青木孝平『コミュニタリアン・マルクス』

私は結構、オーソドックスに考えていて、つまり、結局のところ、現代の問題を考えるとき、マルクスであり、フロイトから始めるしかない、と思っている。
つまり、そういった、マルクスフロイトを、いったん、後景化して、まるで、彼らが主張していなかったかのように、現代を語ろうというような態度の欺瞞さが許せないわけである。
(それは、いわゆる、「サヨク」という言葉が象徴している。興味深いのは、この「サヨク」を批判するという行為が、マルクスのテキストに正面から応答しないことと同値に捉えられている、ということであろう。例えば、リチャード・ローティが、アメリカ左翼運動を「批判」的に言及するとき、それは、プラグマティズムと平行して、アメリカ政府の反共政策(赤狩り的政策?)を「肯定」することと、ほとんど「同値」の含意を示すわけである orz。)
なぜ、マルクスフロイトなのか?
それは、むしろ、マルクスフロイト「以降」において、彼らが直面していたような「原初」的な

  • 問い

が、<忘却>されているから、なのである。
現代における、マルクス批判やフロイト批判は、むしろ、マルクスフロイトが生きていた頃に彼らが直面し、真剣に取り組んでいたプロブレマティックを少しも、超えていない。むしろ、

  • 圧倒的な後退

が起きていながら、それを、

の一言によって、「近代の超克」をしようとする(つまり、国家権力に<寄生>しようとする)態度の<凡庸さ>が問われているわけである。
しかし、こういった態度にも、一定の「正当性」がある、とは、以下の意味において、言えなくもないということなのであろう...。

それゆえここで必要最小限触れておくべき問題は、マルクスの『資本論第一巻』が資本主義的蓄積による生産力の最終的発展のあとに弁証法的必然性をもって社会主義の到来を予見していたことだけでよいだろう。マルクスはいう、

「資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって......一人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて、ますます大規模での労働過程の協業的形態、科学技術の意識的応用、土地ん計画的利用、労働手段の共同の使用、結合的社会的労働によるすべての生産手段の節約、世界至上への各国民の組みいれが進展する。この転化過程が進むにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大するが、同時に訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく。資本独占は、そのもとで開化したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」

しかしながら現実を少し冷静にみれば、国家独占資本主義が資本主義権力の官僚制的肥大化であり、グローバリーゼンションが資本主義市場経済による全社会の包摂であることは明らかであろう。もともと資本主義は市場による経済の自己コントロール機能を備えているが、同時にその弊害に対しては国家権力による制度的な調整システムを保持している。たとえばイギリス重商主義は商人資本に対立する救貧法をもち、自由主義は産業資本に対立する工場法をもち、そしてドイツ帝国主義は金融資本に対抗する社会法を具備していた。資本主義は外的インパクトによって如何ようにも変化しうるアミーバ的な軟体構造をもっており、自らの内的矛盾により生成・発展・死滅を宿命づけられるほどヤワな存在ではなかったのである。

つまり、マルクスの歴史法則的なアプローチによる国家の滅亡からの資本主義の終了と共産主義社会の到来の「予言」は、彼が著書において展望したほど「ヤワ」ではなかった。
そういう意味において、戦後の哲学的な考察は、このマルクスの「予言」が、そう簡単に実現されないことの「解釈」において、

  • さまざまな他の角度からのアプローチ

が模索された時代であった、と考えられる。そして、その一つが、ジョン・ロールズに代表される「リベラリズム」であった、と考えられるのである...。

このように古典的自然法思想はいずれも、自由と平等の相克という致命的アイビヴァレンスを抱えている。しかも、これらの社会契約論がそもそも歴史的事実に反しており実証不可能であるという批判が、D・ヒュームに始まりI・カントやJ・G・フィヒテらによって繰り返し主張された。それゆえカント以降の社会契約論は、自然法から歴史性を徹底的に排除し、その契約は純粋の原理的な要請にもとづく論理的仮説として説かれることとなった。こうして古典的自然法思想はしだいに影響力を喪失し、それはやがてJ・ベンサムらによる功利主義の規範理論に取って代わられたのである。

さて、現代のリベラリズムは二〇世紀後半、J・ロールズの正義論に端を発する社会契約論の再評価という気運のなかで新たに息を吹き返すことになる。したがってそれは、なにより功利主義に対する批判的哲学として登場したといってよいだろう。

マルクス主義における、歴史法則による、資本主義と国家の「終焉」が、そんなに簡単ではないことが分かってきた時点で、さまざまな、実験的な、マルクス以前の、さまざまな文脈を再度、評価し批判していこう、という運動が始まる。
その一つとして、現代リベラリズムの出発点を形成した、ロールズの正義論がある。
ロールズの正義論の特徴は、上記にあるように、ベンサム功利主義に対する批判から始まっている、ことにある。では、ロールズベンサム功利主義の何が不満だったのか。おそらく、ロールズは、ベンサムの主張が、

  • 正義

の観点から、人々が「満足」するものにはならないだろう、という予測のもとに、提示された、と考えられる。ロールズは、この場合の正義を、まさに、社会契約論と同じように、「必ずしも根拠のある主張ではない」が、おそらく、こういった「正義」を多くの人が受け入れるし、実際に満足するであろう、といった、なんらかの

  • 規範

をメタ・システム自体にビルトインしていくことを提案する。こういった態度は、ロールズ自身が自覚しているように、必ずしも、なんらかの「根拠」のある主張ではない。ところが、この規範は、おそらくは、多くの人たちを「満足」させる、という意味で、たとえ、理論的な根拠のあるものではなくても、カントの言う意味での「実践」において、十分に意味のあることなのだ、と考えた、ということである。
このことは、上記の引用にもあるように、社会契約論が、さまざまな意味において、「自由」と「平等」の矛盾を、内部に抱えこまざるをえなかったことと同じように、これに、大きな影響を受けて、議論が進んでいく。
平等の方面から、より議論を深めたのが、ドゥオーキンであり、アマルティア・センとなるし、自由の側から、さらに積極的に自由の「権利」を認めていこうとしたのが、ノージックでありフリードマンということになる。
しかし、である。
この二つの方向の違いは、表面的な差異以上に、本質的であろうか?
むしろ、見た目の差異以上に、この二つの本質的な「同質」性が、強く意識されるわけである...。

しかしながらこうした現代資本主義の両側面は、本当に対立的だろうか。
むしろ家族に代表される人間の最終的紐帯は、国家と市場の挟撃によって決定的に侵蝕されていったと言うべきではなかろうか。社会福祉の拡充は家族の私的扶助機能を代替し、市場における個人の自己実現欲求の肥大化は夫婦や親子関係を希薄にし、離婚や非婚、独居を常態化していった。すなわち官僚制国家とグローバル市場は、ともに社会からあらゆる非合理な負荷やタブーを剥ぎ取り、家族・地域・民族・階級などの多様で重層的な共同体的文化を縦横両面から徹底的に解体し、無知のヴェールで覆われたアトム的で均質的・無機的・中性的な個人をさながら「現実」であるかのごとく幻想させていったといえよう。

一見すると、こういった、一方は「自由」を強調し、他方は「平等」を強調することになっている、この二つの立場は、強烈な

  • 対立

によって眺められるように思われながら(それは、特に、近年における「格差論」のような場面では、特に、その差異が対立として現れていることは確かである)、これらの主張が、どこか

  • ある共通的性質

を包含していることが非常に本質的であると、掲題の著者は言う。

現代のリベラリズムは、リベラルや分析的マルクス主義からリバタリアンにいたるまで多様であった。しかしながら彼らはほぼ共通に、独立した自由な意志主体としての個人という観念のモデルを採用していた。
その原型は、なによりもデカルト以降の近代における主観主義(Subjektivismus)哲学にとりわけI・カントの「人格」概念に求めることができよう。カントこそは、イギリス経験論と大陸合理論とを接合する位置にあり、それゆえ社会契約説による自然法的主体とドイツ観念論による超越的主体の定立という、その後のあらゆる規範哲学を網羅する壮大な体系の出発点を確立するものであった。すなわちリベラリズムにおいては、神やその他の事物ではなく理性そのものとしての「人間」こそが、他に依存せずそれ自体で自存する自由な主体とされたのである。その意味でカントは、まさに現代リベラリズムの始祖たる地位にあるといってもよいであろう。それゆえカントの倫理学は、ロールズの正義論に先駆けて功利主義哲学の批判から始まることになる。
カントによれば、功利主義の限界は善と正義の区別が不徹底であった点に求められる。功利主義倫理的行為の究極目的を最大多数の幸福に見いだす「目的論的倫理学」であった。すなわちその倫理学は、幸福の最大化という経験的次元の正義に基礎を置いているため、外部に対する欲求への従属を肯定することによって、結果的に人間の自由を否定するものとなっている。人間が経験的存在にすぎないとすれば、あらゆる意思の作用はなんらかの目的に対する欲求に限定され、倫理学から偶然性を排除することは不可能となり、けきょく人間は自由でありえないからである。
これに対してカントは、幸福を行為の動機とする目的論的倫理学を拒否し、倫理的行為においては自律的な人格そのものが同時に義務であり目的でなければならないという。したがって正義から善を完全に分離するために、「人格」概念の根源的な再検討が行われる。それはまさに、対象としての目的に認識主観がしたがう伝統的倫理学のいわゆる「コペルニクス的転回」であり、カントにおいては、経験的な目的に先立つ道徳律の基礎づけは、対象から独立した主観(主体)概念そのものに求められることになる。すなわち現象としての「物自体」は客観的で経験的な実在性をもつが、人間の認識主観は感性的形式を不可欠の前提としているために、目的的対象としての「物自体」に到達することはできない。それゆえ逆に人間は、現象世界の自然必然性あるいはその感性的条件を超越した道徳法則にもとづく認識が可能になる。これが対象としての自然法則にかかわりない純粋理性の命令としての自由である。この意味において人間は、いっさいの経験的属性から独立し、しかも各々の経験に適用されうる超越論的主体としての人格性をもちうるとされるのである。
こうしてカントは、現実的個人からその属性としての経験的規定をすべて削ぎ落とすことによって、選択目的に先立つ純粋意思として、いいかえれば自由な選択能力そのものとして純化された人格主体の概念を構成した。
カントにとって「人格」とは、いかなる属性も持たない純粋な選択意思として、先験的自我そのものでなければならなかった。それゆえ「人格はたんなる手段として扱ってはならず、それ自体が目的として不可侵である」。まさにカントにおいて人間が自由である根拠など何処にもありはしない。それは、「自由であれ」という定言命法(kategorischer Imperativ)によって自己が自己に課した超越的で自存的な義務としてしか存在しえない。ここに、人間の自由を、無条件・絶対で無規定なものとしてア・プリオリな前提を置く「義務論的リベラリズム」の原型がかたちづくられたといってもよいだろう。
さて、ロールズ以降の現代的規範理論の試みは、こうしたカントにおける社会に先立つ一切の属性を欠いた人格の観念を継承し、その後にこの人格に社会契約を結ばせることによって、経験的で具体的な意味を付与された正義の社会モデルを構築しようという企てだったといってよい。したがってそれは、カント哲学のもつ超越論的観念論としての性格を薄めて、あくまでもこれを公正な社会常態を構成するための作業仮説、いいかえれば現代社会に対する批判的規範理論に限定しようとするものであった。現代のリベラリズムが古典的自然法思想に対してもつ限定的なスタンンスを示すものであったといってもよいだろう。
だが現代リベラリズムも、それが自由の普遍的「格率」を志向するかぎり、特定の善の観念に依存せずかつ善に優越する正義の原理を指し示さなければならない。こうした原理を構築するためには、やはり目的から切断された自由な選択を行なう意思主体としての人格の観念が必要となる。

結局、功利主義は、自らの内部にある「快楽」衝動、つまり、「本能」に人間は、従属することを「強いている」と考える。つまり、カントが見抜いたように、功利主義は人間の

  • 自由

の否定に帰結する(つまり、全体主義)。
カントは、それを認められない。なぜなら、自由は、なにものにも先に、前提とされなければならない必須の要件だから。そこで、彼は、デカルト合理主義の「結果」であるかのように、「人格」を仮構する。どうしても、観念論的な枠組みを手放せない。
しかし、ここで注意しなければならない。
カントがこだわっているのは、この自由のメタ・レベルにおける「要請」の重要さであって、問題はこの「自由」が、実際においては、どういったレベルにおいて「ある」と言えるのかは、そんなに単純じゃない、ということなのではないか。
例えば、カントは、これを、いわゆる「コペルニクス的転回」という表現によって説明した。しかし、そうすることで、彼は、評判の悪い「物自体」というものを、もってこざるをえなくなった。そこで、これ以降の哲学者たちは、自らの理論体系から、なんとかして、カントが言っている「物自体」を排除することを目指す。しかし、このことは逆説的だが、彼らの「やっていること」を、どこか神秘的な体裁を与えることになってきた。
だとするなら、そもそも、この「物自体」とは、なにをインプリケートするものとして、カントによって与えられているのかを、真剣に考えなければならないのではないか。つまり、カントが考える「自由」の

  • 位相(いそう)

が、私たちが通俗的に考えるようなレベルにまで下ろしてきて、適用することには、大きな無理があることを、これによって示唆しようとしている、とも考えられるのではないか。
問題は、カントがデカルトをもちだして、継承した「人格」概念なのだ。この「フラット」さが、実際の個々の人間の「モデル」化として、あまりにも、リアルな人間の実相とかけ離れている。
大事なことは、そもそも、カント以降、社会契約論は過去の遺物として、まったく、はやらない思想として墓場送りにされていたと思っていたら、なぜか、ロールズ以降、無邪気に、ひっぱり出してきた、ということなのである。つまり、彼らにカントが戦ったような緊張感がない。
ロールズを代表とした、いわゆる、リベラリズムが、そもそも、このカントが直面した、困難を、カレイなまでにスルーして、呑気に「正義」と、たわむれていることの「お花畑」感が問われているわけである。
ロールズ、ドゥオーキン、セン、ノージックフリードマン。彼らに共通するのは、この素朴なまでに、無自覚な、

  • 人格

概念に対する、楽天的な「信頼」なのだ、と言えるだろう。
リベラリズムは、確かに、これを「素朴」に受けとるとき、非常に重要なポイントを指摘していることを否定する人はいないだろう。ところが、その「フラット革命」的な、ノッペリとした都会の「共通感覚」は、ひとたび「自明」と見えなく受けとられたとき、大きな違和感を、多くの人たちに与えることになる。それが、

の主張であった、と考えられるであろう。マイケル・サンデル、マッキンタイア、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァーと、掲題の著者によって名前をあげられている中で、その主張から分かりやすいのが、マッキンタイアであろう。

マッキンタイアは一九八一年の大著『美徳なき時代』において、古典的英雄社会からギリシャ哲学、中世をへて近代の啓蒙主義にいたる西洋の道徳的・政治的な文化のさまざまな興亡を詳細に検討していく。そして中世以前に見られた善き生を支える徳の観念は、近代の啓蒙主義によって終焉したという。
啓蒙の立場すなわち人間の道徳性について近代合理主義的な正当化を試みるプロジェクトは、おしなべて失敗に終わった。キルケゴール、カント、ディドロ、ヒューム、スミスらの倫理学は、それぞれ独自のかたちをとっていたが、彼らが正当化しようとする道徳の本性は、婚姻や家族などの内容についても、また契約という形式についても驚くほど一致していた。すなわち啓蒙主義は、それぞれの時代や社会を背負って生きている諸個人とはおよそ異なった抽象的「人間」という自画像を創り出したというのである。
マッキンタイアは、こうした啓蒙主義的な「人間」観を現代文化のキャラクターと名づけて糾弾する。たとえば、どれだけ費用がかかっても退屈を避け自分の満足を達成するために快楽を手に入れようとする「審美家」や、目標の確定や評価はせずに自分のもつ人的・非人的資源を最大限効率的に組織することに夢中になる「経営者」、患者が求める価値の評価や助言は与えないで神経症の症状を社会的に有用な状態に変容させる技術や効率や効果にのみ関心のある「セラピスト」がこの典型である。彼らは、人々を他者の目的にとっての手段として扱い、目的(telos)にかんする問題を体系的・合理的・客観的な価値評価を超えたものとみなす点で一致しているというのである。
啓蒙主義は近代的理性を発見し、それによって道徳的判断の本性にたどりつけると主張した。しかしそれは、たとえば人工妊娠中絶の成否や核兵器による抑止力の正当性、あるいは真に正義に適う社会構造とは何かといった道徳的判断をめぐる今日の論争において、どんな種類のコンセンサスにも到達できない無力性をさらけ出している。こうした共約不可能性の背後にあるのは、道徳的議論は合理的には決着がつかないものだという「情緒主義(emotivism)」である。すなわち、それはあらゆる道徳的判断は純粋に個人の選好の問題にすぎず、私的な感情の表現にほかならないとして、その秩序づけを放棄する態度である。
マッキンタイアによれば、ロールズの「正義論」の背後にあるのはこうした情緒主義であり、そのリベラリズムは真価(desert)にもとづいた正義の議論を回避し、善き生とは無関係な、利害関係に還元できる正義だけを議論の対象としている。それは、道徳的言説を超越的な位置にたつ主体の決断に還元するものにほかならない。近代社会はたしかに個人に「自立」をもたらした。しかしそうした啓蒙のプロジェクトによって、人間はいかなる負荷も持たないかわりに、抽象的で無機的な、どんな「歴史」も持たない存在となた。マッキンタイアはこうした近代社会に特有の個人主義的人間観を、皮肉をこめて「民主化された自我(democratized self)」と呼ぶ。ロールズの理想とした自立した個人が社会契約によって創出しようとする社会は、「あたかも他の諸個人の一団とともに難破して無人島に打ち上げられたような」社会にすぎない。こうしてロールズリベラリズムの善の構想は、最終的に個人の選好に還元されるのであり、そうした選好の自由とはつまるところ最終的に市場の論理にゆだねられることになる。ここにマッキンタイアの資本主義批判を読み取ることは容易であろう。

コミュニタリアンの主張を、共同体主義のようなものと考える必要はない。つまり、私たちは、コミュニタリアニズムを、それほど難しく考える必要はないのではないだろうか。
たとえば、こんなふうに問うてみればいい。私たちは、子どもの頃、ある人と、なにかを話した、とする。さて、今の自分は、その時のその会話がなかったとして

  • 今の自分

であろうか? 言うまでもない。自分なわけがない。なぜなら、事実として、今の自分は、その時のその会話を「経験」して、今、あるのだから。つまり、その会話がなかったことを「前提」にして話すこと自体が、無意味なのだ。
ところが、カント=デカルト的な「人格」概念は、この歴史性を

  • 超越

して、「なにか」を仮構される。なにか「実体」のようなものがある、と。言わば、私たちの「歴史」性を捨象した先に、超越的に見出されるなにかを見ているわけである。

すなわちマルクスの労働過程は、けっしてデカルト以来の古典的形而上学が説くような「形態(Form)」の対概念としての、「存在するために他のいかなるものも必要とせずそれ自体で存在する」「実体(Substanz)」を意味するものではない。ここにおいて商品という「形態」と労働という「実体」とは何の文脈的関連もない。

こういった視点から考えたとき、上記のコミュニタリアンの文脈の中で、チャールズ・テイラーに注目していることの意味は大きい。なぜなら、彼はヘーゲルを、コミュニタリアンの文脈において、再評価しているからだ。なぜ、ヘーゲルはカントに反発したのか。おそらく、そこには、ヘーゲルのカントによるデカルト的人格の「継承」に対して、それが実際の歴史的文脈において、人々の生活を描写する上で、不十分だと考えたことがあるのではないか。
カントは「自由」の絶対的な重要さを要請することと、義務的倫理学を、非常に高いメタ・レベルにおいて主張したわけだが、ヘーゲルはその高いメタ・レベルの議論では、実際の生活者の「描写」として、満足しなかった。もっと、下に降りて、生活者の目線を「記述」可能にする哲学を模索した。
しかし、このように考えてくると、奇妙なことであるが、むしろ、ヘーゲルの延長で考えたマルクスのさまざまな主張の数々が、なんというか

そのものなのではないか、というようにさえ見えてくる、わけである!

しかしながらマッキンタイアは、マルクスのテキストをもアリストテレス的に読解することを提案する。マルクスのいう実践とは、個々人が自由な欲求にしたがい善=財を追求する実存的なものではなく、逆に個々人の意思(欲望)から独立し、それに先行したものである。それが協働的な人間活動であるかぎりは、市民社会の正義を超克する共通善に支えられ、あるいはそれを追求するものたらざるをえないのである。まにマルクスの第六テーゼが明快に説くように、「人間の本質は、個人の内部に宿る抽象物ではない。それは現実的には、社会的諸関係の総体(ensemble)なのである」。マッキンタイアは、このような諸個人に先立ちかつ諸個人の実践を導き出すマルクスの「社会的諸関係の総体」を共同体と読み替え、そこに人間を実践にいざなう共通善を見いだしたといえるだえろう。

すなわち個々人の行為は、それが為される文化的共同体の前提として意味をもち、同時に行為が共同体関係を構成する不可欠の要件となっているのである。それゆえ「主体」も、存在しない。たとえ商品に形態的な担い手がいるにしても、それは商品経済的社会を前提にして意味をもつ商品関係の人格化にすぎず、したがってその担い手は個人でも家族でも共同体でもかまわない。それゆえここでは、身体や生命を自己所有するJ・ロック的主体はもちろん、具体的な欲求行動をおこなうとされるC・メンガー的主体さえ捨象されているとみなさなければならない。市場は実体的共同体でもなければ、当事者の主観的選好にも還元できない。それはホーリズムもアトミズムも否定する。そもそも「商品」から始まる『資本論』の体系は、一貫して関係主義の立場が貫かれてるといってよい。それは、共同体社会からはみ出し引き裂かれた関係性の視点で書かれているのである。そこにはいかなる普遍主義的主体も登場する余地はない。

これは、マルクスの立場が、ヘーゲルを通した後の、コミュニタリアニズムに非常に近いことを意味している。

  • 「人間の本質は、個人の内部に宿る抽象物ではない。それは現実的には、社会的諸関係の総体(ensemble)なのである」

とは、まさに、上記で私がコミュニタリアニズムの定義として議論したことと、そのままのことを言っていると解釈できるし、つまりはそれは、

  • 関係主義

ということである。
マルクスが、資本論で行っていることは、いわゆる、現在の大学の一教科としてある「経済学」と考えるべきではない。むしろ、現在の経済学は、上記で検討したように、ロールズにつらなる、リベラリズムの延長にある

  • 新自由主義(=社会契約論的に構成された自由をより重要視する「正義論」)

の一種と考えるべきだ。ところが、マルクスの関心は、まったく、そこにはない。むしろ、そういった「凡庸」な認識に対して、<批判>的でありうる立場にこだわっている、と言うべきだ。
社会契約論的な認識から、プラグマティズムによって、人間を「主体=実体」として仮構するリベラリズムは、結果として、ある

  • 幻想

を避けることはできない。マルクスがこだわるのは、そこである。
そういう意味において、リベラリズムは結局は「人間」に到達しない。個々の具体的な文脈を辿ることなく、「なにか」が言えると思ってしまうその「幻想」が、そもそも

  • どこから

来ているのか、が問われている。
なぜ、哲学に「先行」して、資本論が存在するのか。それは、私たち自身が、言わば、「資本」の<構造>の中にいるからだ。私たちは、子どもの頃から、家の台所事情によって、さまざまな方向へ思考を「強いられて」きた。貧乏な家庭の子どもはより、お金を工面することに意識的であっただろうし、裕福な家庭の子どもはより、自分が「貧困」層に落ちることへの、「不安」「恐怖」を、自らの行動原理としてきた。私たちを「構成」しているのは、こういった「資本」の構造なのだ。
原発に依存して、原発を飯の種にして生きてきた人たちは、どうしても、その「認知的不協和」において、原発を止めるという方向に思考を変えることはできない。それは、自らの「資本」的な実存を揺がす方向である「だけ」に、より大きな<抵抗>が内部にあるのだ。今のまま、原発が動き続ければ、確かに、彼らは定年まで働けて、子どもを大学に行かせられて、家族を支えることができるかもいれない。そして、そうならなければ、子どもの進学をあきらめなければならなくなるかもしれない。しかし、そのことと、

  • 原発を止めなければならない

という<事実>は別のはずなのだ。しかし、そう考えられない。つまり、間違いなく、そこには、「資本」の構造がある、ということなのである。
マルクスが徹底して、こだわるのは、この「幻想」である。

それゆえマルクスがいうように、所有はまさに、「ただリンネル商品が上着商品に関係する価値関係のなかでのみ認められる。このようん反照規定とは奇妙なものである。ある人が王であるのは、ただ他の人が彼に対して臣下として振舞うからである。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下だと思うのである」。

マルクスによれば、個人の自由とは、土地と労働力の商品化によって共同体か切り離された、市民社会の成員としての、利己的な人間の権利すなわち「人権(droits de l'home)」にほかならない。人間は諸関係の総体としてのみ一定の属性を獲得するにもかかわらず、諸個人は、それらの関係から独立に初めからそれ自身で自然的かつ自存的に存在しているようにみえる。マルクスはこうした取り違え(quidproquo)を「物神性(Fetischismus)」と呼んだ。たとえば、机は材木というありふれた感覚的な財でしないのに、それがひとたび商品としてあらわれるやいなや超感覚的なものとなり、自分の脚で床に経つのではなく他のすべての商品に頭で立って、その木頭から机が自分勝手に踊りだすような奇怪な妄想を生み出す。まさに自由という自然法的人権はこうした逆立ちした観念すなわち物神性の典型である。

商品の先に、私たちは「欲望」を仮構する。なぜなら、そうせざるをえないからだ。それを、マルクス

  • 物神性

と呼ぶ。果してそれは、商品が「ある」から、強いられている何かなのか。それとも、私たちがこう「ある」から、そういった商品を私たちは求めるのか。

こうしてもはやリベラルもリバタリアンも、資本主義に対する批判者であることを放棄したといってよいだろう。この意味で二つのリベラリズムは、いまやいずれも現代資本主義の追認理論を超えるものではない。

商品という「幻想」こそ、マルクスの批判の中心であったし、現代の最も重要なアポリアであったはずなのだが、なぜか、いわゆる、「サヨク」嫌い(サヨクルサンチマン)たちは、リベラリズムであれ社会学であれ、経済学に正面から取り組まない。
そして、<凡庸>なリベラリズムによって、プラグマティズム的に資本主義を安易に「礼賛」するだけの「堕落」を帰結している。
おそらく、そこには、彼らリベラリストたちの「実存」があるのではないか。丸山眞男が戦中、軍隊内での、農民将校たちによる「シゴキ」を、戦後、自らが主導していく民主主義運動の中においてさえ、常に忘れることのなかった、その<ルサンチマン>を抱え続けたように、彼らリベラリストは、自らの心の内側に、子どもの頃から、周りの貧困層の同級生たちから受け続けた

  • いじめ

に対する<ルサンチマン>を決して忘れられない。つまり、彼らにとって「サヨク」という

  • 記号

は、自らが「いじめられ子」であるというレゾンデートルを指示する「アイコン」と化しているのであろう...。

コミュニタリアン・マルクス―資本主義批判の方向転換

コミュニタリアン・マルクス―資本主義批判の方向転換