フィリッパ・フット『人間にとって善とは何か』

前回述べたように、人間は二つの層によって生きている。

  • 意志(コントロール)=自由=計算の層(第一階層)
  • メタ道徳(=徳=ルール)層(第二階層)

前者は私たちが普通の意味において使っている「意識」になる。後者は、どこかグレーな部分を指していて、そういった明瞭に「ある」と思っている「意識」を

  • 成り立たせている

もっと無意識に勝手に私たちを動機づけ欲望づけている、どこかにある「本能」のようなものと考えればいいであろう。つまり、前者は、「意識」という明瞭な「殻(から)」そのものの話をしているのだが、そもそも、この殻が「ある」と言えるためには、それを成り立たせている

  • 媒体(=ポジに対するネガ)

がなければ、そんなことは言えないよね、っといったような話だと考えることができる。
意識とは、なんらかの、自らの意志を意識することによって、本能的な行動に、なんらかの「抵抗=ストレス」をもたらすような、意識の「反抗」的働きだと言えるだろう。
たしかに、こういったものがなければ、人間の複雑な社会行動は生まれえない。
しかし、他方において、後者はそこまで、古くさく、オールドファッションな、どうでもいい、態度だと言えるだろうか。
これを「動物」とのアナロジーで考えたのが掲題の著者の、「自然主義」だと言えるだろう。

本書で私は、道徳判断のあり方について----さまざまに異論はあろうが----現代の多くの道徳哲学者たちと非常に異なった見方を提示しようと思う。というのも私は、人間の意志や行為についてのわれわれの評価は、人間以外の生き物に特有のあり方や働きについての評価と共通した概念的枠組みのもとにあり、そのように考えて初めて適切に理解できると考えているからである。私は道徳的な悪(moral evil)は「ある種の自然的な欠陥」であると論じようと思う。以下の議論においては、「生のあり方(life)」という概念が中心となる。ここでは、ある人間の行為やその傾向性が善いという事実は、単に、特定の種の生き物が示す生き方についての事実のひとつであると考えられることになる。
このような提案をすることは、倫理にかんして自然主義的な理論を構想することである。つまり、ムーアの反自然主義や情緒主義、また(ムーアの本来の考え方の発展や明確化として考えられてきた)指令主義といった主観主義的な理論と根本的に縁を切ることである。

掲題の著者は、なぜ「道徳」と動物などに見られる「本能」のようなものを同一視しようとするのか。
それには、この状況を、むしろ、動物や植物の側から考えた場合に、興味深く思われる。
たしかに、ある動物は、目の前にハエが見えたら、飛びついて食べる。しかし、もしもそれをしなかったら、どうなるか。つまり、その動物がそういった行動をやらないと考えたとき、それが何を意味するのか、なのである。
もちろん、このことが含意していることは、その動物の「餓死」である。
ところが、である。
もしも、その動物が「餓死」するなら、今ここに、この動物はいないのだ。つまり、とっくの昔に、この動物は絶滅している。なぜなら、目の前のハエを食べようとしない、この動物の口に無理矢理、食料を押し込んでくれる、動物園の飼育係のような人間なんていないのだから。
だとするなら、この動物の、こういった「慣習」は、決して捨てられない、ということになる。
こういった分析は、アリストテレスの「カテゴリー」に近い。つまり、こういったものから、人間そのものも「動物」であるという意味における、

  • 類似のカテゴリー

を、人間にとっての「道徳」の根拠との連続性を考えることには、それなりの根拠があるんじゃないのか、ということなのである。

「善い」とか「悪い」といった評価が食物や動物の特性や働きに適用される事例を論じてきたが、ここで、その議論で明らかになってきたいくつかの点を確認しておこう。

  • (a)食物や動物には、おおよそ自己維持と生殖からなるライフサイクルが存在する。
  • (b)それぞれ生物種にはこのライフサイクルを達成するあり方を述べる命題群が存在する。たとえば、栄養摂取のあり方、成長のあり方、どんな防衛が可能か、生殖をどのように実現するかなどである。
  • (c)こうしたことから、さまざまな規範が導かれる。たとえば、シカには俊敏性、フクロウには暗視能力、オオカミには共同狩猟などを要求する規範である。
  • (d)当該の生物種の個々の成員にこれらの規範を適用することで、その成員(つまり、その個体)はあるべきあり方をしているとか、あるいは反対に、この個体にはこの点で何らかの欠陥があるなどと判断される。

以上の点にかかわる詳細について立ち入る必要はないだろう。しかし、ここでさらに述べておかなければならないのは、「何」がその生物種のライフサイクルなのか、そしてそれは「どのような」ライフサイクルなのかにかかわるアリストテレス的カテゴリー文が、歴史的な時空のさまざまな場面にいる個々の生き物についての規範的評価を下すさいの仕方についてである。
具体的な例として、シカは逃げることをその防衛形態とする動物であるというアリストテレス的カテゴリー文について考えてみよう。このことからわかるのは、シカにとって足が遅いことは欠陥であり、弱点であるということである。しかし、これについてはふたつの点で注意が必要である。第一に、シカにとって敏捷性はあくまでも生存に適しているにすぎないということである。状況によっては、この種の動物としては最速のものでさえ生き残るのに十分ではないこともあるだろう。さらに、ある捕食者からもっとも早く逃れるシカがまさに罠にかかるシカであるということもときとして起こりうる。第二に何が卓越していて何が欠陥であるかは、その生物種の自然な生息環境との連関で考えられることになる。シカのような逃げる動物はうまく走れないならば、動物園にいるために、たまたま安泰で、防衛や食事、また生殖や子育てなどにかんしてどんな不利益もなとしても、うまく走れない点で欠陥があり、シカとしてあるべきあり方をしてはいないことになる。
ある種の動物の生の形を記述するさいに、さらに考えなければならないのは、彼らが協力して生きる点である。シカの敏捷性は、捕食者から逃れることで自身の生命を守るのに適している。また、フクロウという種の暗視能力は、そのフクロウが生き残り、子育てするためには、必要である。これに類する例は動物の生で枚挙にいとまがないが、しかし、「他者にかかわる(other-regarding)」善さや欠陥と呼べそうなものがあることも事実である。たとえば、どこに食べ物があるかを他のハチに教えるミツバチのダンスを考えてみよう。ダンスしない一匹のミツバチはその怠慢ゆえに何か害を被るということはおそらくない。しかし、ダンスをしないというまさにその事実のゆえにそのハチには具合の悪いことがある。それはこのミツバチという生物種の生のあり方においてダンスが果たしている役割のゆえである。同様に、オオカミの生において協力は、その善を決めるものであり、ただ乗りしているオオカミはあるべき仕方で行動していない。こうした事実は、動物と人間の「生の形」の類似と相違を考えるさいに重要なことになるだろう。

ここで指摘していることは、いわゆる「欲望」といったものと同一視していいのかは、単純ではない。人間は、結局のところは、自分の利益にしか興味がない、利己的な存在であるということを「欲望」と同一視したとき、では、上記の引用にあるような、「協力」をどのように考えたらいいのか。
つまり、なぜ人間は長い間、協力行動を行ってきたのか、と問うことになる。もし、自分の周りの人間を犠牲にすることで、自分が生き残ろうとしたなら、周りの人間は、その行為を目撃したとき、どう思うだろうか。なんらかの不快な感情をもつのではないか。つまり、そのエゴイスティックに振る舞った本人に対して、非協力的な態度をとるようになるのではないのか。
つまり、こういったように「結果」として、自らの生存戦略に周りが非協力的になり、自らの生存戦略に成功しない、ということなのだ(こういった人たちは、はるか昔から、たくさんいたであろう。しかし、往々にして、こういった人たちは、生き残れなかった。周りから、多くの恨みを買い、非協力的な扱いを受かたから...)。
掲題の著者の戦略は、道徳の「根拠」を示すことである。この場合、その道徳が、厳密な意味で、私たちの全てを縛るかどうかは、また別の話である。というのは、最初に考察したように、二つの層において考察されるから、である。つまり、ここで考えているのは、あくまでも、動物カテゴリーとの類推によって想定される「メタ・ルール」についてであって、これらを

  • 内省

することによって「選ばれる」、自由の層に対しては、また別だから、である。
しかし、だとするなら、この「メタ・ルール」は、一体、なんなのか、という問いを、どうしても避けられないように思われる。そのことは、例えば、ニーチェが考察した「憐憫道徳」の欺瞞性の議論との緊張関係によって、示される。

こうした理由から、ニーチェの反道徳主義の道筋に向かうことにしよう。つまり、彼の初期の著作----たとえば『人間的、あまりに人間的』----においてとりわけ顕著だったキリスト教的な道徳のあり方に対する攻撃である。そこでニーチェが反道徳主義者を自称し道徳を攻撃したときの主な標的は、「憐憫道徳」であった。すなわち、「畜群道徳」と彼が呼んだキリスト教の教義である。この道徳は、「弱く下位にある者」の道徳であることを標榜しながら、じつは無慈悲でとりわけ怨念を抱いていることを隠し、「親切心」に満ちた行為をすることで、その行為の受け手を貶め、行為者自身の自尊心を鼓舞しているのである。

彼は利他主義を公言することにはしばしば不誠実さが伴うことと、われわれが日常的に行なう多くの親切な行為の背後には虚栄心や悪意が潜むことを見てとっった。しかしもちろんそれだけでなく、彼はさらに論を進める。ニーチェによれば、われわれが他者に親切をするのはその人に自分をよく思ってもらうためであり、そして、この善い評判を買い戻すことで、自己嫌悪を慰めている。われわれは他者の不幸を語ることで自分の無能さから解放される。われわれは自分の徳を見せびらかすことで、他者に苦痛を与えている。このようにすることで、われわれは何よりも、自分が道徳による統制を受け入れなければならないことを恨んできるのである。

ここでニーチェが言っていることは、

  • あらゆる「行為」は、「悪の動機」によって行われうる

ということである。他者を「かわいそう」「助けてあげたい」と

  • 言って

行われる、どんな行為も、その行為「そのもの」によって、その「善」性を決定することはできない。つまり、どんな行為も、悪の「衝動」を媒介にして、行われうる。動機の「純粋」性を担保しない、ということである。
しかし、だとするなら、ニーチェは何が言いたいのか、ということになるであろう?

帰巣中のハチのダンスはほかのハチたちを花蜜のありかに導くから、その蒸れの生に有益な役割を果たしている。だが、この想定が疑問視されていた時期もあった。そこで、帰巣したハチの個体の運動に反応することで他のハチが花蜜を見つけるという前提がそもそも真ではなかったと想定してみよう。この場合には、ダンスをする個体自身の生のなかでダンスが何か役割を果たさない限り、つまり、帰巣する個体が自分自身の善のためにダンスすることが必要なことでない限り、ハチがダンスすることにはどんなメリットもないことになり、ダンスをしないということだけであるハチ個体に「自然的欠陥」があるとされることにはならないだろう。
以上は、ある評価が再評価されうる手順の概略である。この手順は、原理的には、人間の特徴や役割に対する評価が問題となるときにも変わらない。たとえば、肥満が不健康をもたらすことが認識されるより前には、できるだけ太っていることが人間にとって善いことであると考えられてきたようである。

ニーチェは「道徳の再評価」ということを、何度も強調する。つまり、そういう意味において、ニーチェの主張は、道徳の全否定というより、私たちが「善」と言っていることの多くは、動機が不純なものであり、そう指示するにふさわしくない、つまり、私たちの道徳の「定義」を変えなければならない、ということを含意している、と言える。
だとするなら、ニーチェは一体、何を「道徳」と呼ぶべき、と言っているのか?

「憐憫道徳」とニーチェが名付けたものに対する彼の攻撃についてはここまでにしておこう。この主題は彼の著作に通底しているが、次第に彼は、別のさらにいまわしい見解へと移っていった。というのも彼は、どのような行為にもその行為に「内在するそれ自体としての悪さ」はないとまで論じることになったからである。一八八七年に出版された『道徳の系譜』でニーチェはこう論じている。

正と不正をそれ自体として論ずるのはまったく無意味なことである。生きることが本質的に、すなわちその根本機能において侵害的、暴圧的、搾取的、破壊的にはたらくものであって、こうした特徴なしにはまったく考えられないものである限りは、侵害も暴圧も搾取も破壊もそれ自体としては何ら、<不正なもの>ではない。

自然主義と言う場合、実は、三種類のものがある。

この三つのうち、最後が、本書の立場である。では、第一は何か、というと、ようするに、道徳の根拠を物理学から導こうとする立場である。
こんなことは、本当に可能なのだろうか?
しかし、可能かどうかという問いは、一見すると本質的に聞こえるかもしれないが、そうではない。というのは、むしろ、物理学的道徳とは、

  • 道徳など存在しない

という主張と同値だからだ。むしろ、この立場は、道徳にはなんの根拠もない、ということを言うために選ばれた立場だとさえ、言いたくなるわけである。
道徳や善など、この世に存在しない、と言いたがる人間は、道徳は物理法則でない、ということを言っているにすぎない。
ところが、そういった人間に限って、無礼な振舞いに逆ギレする。他者の不遜な行為に我慢できない。
だとするなら、そのことを主張する、どんな「根拠」がありうるのか、と問うしかないであろう。
つまり、これは「説得」の一つの手段なのである。
間違いなく、20世紀の戦争の世紀は、ニーチェによって、導かれた。ヒットラーも、こういったニーチェの、反道徳主義に、大きく影響され、自らを正当化した。
確かに、ニーチェの主張は「危険」である。ニーチェは、上記にあるように、

  • 一つ一つの「行為」を、善悪にマッピングできない、と言ったからだ。なぜ、ニーチェはそう考えたのか。

それは、「憐憫道徳」がそうであったように、形式的な外面の「行為」だけを見ても、そこから、そう行為した本人の「動機の善性」をまったく担保できないからだ。
つまり、ニーチェは「共感は信用できない」と言ったのだ。
ニーチェは「共感」によって、社会システムを構築しようとする「あらゆる」運動を、「憐憫道徳」として拒否する。
そういう意味において、確かに、ニーチェは20世紀に影響を与えた最も「危険な思想家」であったと言えるであろう。
ところが、である。
他方において、掲題の著者が付言しているように、ニーチェは、こういった意味で私たちが考えるよりも、ずっと「道徳家」であった。
どういう意味か。

ともあれ、彼自身の見解はこれとは異なっている。ニーチェの見解は、行為における正・不正が何がなされたかによって決定されうるとすれば、なされたその行為がそれを行なった人の特定の本性とある仕方で関係していなければならないというものである。したがって彼は、あるタイプの人びとを残酷な怪物とか放蕩な野獣として(どちらについても躊躇することなく)酷評したが、過去の貴族たちについては寛大に語っている。彼の理解では、この貴族たちは略奪や殺人、そしてレイプといった行為を「たわむれごと」(spottisch)としていたのである。
このような発言をした事実から、ニーチェは疑いもなく反道徳主義者であると言いたくなるかもしれない。だがおそらく、ニーチェに適用された「反道徳主義者」という言葉の意味は、じつはそれほど明確ではない。というのも、結局のところ彼は、人間のタイプにかんする道徳判断といったことを認めているからである。

こういった主張をどのように解釈するかは、難しい。しかし、いずれにしろ、ニーチェは、その人間を「全体」として捉えたとき、始めて、なんらかの「全体」としての全人格のようなものが把握され、そこにおいて、

  • 道徳はある

という考えなのである。そういう意味において、ニーチェは少しも道徳をあきらめていない(道徳の再評価をしているだけで)。
(もちろん、そう言った場合の、ニーチェの考える道徳の「モデル」が、私たちにとって、どこまで説得的かは、まったく話は別である。ニーチェが暗に示唆している「超人」といった、どこか「貴族」的な諸特性が、果して、どこまで説得的に、現代の人たちに受けとられるかと考えるなら、私なら、かなり懐疑的にならざるをえない...。)
確かに、ニーチェの反道徳主義は、危険思想だったと言っていいし、実際に、20世紀において、そのように機能してきた。しかし、もっと危険な思想は、上記で考察したように、

だと私は思っている。彼らは、道徳など存在しない、と言うことによって、本気で、非道徳的に生きようとしている。貧乏人を差別して、自分たち富裕階層で、至福の限りを尽すことを、生き甲斐にしている。
というのも、道徳など、この世に存在しないからだ。そういう意味において、彼らは、社会革命家だ。彼らは、

を目指す。それは、道徳のない社会である。彼らの目標は、一切を物理学によって記述し、社会から道徳を一掃することである。
しかし、である。
そういった社会は、どこまで、「持続可能性」をもつだろうか? だれもが、自らの「利益」のみを導きとして生き、他者を利用して、自分の至福を肥やそうとする。こうして、その人は、多くの人から恨まれて、非協力的な扱いを受けて、没落していくのかもしれない。しかし、その人にとってみれば、そういった扱いは「受け入れがたい」というわけであろう。なぜなら、

  • 道徳

に反するから。自分でその道徳を斥けるために「革命」運動をしていたはずなのに...。

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

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