大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?』

奴隷の定義とはなんだろうか? こう言ったとき、例えば、東アジアにおいて、さまざまな少数民族が、滅ぼされ、その末裔たちが、「奴隷」として生き残ることを許されてきたことや、アメリカにおいて長く続いた黒人奴隷の歴史を知らないで言っているわけではない。そういう意味において言うなら、奴隷という形態があるという主張を疑っているわけではない。
そうではなく、つまり反対の意味で、どんな条件が奴隷をそう言うことを「定義」しているのか、ということなのである。
私たちは、この日本で生き、生活しているとき、もちろん、なにも知らず、生まれたときから、なぜか、私はこの日本の住民にさせられていて、少なからずの税金を払わされている。
これは間違いなく、強制である。
では、この強制が「奴隷制度ではない」と言うためには、どういった条件において、主張するのか、ということになる。
これについての、一つの考え方が、民主主義になるであろう。つまり、国民の多数決で、税金を払わなくてもすむ国にしよう、と決めたら、そうなるんだ、と考えれば、

  • その人の主張で「変えた」

とも考えられるのだから、「自由」だと考えようじゃないか、となるわけである。
しかし、これは非常に不自然な話である。民主主義は、別に、人々の

  • 自由

を実現する「ため」の何かではない。少なくとも、定義上、そうではない。民主主義は、たんなる政策決定システムにすぎない。つまり、民主主義が「奴隷制」を決定することは、普通に考えられる。
私がこだわっているのは、徹底して、この境界線なのである。
例えば、もしも、私たちが国中に置いてある「監視カメラ」によって、監視され、発言の全てを録音されていた、とする。
これを奴隷とのアナロジーで考えてみよう。奴隷は、まず、逃亡を防ぐために、常に、監視カメラで監視されている存在である。奴隷は、逃亡の計画をたてていないかを知るために、常に、監視され、奴隷の発言を記録されている。こうすることで、奴隷が、その拘束から逃れて、奴隷としての労働を果さなくなるリスクを防いでいる、というわけである。
ところが、である。
そもそも奴隷は「健康」にされなければならない。なぜなら、奴隷は労働資源だから。常に、監視カメラによって監視することで、奴隷の健康状態が一瞬でも変わったなら、すぐに、治療が施される。
(もちろん、こう言うと、いや。「安ければ」、使い捨てにされるよね、と言われるかもしれない。しかし、そんなに質の良い労働力というのは簡単に集まるものなのであろうか? もしも、そんなに質がいいなら、だれもが「買いたい」であろう。よって、このように考えるなら、その差異はそれほど重要ではない、ということになるのではないか。)
しかし、これと同じことは、むしろ、現代市民社会において「実現」されてきている、と言えなくもない。
市民は、街のさまざまな所に設置されている、監視カメラによって「監視」されている。市民が「正しく」あるように!
さて。
確かに、奴隷と市民は違うじゃないか、と言う人がいるかもしれない。それは「職業選択の自由」に関係している。
奴隷は強制的に、ある仕事をさせられる。やらなければ、強制が加えられる。ところが、市民は、どの仕事をやらなければならない、といったことが言われることはない。
しかし、このことが本質的な差であるのかは、考えなければならない。そもそも、歴史的に日本において、「家(いえ)」とは、家族的職業のことであった。つまり、家には、家業というものがあって、長男は家を「継ぐ」のであって、そのことと、職業自由は、どこか実態に合っていない。実際、それぞれの「家(いえ)」は、その家業を先祖が引き継いできたことによって蓄えられた、

と区別できない形で成立してきた。つまり、家の財産とは、家業と密接に関わった形で成立してきたものであり、今も現にそうある、ということである。
しかし、こう言うと、次のような反論が返ってくる。たとえば、次男などの家督を継がない人や、そういった家長の嫁になるわけでもない人たちはどうなのか、とか、そういった財産をもっている百姓ではない、多くの小作人にとっては、別に、そこで百姓に、こき使われ続けなければいいんじゃないのか、と。
しかし、こうなってくると、むしろ、話は逆になってくるのである。
なぜなら、なぜこういった人たちが、そういったことになっているのかは、つまりは、「お金持ちじゃないから」なのであろう。つまり、彼らは、そういったライフ・スタイルを好きで選んだわけではないのである。
彼らはお金がない「から」、ノマド的な労働形態を選んでいるにすぎない。つまり、ある意味において、彼らは

  • 最初から「奴隷」

なのである。彼らは、そもそも、お金がないのだから、働かなければならない。なぜなら、働かなければ、税金を払えないのだから。つまり、彼らは税金を払うために、働き続けなければならない。働いて、自分が国家から受ける福祉のお金を「返さなければならない」のである。
私たちは、こういった生活形態を「奴隷」と言っていたのではなかったか?
なぜ、国民は「奴隷ではない」と言われるのか。ところが、明治時代のつい最近まで、国民とは市民ではなく、「臣民(しんみん)」であった。これは、一種の「奴隷」ということではないのか?
しかし、もし国民が「奴隷」だとするなら、

  • 誰の奴隷

なのだろうか。つまり、だれの「所有物」なのだろうか?
また、こんな空想をしてみよう。もしも、国民が国家の「奴隷」だとするなら、その国民を、別のどこかの国に「売る」ことは、

  • 許される

のか?

もちろんそれはある程度当然のことである。だが第一に、この時点の戦場はまだ大量死の待ち受ける場ではなかったということには注意する必要があるだろう。日清戦争(一八九四−九五)では、戦死者(一一三二人)より圧倒的に多くの戦病死者(一万一八九四人)が発生している。日露戦争(一九〇四−〇五)の、特に旅順攻略戦において要塞と機関銃の前に大量の戦死者を出すまで、戦場での最大の危機は病気であったと言えるだろう。大量殺戮の二〇世紀は、まだ来ていない。約六万人の戦死・戦傷死者と、二万三〇〇〇人の戦病死者の関係が逆転したとき、はじめて時代は変わったのだ。

私たちは、ある誤解をしている。それは、私たちが第二次世界大戦が終わった世界を生きているからだ。それ以前の世界において、上記の引用にあるように、まだ、

  • 大量戦死者

を体験していない。つまり、それまでの社会は、戦争をしても、たいして人が「死なない」社会だったのである。だから、

  • 英雄

という表現が生き残れた。つまり、それまでの社会において、軍人になることは、まったく違った意味において、存在したのである。

さらに言えば明治の軍隊は、貧しい日常とは違って、真っ白いご飯が腹一杯食べられるところでもった----そのことがビタミンB1不足による脚気蔓延を通じて大量の戦病死者発生の原因になってしまったことは、皮肉と言うしかないとしても。

建軍当初から兵役は国民にとって負担でした。しかし軍隊生活が、ことに農山村の次三男たちにとっていやなものではなかったのは、軍隊では三食ともに思う存分白米が食べられたからでした。雑穀や雑穀とのカテ飯主であり、白米はハレの日の食物にすぎなかった在宅時おり、食生活は総じてよかったのです。連隊や士官学校から払い下げられた残飯(といっても白米です)を安値で買って生活していたのが四谷鮫ヶ橋や芝金杉の貧民たちです。貧民たちの多くは人力車夫でした。そんな貧しさを引きずりながら戦争をせざるを得なかっ、ここに明治日本の条件があります。(関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』文春文庫、文藝春秋、二〇〇九、一六〇頁)

明治の軍隊が悲惨だったことは事実だろう。しかし、軍隊の外の社会にはなお一層の悲惨があった。

あるいは高田里惠子が、戦前における学歴と軍隊の関係を論じるなかで、東京帝国大学法学部助教授から三〇歳にして陸軍二等兵として招集された丸山眞男の、次のような回想を引用していることに注目しよう。座談会「日本思想における軍隊の役割」(『思想の科学』一九四九年一〇月号、第五巻一号、先駆社、七一−八二)における有名な発言である。

実際、兵隊に入ると、「地方」の社会的地位や家柄なんかは(皇族をのぞいて)ちっとも物をいわず、華族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にどなりつけられている。何かそういう疑似デモクラティック的なものが相当社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです。(七五頁)

このようある種の平等性が陸海軍を通じて存在し、そのゆえに一般市民はむしろ軍隊に親近感を抱いていた。

軍隊の中は、「体力」が物を言う世界である。そうであるからには、

  • 当然

農民が最も「優秀」である。都会の、まったく運動をしない「もやしっ子」は、役に立たない、たんなる、邪魔者である。基本的な体力トレーニングも怠って、書生人生を送ってきたボンボンたちは、いかに彼らが

  • ここ

では役に立たないかを思い知らされる。戦後日本の民主主義は、この丸山の言葉から始まっているという意味で、

の歴史である。体力に劣る優等生たちが、教養のない家庭の子どもたちから、小学校、中学校、高校と受け続けた「いじめ」の

  • 仕返し

を、大人になって、社会システムをより

  • 富裕層が裕福になり、貧困層が貧乏になるように「社会を変えようとする」ルサンチマン運動である。

どんなに、お家にいるパパ・ママが、たんまりとお金を貯め込んでいようが、鉄砲一つも、まともに担いで歩けない、へなちょこ書生が、まともに戦場で役に立つわけがない。そもそも、こういった連中が、戦場に来てはいけなかったのだ。
しかし、これが、つまりは「平等」ということなのであろう。
例えば、なぜ子どもは学校に行かなければいけないのか、と考えたとき、よく考えてみると、あまり大きな意味はない。特に、富裕層の子どもは、親は自分の

  • 信頼

する人、つまり家庭教師に、子どもを教えさせたい、と思うわけであろう。しかし、これを止めさせる、なんらかの合理的根拠を思いつかない。私たちは、たんに、「義務だから」、子どもを学校に行かせているにすぎない。
しかし、このことは「半分」は実現している、と言うこともできる。つまり、私立の学校である。親は、高いお金を出して、自分が気に入っている学校に子どもを通わせる。公立のような、野蛮な貧困層の子どもがいる場所を「避けて」。
民主主義とはなんだろうか?
民主主義とは、結局は、多数決をとって、政権を「クーデター」的に奪取した、

  • ある集団

による「独裁」である。しかし、その「期限」は一般には短期的である。なぜなら、その「ルール」の変更には、あまりにも大きな抵抗があるから、である。
ドイツにおいて、民主主義的手続きを経て、ナチスが政権を取ったことで、民主主義的手続きが、独裁に

  • 変更

されたとしたら、それは民主主義ではないのではないか。こういった「メタ的危機意識」が、私たちに、そういったタブーを犯させないような行動に自制させる。
つまり、大事なポイントは、こういった「短期的独裁」といったような、

  • 中途半端な制度

が、さまざまな私たちの手足を「縛る」ことによって、極端に早い、社会システムの変化を妨げることで、人々の「理性的思考」の「知恵」に期待している、と言えるのかもしれない。
つまり、民主主義は「完全な奴隷制」からは逸脱している。どこか少し、奴隷制から離れて、民衆の「パワー」を認めている。そういう意味において、民主主義は、

に似ている。封建制律令制に対して、少しではあっても、ある程度の「権力」を、地元に移譲するシステムである。
私は昔から、暴力論というのが嫌いだ。それは、暴力が社会の本質ではないからではなく、暴力「以外」に無数の本質がありながら、暴力だけを特権的に扱おうとする、そのロマンティックな欺瞞性にある。

しかも、監視の多くを実施しているのは国家そのもの(あるいは自治体などを加えた公的セクター全体)ではない。警察が管理する街頭防犯カメラは二〇一一年度末で全国七九一台に過ぎないのに対し、民間事業者や商店街・マンションなどが設置する監視カメラはすでに三〇〇万台を超えているという(日本経済新聞、二〇一二年七月九日)。さきほど紹介した中目黒の例でも、駅の監視カメラを設置・運用していたのは鉄道会社だし、駅前商店街のカメラも、商店街が独自に設置したものだろう。

言うまでもなく、情報は暴力と同じくらいに、人々を「支配」する。単純なことで、相手の「弱み」を握れば、相手を支配できる。そのために、暴力など不要だ、ということである。
ところが、である。
その情報の収集は、だれでもできるのだ。
だれでも、自分の家の前に監視カメラを付けることができる。もちろん、こう問うこともできるであろう。そんなもの、だれが見るのだ、と。しかし、問題は「大量の情報」の方にある。そこには、人々のプライバシー情報が大量に入っている。そもそも、そういったものを収集すること自体が、一種の「暴力」であり「権力」の源泉だ、ということになるであろう。
一方において、拳銃などの武器の所持は、日本において禁止されているが、さまざまなビッグデータについては、禁止されているわけではない。
つまり、このことは一種の「個人単位の封建制」が許されている、一つの傾向と考えることができる。
こういった方向は、一種の「攻撃」に特化した方面であるが、逆に、「防御」に関係したものとして、

  • 要塞都市化

といった方向がある。

新派刑法学の代表的論者フランツ・フォン・リスト(Franz von Liszt, 1851-1919、音楽家フランツ・リストの従兄弟)に、「社会福祉は最良の刑事政策」という言葉がある。貧困層が犯罪に走り、それに巻き込まれて被害をうけるくらいなら、福祉実現のための租税負担を甘受した方がましだろうと富裕
層を説得する意味を以つ表現だが、しかしこれが受け入れられるためにはひとつの大きな前提----両者が生活と行動の空間を共有しているという条件が必要になってくる。往来が壁によって区分され、両者が交わることはなく、貧困層が犯罪に走るとしてもその被害者となり得るのが同じ貧困層だけだれば、なぜ富裕層が先程の言葉に説得され、福祉支出を受け入れるだろうか。

アメリカ郊外に広がりつつあるゲーテッド・コミュニティ(居住者以外の立ち入りをフェンスと警備員で制限したニュータウン)は、この「空中の橋」によってビジネス街と接続され、逆にインナーシティとは切断されている。高速道路は富裕層と貧困層を空間的に区切り、そのことによって社会福祉の正当化理論をも断ち切っている。ここではアーキテクチャの権力が、平等で均質な個人による社会としての一九世紀システムを切断するように機能しているのだ。

いわゆる、「住み分け」というやつである。日本においては、ゲーテッド・コミュニティは、「公道」を含む場合は認められていないそうだが、六本木ヒルズのようなマンション内では、例はあるという。
もちろん、各個人の家の中には、勝手に入ることは、住居侵入罪という犯罪になるわけだが、この

  • 要塞

をどこまで広げるのか、ということになる。もしも、そういった「入口」で、半警察的な組織によって、選別するなら、その地域は、選ばれた人しか立ち入られない、「安全」な場所、ということになるのであろう。
ただし、上記のような「ある種の封建制」が進んだとしても、それが、国家の弱体化を意味するかは別のように思われる。なぜなら、各商店街の監視カメラの動画を国家が提供を求めてきたとき、実際のところ、拒めるのか、ということが疑問だからだ。
これは、あらゆるビッグデータについても言える。むしろ法律は、そういった「ログ」の「管理」を、各事業者に求めていく方向に進むであろう。つまり、それによって、名寄せが行われ、国家単位では、

へと進化していく。
また、上記の要塞都市にしても、そこに警察組織の侵入が拒まれるというものではないわけであろう(むしろ、警察組織は、その中においても、監視活動を続ける)。
しかし、いずれにしろ、こういった国家規模の権力機構が強いてくる、公平ルールに対して、各個人の中でも非常に巨大な資産を形成した勢力が、まるで、「封建制」であるかのように、自らの、その「実力」に合った

  • パワー

の行使「自体」を、この社会の中で求めてきている、と言えるだろう。
彼ら富裕階層は、自分たちが信頼できる人としか付き合わない。それは、小学校からそうで、莫大なお金の払える私立に通わせて、付き合う人間関係を、下層階級たちで「汚させない」というわけである。
そして、これは、成人になっても続く。徹底して、公共交通機関を使わない。車での移動を行い、新幹線はグリーン車とか。
そうすると、自然と、話をする人間関係が、そういった富裕層たちということになり、彼らと話が合うのは、下層階級の人たちの

  • 愚鈍さ

を笑いあう場合、というわけである。お金がなくて必死でやりくりしている人たちを嘲笑し、自らの財の巨大さを自慢している、傲慢な連中は、もしも、彼らの日常において、関係せずにいられなければ、そんなことを口走った先には、ワンパンで殴られているだろう。しかし、彼らは殴られない。なぜなら、ゲーテッド・コミュニティによって「守られている」から。
おそらく、フェイスブックのようなSNSの流行も、こういったところから始まったのではないだろうか。フェイスブックの中では、比較的に、富裕階層の人も、好きなように、「パブリック」に差別的発言を、気軽にしている。それは、普通なら、そんなことを口走ったりしたなら、その場で下層階級の人に殴られていたはずなのに、SNSの中なら、殴りに来れないから。だから、好きなだけ、差別発言ができる。汚い言葉を投げられたら、すぐにブロック。そうすれば、富裕階層の人たち同士でフォローし合って、いつものように、下層階級を差別し合って、その快楽が続く、<平和>な毎日、というわけである。
しかしこれは、ある意味において、上記の丸山眞男が、いみじくも、「疑似デモクラティック的なもの」と言ったように、彼らが「理想」としてきた、民主主義は

だと言っているのと変わらないわけであろう。彼ら富裕層は、「貴族」制度にして、自分が貴族であるべき、と思っている。だから、当然、自分が軍隊に入れられて、ああいった「疑似デモクラティック的なもの」の扱いを受けることになるとは思っていない(つまり、兵役拒否というやつだ)。
お金のある奴は、お金さえ払えば、

  • 国民の義務

としての、兵役さえやらずにすむ。
おそらく、戦後の日本社会は、この丸山眞男が言った、二つの「理想」の間を、ふらふらしてきた。

  • 軍隊内に存在したような、富裕層も貧困層も「平等」に扱われる「民主主義」社会。
  • そういった「平等」が嫌で、富裕層が特別扱いされる「非民主主義」社会。

そして、建前としては、後者を「富裕層が高額のお金で<あえて>買う」なら、一部許す社会が、現代における、基本的なアーキテクチャーなのではないか。
しかし、おそらく前近代においても、こういった「貴族」的な形態というのは、ずっとあったのであろう。

さらに言えば、「前近代社会のあたたかさ」として語られるさまざまな要素が秘めている意味についても、もう少し慎重に検討する必要があるだろう。現代が不安の支配する社会であり、見知らぬ他者、自分たちと異なる存在を基本的に疑い、疎外する傾向を持っているの事実だろう。では、対比的にとらえられるそれ以前の社会は、客人を無条件で歓迎したり、温かく接遇するような場所だったのだろうか。
長く国際機関で働き、国連難民高等弁務官UNHCR)カブール事務所で勤務した経験を持つ山本芳幸は、アフニスタン社会が客人に対して提供する「歓待」について、こう指摘している。

僕の個人的な”いい思い”という体験から推察すれば、少なくとも「歓待」に関しては、パシュトゥン族だけでなく、アフガーン人全体に共有されているように思う。/しかし、「歓待」に喜んでばかりはいられない。「歓待」はよそ者を村の伝統の奥深くまで侵入させず、玄関口で止めて喜ばせて帰してしまうという効果も持っている。/「歓待」は、伝統社会の一つの防御法でもあるのだ。(山本芳幸『カブール・ノート -----戦争しか知らない子どもたち』幻冬舎、二〇〇一、二〇−一頁)

村社会が「歓待」するということは、その村社会が、実際は「排除」していることと変わらない。彼らが最も「見せたくない」ところから、排除する「ため」に歓待する。つまり、彼らが

  • 住人

として、その村の土地を所有することを拒否している形態だと考えられる、と。つまり、一種の「ゲーテッド・コミュニティ」の形態になっているとも言えるだろう...。