで、牢屋に入れられることになったとしても、そうしたかったのだから、やらないわけにはいかない。
もちろん、この主張は正しい。しかし、だとするなら、逆に問うてみるべきなのだ。なぜ、嫌われることが「問題」なのか、と。なぜ仲良くしなければならないのか。それは、なんらかのビジネス的な利害によるのか。だとするなら、なおさら、仲がいいことを先験的に求めることには、どこか歪んだ動機が隠されているのではないか、と。
嫌われることが「問題」だと思っている人は、暗に、自分が嫌われることは、道徳的に「正しくない」と主張したいわけである。つまり、自分が間違っていなく、相手が間違っている。相手が「馬鹿」だから、こんな始末になっていて、やれやれなのは向こうなのだ、と。そうすることで、自らという

  • ブランド

を守ろうとしている。
しかし、いずれにしろ、自らが欲望のおもむくまま行った結果として、倫理的な決裂に至ったのなら、倫理的には、その結果を「受け入れ」るしかない。
しかし、おそらく、多くの人々は、たんにそうだと言って納得をしないのだろう。自分は悪くない。相手が「馬鹿」だから、こういう結果になった。そして、その結果として、自らの考えるビジネス・モデルは、少なからぬ、軌道変更を余儀なくされた。頭の悪い相手の態度によって orz。
しかし、さっきから言っているように、倫理とは、そういうものではないわけである。倫理はそもそも、なにかが正しいかそうでないかを問うていない。むしろ、ここで問うべきは、そのビジネス・モデルなる不純な動機を他者に強いている先験的な傲慢さ、の方なのである。
倫理的であるということは、道徳的であることを、まったく意味しない。
むしろ、これは逆なのだ。
道徳的であることは、倫理的であることの延長において、始めて意味を与えられる。
例えば、社会契約論という考えがある。これは、社会契約という「ルール」がある、という考えである。しかし、だとするなら、その「ルール」は、どのようにして成立したのか、と問わないわけにはいかなくなる。いったい、何がそのルールの成立を可能にしたのか。つまり、倫理とは、そういった道徳という、さまざまな「ルール」が成立する<以前>の諸形態、可能態そのものの成立過程の根拠を問う作業だと言えるだろう。
つまり、「ルール」の<起源>だ。
ルールが成立するためには、それ以前に、なんらかの、そのルールの成立を可能にした「信頼」の存在を問わずにいられない。ルールが成立するためには、まず、それ「以前」に、そういったルールの成立を目指そうとした人たちの協同作業を可能とした「信頼」の存在が、どうしても不可欠なのである。
これが、倫理である。
アニメ「ディーふらぐ!」が、ゲーム部ではなく、ゲーム制作部であるとは、こういうことを意味している。ゲームという「ルール」が<ある>ことを前提とした頭の良さを競う「ゲーム」が哲学だとするなら、そのゲームを

  • 作る=参加する

過程そのものをダイナミックに問う作業が、倫理である。
つまり、倫理とは道徳が生み出される「以前」が、どういったものであったのかを問う作業だと言うこともできるであろう。

では以上の要約を踏まえてここで、冒頭で触れた一九二五年夏学期講義における「友情」のくだりを見てみよう。この発言は主として「世人における相互存在」、つまり先ほど「不信」と言われた非本来的な相互性に関してなされている。

世人における相互作用は[......]ひそかに聞き耳を立て合うことである。相互存在のこうしたあり方は、極めて直接的な諸連関のうちにまで入り込む。そうして例えば、友情はもはや第一義的には、世界のうちで決断し、互いを解放し合う相互尽力のうちに存するのではなく、友情ということで思念されていることを他者がいかにうまく装っているかについて、つねにあらかじめ注意を向けること、つまり絶えざる監視のうちに存することになる。(GA20,387)。

「聞き耳を立て合う」とか「絶えざる監視」という事態は、まさしく「不信」と重なるものである。それと対照をなす「極めて直接的な諸連関」としてハイデッガーは、「決意し、互いを解放し合う相互尽力」を挙げ、それを「友情」と呼んでいる。「尽力」は先ほど、率先的考慮における共同の配慮として、結束という本来的な相互性に基づくと言われた。その相互性がここでは、消極的な仕方ではあるが、「相互解放(互いを解放し合うこと)」とみなされている。ゆえにひとまず、ハイデッガーは相互解放としての友情を本来的な結束のうちに見ている、と形式的には言えるだろう。しかしながら、上で確認した『存在と時間』第二六節において、率先的考慮は「他者を解放する」とは言われているものの、「相互解放」については全く言及されていない。それどころか、日常性においてはそもそも上述の二つの考慮自体が区別されておらず、他者との相互存在もたいていそれらの「多様な混合諸形態」(SZ, 122)のうちで現れる、と言われる。それでも、結束が「各々独自につかみとられた現存在」、つまりは本来性を取り戻した個別者同士の間で成立する以上、それはたしかに、非本来的な代行的考慮とは明確に異なる関係、要するに、世人支配から解放された者同士の関係であることはたしかであろう。だがたとえそうだとしても、そのような関係が直ちに相互解放を意味するわけではない。はたして率先的考慮において、本来的な結束のなかで、相互解放はいかにして成立するのか。

ハイデッガーは、「友情」という事態、つまり、「信頼」という「相互解放」が、なぜ、成立しうるのかと問う。
つまり、なぜ「信頼」は生まれたのか、と。

しかしながら、繰り返し問うが、他者の可能性を「本来的」と言いうる根拠は何か。それが示されない限り、この主張は単なる絵空事にしか聞こえない。一見ハイデッガーはこの問題に関して沈黙しているようにも見える。だがわれわれは以下の「行為」についての発言のなかに、その手がかりとなりうる指摘を見出すことができる。

呼声を理解する[決意した]現存在は、彼が選んだ存在可能に基づき、最も独自な自己をそれ自身において行為させる。そのようにしてのみ現存在は責任的でありうる。だがいかなる行為も事実的に必然的に「良心を欠く」。なぜならいかなる行為も[......]そのつどすでに他者たちとの共存在のうちで、他者たちに対して責めを負ってしまっているからである。(ibid., 288)

ハイデッガーはここで、良心の呼声に従ってなされる本来的な行為、いわば決意した行為が、他者たちの「責め(Schuld)」を負うと明確に述べている。行為が必然的に「良心を欠く」と言われるのは、この行為が道徳的な過失を犯しているからではなく、むしろある行為が良心の呼声を聴くこと、つまり良心を持とうとすること(決意性)に基づいてなされる限り、その行為はつねに他者に対する責めを引き受けざるをえない、と考えられているからである。逆に言えば、他者に対する責めが自らの「良心のなさ」として捉えられているからこそ、他者のために良心を持とうとするし、他者を目指して良心の呼声を聴きつつ行為することができる。

上記の指摘は確かに興味深い。良心をもとうとすること(決意性)と、他者への「責め」の相互性が、再帰的に私たちを動機づけていくのだ、と。
しかし、この主張は、どこか不思議な印象を与える。というのは、たんにこう言うことが具体的に、なにを意味しているのかが、今一歩、よく分からないからである。
しかし、そもそもハイデッガーがどういった主張をしていたのかを考えたとき、そもそも、ハイデッガーの構想において、こういった観念が、どういった位置づけにおいて考えられていたのかと問うことは、その見通しをよくする。
そもそも、ハイデッガーは、フッサール現象学によって考え始めている。そこから、ハイデッガーの、どこかキリスト教神学を意識した、ある啓示にも似た何かによって与えられる、存在の学が構想される。
つまり、ハイデッガーの存在の学は、いわば、数学で言うところの、集合論的な世界観が前提にある、と考えられる。この今、私が存在している、その視点において「自明」なまでに、目の前にある、「その物」から

  • 出発

して、あらゆる存在の存在性を導いていく。
こういった方向性は、どこか、公理的集合論を思わせる。存在とは何か。存在とは「神」である。一者としての神が唯一存在するところから、次々と、存在は生まれる。
また、この場合、神とは「自分」のことでもある。つまり、自らの「内省」という行為と、「神」は、非常に深く結びついている。
こういった方向において、おそらく、なぜ急に、「良心」だとか、「責め」といった言葉が現れたのか、と不思議に思うかもしれない。
しかし、こういったアプローチの自明性も、どこか、数学のアナロジーを感じさせるわけである。ハイデッガーが、どのように、「信頼」の根拠を導いたのか。
その二つのアプローチは、いわば、「極限形態」において、である。

  • 死(=未来)
  • 誕生(=過去)

この二つの極限形態を問うことによって、つまり、ある種の否定形(=生きていない、産まれていない)を問うことによって、その

として、自らの主張の根拠を与えようとした。
大事なことは、現象学が、自らの「独我論」的な内視線の、揺ぎなく存在すると言わないではいられないような、自明さ、から、「あらゆる」世界の諸関係を「構成」するのが、現象学だと言えるだろう。そういう意味において、現象学は、徹底したモノローグ的ストラクチャーとして与えられる。つまり、そういう意味で、神と<自意識>は同じものを、別の角度から言っているにすぎない。神が存在することと、自らの自意識がこのように内省していることは、相互に反転する。
こういった視線の延長に、過去と未来を考えるとは、どんな事態を意味しているだろうか。つまり、過去の自意識とは何か、未来の自意識とは何か?
おそらく、そこには「万世一系」の天皇制のような家系図を、現象学者たちはイメージしているのではないだろうか。
はるか過去を遡って行ったとき、そこに、自分はいない。自分の自意識はない。しかし、彼らは、次のように考える。たしかに、そこに自分はいないが、自分と「同じ」遺伝子をもった、そして、その人が自分に一子相伝に、遺伝子を継承した

  • 自分と「同じ」と言うことが可能な祖先

が「一人」いるはずだ、と。これは、未来についても同じだ。はるか未来にさかのぼって行ったとしても、なんらかの意味で、

  • 自分と「同じ」と言うことが可能な子孫

が「一人」いるはずだ、と。だから、この「自意識」を歴史的に、普遍的に考えることには、意味がある。いや、現象学は、いずれにしろ、この手法しか使えないだけの、この手法が通用しなければならない、ということなのであろう。
ハイデッガーは結局のところ、完成させることはなかったが、『存在と時間』は、この「過去」を問うことにおいて、私の今ある自明性を、

  • 民族(=共同体)

において、示そうとした。つまり、大事なことは、上記の「良心」にしても、「責め」にしても、たんにそういった言葉が無定義用語的に、急に、あらわれたわけではないのである。そういった概念が、なぜ、急に、ここで使われるのかは、自らの自意識の根拠に、

  • 民族(=共同体)

といった、自明な出自によって構成されている「遺産」、根拠があるから、と考えるわけである。
私は、現代において、まだ、哲学には意味があると考えている人というのは、このハイデッガーが暗に示唆するだけに留めて、明瞭に語ることを拒否した、

  • 死と誕生の形而上学(=民族に根拠付けされた哲学)

を完成させること、と思っているんじゃないか、と考えている。このアプローチは、いわば、人間における、死と誕生という「極限点」において、あらゆる人間の存在様態を反照させることによって、

  • 自己言及的

に、内省的に、人間の存在様態を「自同的」に説明していく、モノローグの体系を構想するものではないか、と考える。
しかし、なぜハイデッガーは、自らの哲学を展開する上で、死と誕生といったような、人間の極限様態によって、説明を始めなければならなかったのか。
それは、彼が依存する、フッサール現象学が、必然的に強いる、内省的な独我論的な視点の限界が、その狭さを「超える」超越的な説明体系を、どうしても必要とした、ということなのではないか。しかし、そういった、なんらかの「無理」を行ったことで、本来はもっと自然に解釈できたはずのものを、大仰な「カラクリ」によって説明せざるをえなくなっている、ということはないか。
例えば、確かに、現代数学を展開する上で、ZFCの公理的集合論の公理系は、十分であろうが、しかし、逆に言うなら、ここまで強力な道具立てが、どうしても必要なのかは、少しも自明ではないわけである。
たとえば、このことは、現代のコンピュータとのアナロジーで考えたとき、よく分かる。
直感主義的数学においては、排中律が成立しない。つまり、背理法が成立しない。つまり、否定神学が成り立たない。この場合、「なんとかである(=存在)」が、「なんとかを確認する方法をもっている(=構成)」というふうに、構成主義的な文法に変わっている。
しかし、よく考えてみよう。
前者は神の論理である。神の視点から世界を見たとき、こういった命題が主張できる。しかし、人間は有限の存在である。こういった神の論理を本当に必要とするのだろうか。
例えば、計算可能性の問題を考えてみよう。有限の手続きによって、結果を導くことが保証されている計算可能関数を「超えた」関数は、確かに、普通の数学では、一般に登場する。例えば、選択公理における、選択関数が、その例である。ところが、この選択関数を具体的に、有限の手続きで構成してみろ、と言われて、できる人はいない。
だったら、それは「ない」のと変わらないのではないのか。
直感主義的数学は、MFCに対して、たんに、排中律の公理を除去するだけで形式化される。そういう意味では、数学的にはその性質は比較的、トリビアルに分析されうるという意味で、どこかつまらない扱いのように思われる。
しかし、この問題を、コンピュータなどの、計算可能性の問題、神の論理ではなく、人間の論理に引き戻して考えようとしたとき、むしろ、直感主義的数学の必要十分性が、大きな意味を私たちにつきつけるわけである。
例えば、カーリーハワード対応において、数学の公理化と、プログラミングの対応を考えたとき、直感主義的数学とZFCの違いは、

  • エクセプション

をもっているプログラムかどうかの違いに還元される、と言う。エクセプションとは、プログラムが、なんらかのバグによって、その後の処理を続けられないと判断したとき、その「内容」を、プログラムの呼び出し元に次々に返していく動きについて言うものであるが(もちろん、そのエクセプションを、どこかの場所で「キャッチ」して、そこから処理を続行することもできる)、つまりは、なんらかの

  • (神の)啓示

が、プログラムに最初からビルトインされている世界と考えられるであろう。たしかに、エクセプションは現代のオブジェクト志向プログラミングにおいて、なくてはならない必須の機能となってきているが、そのことと、

  • プログラムをエクセプションなしで記述する

こととは、本質的な違いを与えない、と考えられるであろう。
また、この問題は、もう少し違った形でアプローチすることもできる。
ハイデッガーの哲学は、フッサール現象学をベースにして構想されたものであり、内省から出発して、存在を暗示する神学的な構造をもつ。
この場合、存在とは現象学的な内省がもたらす、

  • 自分の視点を「特権的な場所」として構成する

ことによってもたらされる、実存論的なアプローチを避けられない。つまり、なにかが「ある」と言っているその「場所」は、自らの独我論的な視点を

  • 特権的

な場所として、ひとまず、設定しないでは、話を始められない。
そういう意味において、ハイデッガー主義者は、どこか、自己中心的なエゴイスト的な部分を避けることができない。
例えば、公理的集合論におけるZFCにおいて、その関係を数学的に示すなら、

  • a∈A

となる。この関係を「存在aは性質Aをもつ」と解釈できるであろう。他方において、これを、圏論(カテゴリー論)の基本フォーマットによって記述するなら、以下となる。

  • a:B -> A

この関係を「存在aは性質Bから性質Aへと変化するものである」と解釈する。しかし、ここで、多くの人は、この急に現れた「性質B」とはなんだ、と思うのではないか。前者と後者を比べたとき、どう考えても、登場人物が一人増えているという意味において後者は、なにか、凡長な印象を否めない。
しかし、よく考えてみよう。
私たちは、本当に世界を「存在」によって、把握しているのだろうか?
むしろ、なんらかの「差異」によって、それが「ある」と示唆されているのではないか。
つまり、むしろ、この関係こそ、本質的なのではないか、ということなのである。
では、こういった後者の立場において世界の眺めたとき、前者は、どう記述されるのか、ということになるわけだが、それが以下である。

  • a:1 -> A

つまり、ここで「1」とは、全てを一つにしたもの、つまり「神」をあらわしている。つまり、こういった構成をとることによって、前者が暗黙に

  • 神の視点

を前提にしていたことを暴露するし、前者が後者を「特殊な関係」の一種として、含む、より一般的な関係体系を一挙に、ダイナミックに捉えるのに向いていることを、強烈に示唆するわけである(言わば、圏論とは、一種の<多神論>や、アニミズムを具現化したロジックであるとも解釈できる)。
あなたは、きっと、この圏論(カテゴリー論)のフォーマットは、異様な印象を受けるのではないか。こんなものが世界の描像なわけがない、と。
しかし、次のように考えればいいのである。この世界の本質は、存在であろうか、機能(=関数)であろうか。つまり、この世界は、存在と機能のどちらで構成されているのか、と。
人間か結局は、最後は自分が「かわいい」という、ナルシシズムを、ハイデッガー哲学だとすると、むしろ、この世界に自分なるものはない、あるのは、例えば、自分が、ある他ならぬ「その人」を愛する、というその諸関係、一つの「機能(=関数)」の、矢印(やじるし)だけなんだ、というのが後者である。
あなたは、どっちの考えが、しっくりくるだろうか。
例えば、コンピュータ・プログラミング言語を考えてみよう。近年の、関数型プログラミングや型付きプログラミングをイメージすれば分かるように、むしろ、こういった関数的なプログラム・モジュールは、現在のプログラミグ言語と非常に相性がいい。むしろ、こっちの方が、本質的だと言ってもいいくらいである。
ますます、ロジックは、より圏論(カテゴリー論)に近くなって行っているし、もしかしら、22世紀のロジックとは、すべて、こういった型付きプログラミングによって記述されているのではないか(現代の、自然言語としての日本語も、関数型プログラミングにより、近寄っているのではないか)なんてことさえ、空想する。
そして、おそらく、このことは、ハイデッガー存在論の「自明性」に対しても、大きな影響を与える地殻変動をもたらしているはずなのである。
しかし、である。
だとするなら、その差異を「超越」ではない、どこに見出すということになるのであろうか?

この有責性にはまた、本章で見てきたように、他者に対する責め、それに基づく率先的顧慮や相互解放としての友情、さらには伝承や結束、共同運命や民族・共同体といった諸事象が本質的に結びついている。したがってこれらの問題も有責性同様、ハイデッガーが考える限りでの道徳性一般の実存論的な諸基礎を構成するものと見てよいだろう。もちろん『存在と時間』のなかでこの観点からの議論が全面的に展開されているわけではないし、そもそも彼の第一義的な主眼が道徳や倫理学の問題に向けられているのでもない。それでもハイデッガーは、たとえわずかな言及しかないとはいえ、『存在と時間』構想のうちにたしかに「道徳性の基礎づけ」にかかわる問題を見ていることは間違いない。形而上学の基礎づけという壮大なプログラムに、他者や共同体をめぐる「倫理学的」な根本問題も帰属するのである。

ハイデッガーは、上記で見たように、彼の「自明性」の根拠として、

  • 再生

の極限形態において、その否定神学において、まさに、「だれもが生物学的な意味において、母親のお腹から産まれ、死んでいく」という意味において、

  • だれにでも成り立つ(=そういう意味において、「フラット」に成り立つ)

自明な関係から、

  • あらゆる

人間の「本質」を導こうとする。しかし、私に言わせれば、それは「神の手並み」なのである。この世界は、だれか一人の「内省」によって、構成することはできない。それは、さまざまな諸関係が、複雑に絡み合い、そういった人間の、生命活動の複雑な絡み合いの「結果」として、自生的に生成される秩序だから、である。

ここで『存在と時間』第三四節における「伝達」の分析に注目したい。というのも、他者に何かが「通じる」「伝わる」とはまさしく伝達を意味するからである。ハイデッガーによると、実存論的に解釈された「伝達(Mitteilung)」とは、一方から他方への情報送信ではなく、同じ事柄を「共に - 見せうこと」で、他者たちと「共に - 分かつこと(mit-teilen)」(SZ, 155)と規定される共存在のあり方である。それは他者への顧慮であると同時に「語り」の一様態でもあるが(vgl. SZ, 162)、語りには本質上、次のような「傾聴」が属しているとハイデッガーは言う。

<〜への傾聴>は、共存在としての現存在が他者たちに向けて実存論的に開かれていることである。その上傾聴は、各々の現存在が自分の許に担っている友の声を聴くこととして、現存在がその最も独自な存在可能へと、第一義的に本来的に開かれていることをも構成している。現存在は理解するから聴く。理解しつつ他者たちと共に世界内存在するなかで、現存在は共現存在と自分自身に対して「聴従的」であり、この聴従的のうちに所属している。(ibid., 163)

ハイデッガーは、「傾聴」というあり方が他者たちに対して開かれているだけではなく、それがまた「友の声」への傾聴として、それを聴く者自身の本来的な可能性にも開かれている、と述べている。

上記の引用は、ハイデッガーの分析の中で、最も、透徹した認識である。
つまり、むしろ、ハイデッガーは再度、「カント」に戻ったとき、その意味が復活する。
人間は、「経験」の存在である。つまり、産まれてから今に至るまで、ずっと、「聴従的」であり続けた、ということである。
ひたすら、外界に耳を傾け続ける。
つまるところ、私たちのこの社会を構成している、さまざな「ルール」は、こういった日々の「聴従的」実践の積み重ねによって、蓄積的に、積み上げられた何かだ、ということである。
アニメ「ディーふらぐ!」において、幼稚園時代の千歳(ちとせ)が、砂場で、ひたすら砂のお城を作っていたとき、まるで、

  • 神の恩寵

のように、タマちゃん先輩が現れて、砂場のお城を張り手で壊す。この

  • ショック

の感情こそ、「社会契約論」である。これこそ、社会契約論の

  • 原初の形態

なのだ。私が言いたかったのは、上記における、ハイデッガーの、なにもかもを

  • 再生

に「原因」を見出そうとする、その「神秘主義」なのである。私たちは、マルクスが強調したように、もっと、個々具体的な諸段階における諸相を重要視すべきだ。単純なモデル化は、むしろ、社会の実相を捕まえそこない、本質を見失う...。

始源の思索: ハイデッガーと形而上学の問題 (プリミエ・コレクション)

始源の思索: ハイデッガーと形而上学の問題 (プリミエ・コレクション)