戸田山和久『哲学入門』

人間とは、心が「ある」から人間なんだ、といった二元論は、一見すると、文学的であり、心の通じ合った「家族」の絆の意味を説明するように聞こえて、納得的に思われるかもしれない。
しかし、だとするなら、その心の「実体」がなんなのかを示さなければならない、ということになるであろう。
心とはなにか、と問うことは、言ってみれば、私たちが日々会話しているその文章の「意味」とは何か、と問うことと同値になる。
しかし、それについては最近、「構造主義」の文脈で語った記憶がある。シニフィエという「意味」が、結局、なんなのかについては、決定できない。そもそも、しばしば私たちは認知的不協和によって、自分で自分に嘘をつく。つまり、その人が語る「意味(=過去)」は

  • 捏造(ねつぞう)

されている。そういう意味において、シニフィエではなく「シニフィアン」こそ、事の本質を示しているのだ、と。
しかし、たとえそうであったとしても、私たちが、では、日常において生きている間に、なんらかの「リアル」に考える、諸々の現象は、なんなのだ、と。この、明らかに、今、自分の目の前にある、この「生々とした」実感は、嘘だとでもいうのか、と。たとえ嘘だとしても、その生き生きとした「これ」自体に、なんらかの説明もできない、ということはないはずだ、と。
おそらく、シニフィエとは、「それ」に関係している。
だとするなら、「それ」がなんなのかを指示できなければ、なにも説明したことにならないのではないか、というわけである。
しかし、そのように考えるとき、一体、何を「よりしろ」にすればいいのか? 掲題の著者は、それを「ダーウィンの進化論」に、再度戻って考えることに見出す。

最初、この世には生きものはいなかった。そのときは、この世で起こることを理解するには物理的スタンスで十分だ。ところが化学反応のスープの中から、生きものと呼べるような独特のシステムが生じてくる。そうなると、たとえば機能とか目的の原型のようなものがこの世に生じる。
この目的なるものは、最初はシステムにつくりつけになっている。つまり、システムは実現できる目的しかもたないし、その目的をいつでも直ちに実現しようとしてしまう。そういうつくりになっている。たとえば、カエルの「食べる」を目的としたシステムは、目の前に黒い小さな点(たいていはハエ)が現れると自動的に舌を伸ばして食べてしまう。いくら満腹してもそれは止まらない。ところが、そのうち、目的はやや独立してくる。つまり、果たされない目的をとりあえずもっておくことができるようになる。これが欲求の始まりだ。そして、この果たされない目的はさらに進化して、しまいには倒錯して「人生の目的」なるものに至る。
こんな具合に、人生に大切な存在もどきたちが、そうでないもの(原機能、原目的、原意味、原価値、原自由エトセトラ)から徐々に「湧いて出た」過程を再構成することによって、一枚の絵に存在もどきを描き込もうという寸法だ。

意味とはなにか。それは、私たちが「生きている」とは、どういうことなのかと、ほぼ同値のものである。それは、どういうことか。私たちが生きているということの意味は、単に、私が今の時代にこうして生きていることだけを意味しているわけではない。その含意は、私は、私の「祖先」が

  • ずっと

生きてきた、ということを含意する。上記にあるように、ある日、「生きものと呼べるような独特のシステム」が生まれた、その時から、私は、一子相伝で、今の自分に至るまで、

  • 命(いのち)のバトンリレー

によって、今の自分まで運ばれてきた。しかし、その場合、この一本の「道」を外れた端には

  • 死屍累々の屍(しかばね)の山

がある。私は「なぜか」その端の先に産まれることなく、「この端」に産まれついたがために、今、ここで生きている。
では、なぜ、この世界には生き残った枝と、そうでない「絶滅」した枝があったのか?
この問いは、決定的に重要である。なぜ全員が絶滅せずに、一部が生き残ったのか。つまり、その生き残った一部とそれ以外には、なんらかの

  • 差異

があったのか、が問われているわけである。
しかし、ここで注意がいる。生き残ったことが、「優秀」であることと一対一の関係にあると呼ぶことは、非常にミスリーディングだということである。むしろ、

  • さまざまな偶然によって
  • 局所的には「優秀」でありえた

という二つの要素の無限の組み合わせが、私たちを今、このようにあらしめている、と言うしかない。

本書では「心」というのはあまりに曖昧すぎるため考察の対象とはしない。しかし、こではしばらく脱線して、高級家電ロボットに心を帰属させることになぜわれわれはためらくのかについて考え、そこから「意味の理解」についてさらに考察するためのヒントを得よう。この問題については、信原幸弘が「ロボット心理学」という論文でブリリアントな考えを出してくれている。

欲求は環境への適応のための手段として見ることができる。一方、道具であるロボットにとっては、環境に適応して生存することが意味をなさない。したがって、ロボットには欲求を有意味に帰属させることができない。ところで、信念は欲求あっての信念である。なぜなら信念の機能は、欲求を満たすような行動を生み出すことにあるからだ。とするなら、こうしたロボットには信念もないことになるだろう。欲求も信念もないなら、心があるとは言えそうにない。

心をもつ、というのは何ができるかという機能の問題ではない。機能を高めていろんなことができるようにしていけば心をもつようになるというわけではない。人間にはまねのできない知的なことを行う人工知能が心をもたない一方で、ほとんど知的なことは何もしない原始的な生命だって原始的な心をもっている。心をもつもたないは、機能ではなく、その機能が何のためにあるか、つまり機能の目的の存在様式の問題なのである。
まとめると、ロボットに心をもたせるためには次のような設計をしなければならない。

  1. 環境の中で適切な行動をとらなければ自己を存続させられない仕組みになっていること。たとえばバッテリーが切れるとプログラムが壊れるとか、高所から落ちると壊れるとか。
  2. 自分のプログラムを書き換えて、変化する環境に適した行動の幅に広げることができる。
  3. うまく自己を存続させたときにだけ、自己と同じものを複製することができる。

これは、ようするにロボットが生きものに似たあり方をしていなければならないということである。つまり、ロボットは心をもち、十全な意味の理解をもつ前にまず生きなければならない。

ここの個所は非常に重要なことが語られている。私たちがロボットに「命(いのち)」がないと思うのは、ロボットが細胞のような内部を水で浸しているユニットによって構成されていないからでも、ましてや、まるで機械のような話し方をするからでもない。
多くの場合に、ロボットは、「生命が備えていなければならない」生き残り戦略をビルトインされていないから、なのである。つまり、ロボットは自己種的な広がりにおける、自動維持機能を備えていないから、

  • だから

そもそも、いわゆる「生命」と<同じ>行動戦略をもたないので、彼らがどんなに人間の言葉を「饒舌」に語ろうとも、それが、いざ、自分との関係を説明する場面において、

  • 少しも人間に似ない

ということなのだ。そもそも、人間を含んでいる「生命」概念から外れている限り、自己言及的には、人間とは違った「反応」にならざるをえない。言語が人間の反応の「一部」である限り、ロボットに「そうあれ」と言うことは、整合性のない話だ、ということである。

というわけで、意味とは何か、意味を理解するとはどういうことかという問いは、生きものが生存するために何かをする、という場面でこそ適切に問われるべきだということがわかった。「生きものが何かする」ということは、つまりは次のようなことだ。外界の状態について感覚器官から情報を取り入れ、その情報を処理して、外界の状態にうまく対処するための行動を生み出す。ま、ようするに、ハエが飛んできた。食べる。敵がきた。逃げる。といったことだ。こういった一連のプロセスを「認知(cognition)」と呼んだりする。そして、この認知がどんなメカニズムに支えられて、どんな風に進んでいくのかを研究する分野は「認知科学」と呼ばれる。

私たちは何かをする、という場合、これを二つのレイアーにおいて考えることが重要である。

  • 人間の「意志」と同値に考えられるような、一種の「自由」に関係するレイアー
  • もっと、生物が「反射」に近いところで行っているような「メタ」の命令によって自らが、自覚的かどうかはともかくとして、とにかく「行っている」レイアー

この場合、後者は、なぜ私たちが今、こうして生き残っているのかに非常に深く関係した場所であることに注意がいる。
なぜ、私たちは今、こうして生き残っているのか。
それは、私たちが結果としてであれ、生き残りやすい「性質」を多分にもっていたから、ということになる。私たちの「癖」は、結果的に私たちの生き残りに「有利」に働いた。私たちが

  • 快楽

に感じ、比較的に選びがちな行動が、こと生存に有利に働いた。いや。もっと別の次元においても、このことは指摘できる。

たとえば、「インフルエンザウイルスの抗体」という言い方を考えてみよう。この抗体はある特定の型のインフルエンザに結合してやっつけることを機能としている。そのウイルスがいまそこになくても、あるいは今後決して出会うことがなくても、その抗体はインフルエンザウイルスの抗体だ。

こういった感染症のようなものは、もしかしたら、一生かからないだけでなく、未来永劫だれもかからないかもしれない。しかし、ひとたび流行すると、もしかしたら、

  • 全員

が死に至るかもしれない。普段はまったく「無駄」なだけの機能だったとしても、この何万年に一度の「危機」を「それ」によってサバイブできた、のかもしれない。
つまり、確かに、進化において「能力」と呼びたくなることを原因とした「差異」が重要であることは間違いないのだが、まったく、そういった呼称で呼びたくなくなるような、ほとんど「偶然」と変わらないような契機によっても、簡単に左右されるところが難しいところだ、ということになる。
人間はより「高度」な生物だと考えられている。その場合、この「言語」の能力は、特徴的である。
その中でも特に、「自由」の概念は、非常に人々の行動を大きな意味によって、私たちの行動を社会的に説明してきた。
しかし、有名な命題としては「ラプラスの悪魔」がある。この世界は物理的に「決定」している。だとするなら、意志は「ない」ということになるのではないか? と。
この場合、どちらが正しいのであろうか?
それは「自由」という<言葉>が、どういった性格をもっているのかを考えることから始まる。
自由とはなんだろう? 興味深いことに、自由はある「否定」によって定義しなければならない。

自由は、単に予測のつかない仕方で行為する能力ではない。というか、そういう自由は望むに値しない。そういう「自由」に、われわれはちゃんと「放縦」という言葉を当てて区別している。ちんぴらは、気まぐれに人を殴る。彼らは衝動に駆られてそうする。そして殴るかどうかは完全にランダムだとしよう。しかしそれが自由か? むしろ、まともな親なら我が子がそのようなランダム性の奴隷にならないように育てようとするだろう。
というわけで、決定されていない行為でも、それが偶然の産物なら自由だと言いたくない、という直感がある。偶然の産物は、私がコントロールできていないからだ。私にコントロールできないことには選択の自由はないし、責任も生じない。

このように考えると、自由と「選択」は、まったく違う現象なんじゃないのか、とさえ言いたくなる。自由とは、選ぶことというより、

  • ずっとコントロールしていると思って「満足感」をもっている状態

だということになるのではないか。つまり、最終的に選んだか選ばなかったかなど、どうでもいい。

  • ずっと

自らの選択行為を「コントロール」し続けられた、と思えるかどうかが、それが「自由だったかどうか」の自分の感情を決定しているのではないか、と。

人間は、単に理由にもとづいて行為できるだけではなく、自分が行為しているその理由を知ることができる。この意味で、人間のもつ理由は反省的であり、人間の自由は反省的自由だと言ってよいだろう。

私たちが、なにかを「自由」だと思うときとは、いつだろう。おそらく、そのほとんどは「過去」について「想起」している、その行為に対してである。つまり、私たちが自由かどうかを考えるのは、過去の経験に対してなのである。その過去の経験が、自分が何度も想起を重ねた経験から、十分に「納得感」がもたらされたなら、私たちはそれが「自由だった」と思う、ということである。
そういう意味において、自由は、未来の問題ではない。つまり、すでに「選んだ」後に、それが「自由だった」と<思えるかどうか>が常に問われているだけだ、ということである。

巨大隕石が地球との衝突軌道を進んできていることが天文学者たちによって発見されたとしよう。間一髪で、天文学者たちが見落としていた別の小惑星が巨大隕石の軌道を変えて大惨事は避けられた。ところで、「避けられた大惨事」って何だ? そういうものは存在しない。二つめの小惑星がそこに現れることもずっと前から決まってたんだから、大惨事はそもそもあるはずもなかった。ということは、ラブラスのデモンの観点らは、何も避けられたわけではないのである。デモンの観点ではそもそも「避けられること」と「避けがたいこと」の区別は最初からない。

自由とは、私たち人間の「有限」性から必然的に強いられる、有限の情報に基づいた「予測」「期待」といった未来の可能性についての「仮説」が、人間が有限であるがゆえに

  • 強いられる

態度であるにすぎない。つまり、神の視点から考えるなら、そういった「予測」だとか「期待」だとかといった

  • 表現自体

が、理解不能なのだ(このことは、前半で述べたように、神が「生物でない」ことを強烈に意味する)。
つまり、自由とは、有限な人間が自ら生きていく戦略の一つとして選んだ、不完全な確率過程による、「予測」「期待」行為なのであって、そもそも、そういった不完全情報に

  • 基づいている

から、その結論としての「自由」が意味のある概念となったことを「忘れて」いたことに、上記の誤解の最も大きな理由だった、ということである...。

哲学入門 (ちくま新書)

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