石川忠司『孔子の哲学』

結局のところ、論語は何が言いたいのだろうか?
このことは、昔から、論語における「仁(じん)」という言葉と共に、疑問に思われてきた。
もしも、「仁(じん)」という言葉が、いわゆる仏教における「慈悲」のような、「愛」や「真ごころ」や「思いやり」と同値の言葉と考えるなら、どう考えても、論語において、「仁(じん)」という言葉は不要であり余計なのだ。例えば、以下の命題になると、もう、何を言っているのか分からなくなってくる。

「仁」を十全に内面化し、それにしたがって自己を再組織した上で「礼」にのっとり、愛に満ちた数々の行為を世界へ施していけなどと、孔子はそんな無茶な作業を本気でぼくたちに要求しているのだろうか。「雍也30」の言葉を引用しよう。

子貢が曰わく、如し能く博く民に施して能く衆を済わば、何如。仁と謂うべきか。子の曰わく、何ぞ仁を事とせん。必らずや聖か。尭・舜も其れ猶お緒れを病めり。夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く取りて誓う。仁の方と謂うべきのみ。
(子貢が[仁のことをおたずねして]「もし人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら、いかがでしょう、仁といえましょうか。」先生はいわれた、「どうして仁どころのことだろう、強いていえば聖だね。尭や舜でさえ、なおそれを悩みとされた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行かせてやって、[他人のことでも自分の]身近かにひきくらべることができる、[そういうのが]仁のてだれだといえるだろう。」)

仁は「聖」ほどまでに、超越的ではない、と。だとするなら、仁を、「慈悲」や「愛」や「真ごころ」や「思いやり」と同一視するような観点は、どこか、孔子の意図から外れている、ということにならないだろうか。
孔子は、仁という言葉に、一体、どういった「意図」を込めたかったのだろうか。なにが言いたいのだろうか?
この言葉がなくても、孔子の言いたいことは十全に語れるように思われる。むしろ、この言葉があるがゆえに、論語はどこか「矛盾」した内容にさえ読める形になっているようにさえ思われる。
例えばそれを、掲題の著者は「仁(じん)のパラドックス」と言って強調する。

孔子は「仁」についてこう言っている。

子の曰く、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、ここに仁至る。[述而29]
(先生がいわれた、「仁は遠いものだろうか。自分から仁を求めれば、仁はすぐにやってくるよ。」)

ここで「仁」はその境地への到達が簡単な、実にコンビニエンスなもののように扱われている。「仁」はたやすい、誰もが思い立ちさえすれば、今すぐにでも手に入れらっるだとう、というわけだ。

ところが『論語』には、一方でまた次のような言葉も収録されているから、まったく始末におえないわけなのだ。

曾子曰く、士人は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己れが任と為す。、亦た重からずや。死して後已む、亦た遠からずや。[泰伯7]
曾子がいわれた、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」)

「述而29」の言葉とは対照的に、ここでは「仁」を手に入れ、それを維持するさいのまさに超人的な努力が強調されている。あるいは「衛霊公9」の読者の肝っ玉を鷲づかみにする実にドスの効いた言葉。「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り(志しのある人や地の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすててでも仁徳を成しとげる)」。

仁は、一方において、行うに「容易い」と孔子は言う。ところが、である。上記にあるように、孔子は、そう言った端から、仁は簡単になしうるようなものではない、とまで、言うわけである。
さて。
孔子は何が言いたいのか。
さらに驚くべき発言が以下である。

しかし今ここではそうした真っ当な見解を思い切って無視してみたい。「狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり(狂の人は[大志を抱いて]進んで求めるし、狷の人は[節義を守って]しないことを残しているものだ)」(「子路21」)、もしくは「吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す......(うちの村の若ものたちは志が大きく、美しい模様を織りなしているが......)」(公冶長22)と言い、「狂」に対してはっきり共感的だった人間、さらに自らを規定して、

憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ......[述而18]
([学問に]発奮しては食事も忘れ、[道を]楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいる......)

と言い、「発憤」の価値について熱く語った人間、そんな人間の思想の神髄に接するには、こっちだって負けずに「狂」の徒となり節度を忘れ発憤するほかないと信じるからだ。

仁を、「慈悲」や「愛」や「真ごころ」や「思いやり」と同一視するような観点から考えたとき、

  • 狂の人は[大志を抱いて]進んで求めるし、狷の人は[節義を守って]しないことを残している

といったような、どこか「狂」であること「そのもの」に、人間的な親しみを感じているかのような、孔子の発言は、あまりにも、かけ離れているように思えてしょうがない。
うーん。
仁とは、どういったものなのだろうか?
この問題を、どういった観点から切り込めばいいのか、については、非常に難しい。しかし、ここでは、前回検討した、「アリストテレス的カテゴリー論の延長にある自然主義」の観点から、検討するとするなら、どうなるだろうか。
孔子が終生を賭けて、語ろうとしたこととはなんだろうか。おそらくそれは、「学習者」の態度なのではないだろうか。おそらく、孔子は、自分が何か、気の効いた、新しいことを言おうといったような姿勢が見られない。
これは、孔子が「偽善者」だから、であろうか?
だれもが、功利主義的な意味において、自分の利益を拡大しようと行動するものだと考えるなら、それは、隠微に、どんな表現においても、その「裏」には、自分の利益を拡大するための、「欲望」が隠れているはずである。
だとするなら、あらゆる、その人にとっての「行動」は、一種の

  • 芸術作品

だということになるであろう。つまり、生きることそのものが、その「生きている」という行動が、一つの「対象」として、他者にとっての「価値」となる。
例えば、その人が話す言葉は、それ、そのものとして、「人々にとって」価値ある「知」だというわけである。
ようするに、この場合、芸術と科学が区別されない。価値のある発言は、今まで誰も言っていなかったことであり、今、始めて、この場で生まれた「知」であり、そうであるがゆえに、

  • 価値

があるわけである。ということはどういうことか。奇抜であればあるほど、人類が今まで、タブーにしてふれようとしなかった禁忌に迫るという意味で、危険ではあるが、それだけ真実に迫っているという意味で、「人類の進歩に貢献している」というわけである。
ところが、孔子は何を言っているか。むしろ、これとは「正反対」のことを言っているのだ。

子の曰わく、吾れ嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり。[衛霊公31]
(先生がいわれた、「わたしは前に一日じゅう食事もせず、一晩じゅう寝もしないで考えことがあるが、むだであった。学ぶことには及ばないね。」)

孔子は、論語の学而篇の最初からそうであるように、そもそも、彼は、どうも「学ぶ」ことにしか興味がないようなのだ。なにか新しいことを生み出そうとか、そういった意欲に欠ける。
孔子は、つまりは、学習至上主義者のようなところがある。この場合、上記の引用の個所は、その徹底した受動性を強調しているのではないか、と思われる。私たちの通常の観念からすると、思考は至上の価値であると思っている。考えるから人間だったんじゃないのか、と。
ところが、孔子の価値観において、重要なことは、「学ぶ」ことであって、考えたり、思ったり、といったことではない。このことは、何を意味しているのであろうか。
おそらく、孔子は、学習者が、示す「認識」の普遍的な意味を強調しているのであろう、と思われる。
私たちが「学習」をやめるときとは、どういうときであろうか。他人の話に耳を傾けなくなったときである。つまり、他人の話を聞かないで、自分の言いたいことを言い始めたときだ。
つまり、それは、上記における、

  • 芸術的態度

をとり始めたときなのである。
しかし、こういった態度は、どこか「危険」なのだ。他人から学ぼうという姿勢が、私たちから失われたとき、おそらく、最も大きな「誤り」を犯すことになる。そういう意味において、学ぶことは、最も重要な要素なのだ。
学ぶ姿勢を失うから、大きな誤謬を招き寄せてしまう。
こういった観点は、どこか、スピノザにおける「認識」の重要性と通じるものを感じる。あらゆる態度を、認識的受動性の延長に考えるスピノザは、孔子の考える「学ぶ」態度と近いものを感じる。
「学ぶ」とはなんだろう?
学ぶということは、過去の人たちの言葉に耳を傾ける、ということである。なぜ、そうするのか?
それを、前回の、アリストテレス的カテゴリー論で考えることもできるであろう。なぜ、人間は過去から今まで、生きてこれたのか。
それは、ある種の「ルール」に従ってきたから、である。
つまり、多くの動物や植物が、ある決まった本能の範囲で、生きており、そういった範囲から逸脱していないがゆえに、強力な生存戦略を種のレベルで維持できているように、人間にも、そういったメタ・レベルの、私たちの生存を成り立たせている、「本能」的な規範があるのではないか、また、そういったものを過去の人たちは、「体現」していたのではないか、ということなのである。
芸術とは何か?
芸術とは、こういった規範を逸脱することである。そうすることで、社会のルールを破壊することで、

  • 新しい

なにかを、この世界にもたらす、ことを意味する。つまり、なにか「新しい」ことをやることが、

  • その芸術家自身が、旧来の慣習から逸脱しようとしない凡人を「超える」価値を体現する

ことになり、その人自身の社会にとっての「価値」となる。しかし、逆に言えば、こういった「芸術家」は、社会破壊者でもある。つまり、

  • 人間の滅び

をもたらすことを「目的」にすらしている。つまり、そういったことをやろうとするのでもない限り、そもそも、そんなものは「新しくもない」とも言えなくもないからである。
オウム真理教が、地下鉄にサリンをばらまいたように、「芸術家」は、社会破壊者でもある。社会を破壊することが、「新しい」ことを担保する。芸術家は人類の滅亡を「担保」に、自らが「社会に新しいことをもたらす」という

  • 価値

を人々に「承認」させる。自分が、世間からチヤホヤされることを、この社会全体の「滅亡」と秤にかけて、もたらすわけである。

子の曰わく、学びて時にこれを習う。亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。[学而1]
(先生がいわれた、「学んでは適当におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。[そのたびに理解が深まって向上していくのだから。]だれか友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。[同じ道について語りあえるから。]人が分かってくれなくとも気にかねない、いかにも君子だね。[凡人にはできないことだから。]」)

孔子は、間違いなく、「仁(じん)」を、学習者の謙虚に学ぼうという姿勢に見出そうとしている。だとすると、上記でも指摘したように、功利主義的な、自己の「欲望」と矛盾するのではないのか、という疑惑が浮ぶわけである。つまり、

  • 偽善者

なんじゃないのか、という。人はだれだって、他者から認められたいという「欲望」、つまり、承認欲求をもっているのであって、それを否定する、あらゆる存在は「偽善者」だ、というのが、ヘーゲル市民社会論であろう。孔子は、これに矛盾しているんじゃないのか、つまり「偽善」なんじゃないのか、という疑問があらわれてくる。
しかし、こういった解釈は、いわば、「仁(じん)」を、「慈悲」「愛」「真ごころ」「思いやり」と同一視せずにはいられない、凡庸な思想家たちが、自分たちの欲望を他者に反映しているにすぎない。
「仁(じん)」は、学ぶことへの「狂的」なまでの「欲望」を意味している。
例えば、上記において、芸術について検討したが、そもそも、よく学ぶことのない、芸術など、ありえるであろうか。謙虚な学習の姿勢なく、芸術が芸術たりえるわけがないという意味においては、芸術においてさえ、徹底した学習は「前提」だ、とも言えるわけである。
「仁(じん)」と前回検討した「悪」との関係を考えてみよう。どんな慈善的な「行為」も、その「動機」において、不純な悪の欲望を内包していないことを示すことはできない。つまり、行為はその動機の潔癖さを担保できない。つまり、「礼(れい)」は、「仁(じん)」を担保しないのだ! 「仁(じん)」とは、学習者のアナロジーによって、つまびらかになる。学びの「道(みち)」を極める人は、日々のその一歩一歩は、朴訥(ぼくとつ)な、不器用なものであったとしても、それを愚直なまでに続けて行った、その「蓄積」は、大きな熟達へと至る。そういう意味において、「仁(じん)」は、その人の個別の行為(=礼)ではなく、その「全体」、歴史的な「全体」を<指示>するとき、なにか、そういったものが「ある」と言わずにはいられないような、なにかだ、ということなのである。
「仁(じん)」とは、間違いなく、<学習>に関係している。なぜ、仁は「容易い」のか。それは、私たちが、学ぼうと始めようとするときを考えてみればいい。そういった場合、なにか難しい通過儀礼があっただろうか。なにもありはしない。そういう意味で、だれでも、学びの園(その)に入るときは、容易だ、ということである。
では、なぜ仁の実現は「難しい」のか。それは、私たちが、学習を続けることを考えてみればいい。私たちが、一生、勉強をやってやろう、と思ったとき、では、実際にそれを続けられているだろうか。多くの場合、さんざん、さぼってしまうのではないか。つまり、そういう意味で、継続することは難しい、ということである。
「学ぶ」ことは、「道(みち)」である。では、そもそも、どういった場合に、この「学び」は、続くのか。ここにおいて、

  • 狂(きょう)

が関係してくる。つまり、何が狂っているのか、である。つまり、私たちの「学ぼう」という姿勢が、まるで、狂った人のように、そのメタ・態度が、狂熱的な意欲をもっている、ということである。つまり、学ぶことを「楽しんでいる」のだ!
ここにおいて、上記の、学而篇の上記の個所の最後の意味が分かるであろう。小人が、こういった意味で、「仁(じん)」を体現したかのように、学習にのめりこむ人を嘲笑したとしても、賢者は、そんなことにまったく気にならないくらいに、そこまでに、

  • 狂熱的

に、純情な目で、まっすぐ見つめ、学習そのものにのめり込んでいるような、孔子の弟子の姿に、孔子自身が「ほほえましく」感じている、ということなのである。つまり、孔子は、そういった弟子の姿が好きなのだ...。

孔子の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

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