老人社会

東京の街は、普段、朝と夜の満員電車に揺られるだけの毎日を送っているサラリーマンにはあまり意識されないことが一つある。
それは昼間、東京の街を歩いてみれば分かる。
とても老人が多い、ということである。
毎日の朝夜の満員電車は、労働者の移動場所であって、見るからに、エネルギッシュな、まだ、「若さ」を漲らせている人たちであふれている。彼らの顔つきは、まあ、ピチピチしているわけである。
ところが、昼間のこの街を見ると、その様相は一変する。髪の毛の多くは、白髪がまじり、足腰が弱り、杖を使って、若者の何倍も時間をかけて移動をしている人もいる。電車の昇降口の枠につかまって、すごい時間をかけて、なんとか、電車の乗り降りをしている老人を見たとき、一方で危なっかしく思った反面、むしろ、そういった人たちにとっても、生きやすい街にしてくことを本気で考えなければならない、ということを突きつけられているようにも思ったわけである。
近くのスーパーに入っても、昼間は老人が多い。彼らが時間をかけて買い物をしている姿を見ると、むしろ私が思うのは、この人たちは、あと10年、20年と、この街に住むなら、もっと老化が進み、足腰も今以上に弱り、しかし、たとえ、そうなったとしても、

  • ここ

に、今と同じように買い物に来れるのだろうか、という心配であった。
それは、別に他人事を言いたいから、こんなことを書いているわけではない。私たちも、いずれは、そういった年齢になっていく。例えば、ひとたび地方に行けば、そこは、車社会である。しかし、一体、車の運転は、どれくらいの年齢まで可能だと思われるだろうか。足腰の弱り、視力も衰えた老人たちにとって、車の運転が、それほどの可能性を与えるのだろうか。
私が思ったことは、いわゆる「進歩主義者」の考えるような、未来の「科学の発展」のようなものではない。いずれ、科学の発展によって人間は「老化」を克服するんだ、みたいなことを言っているセレブが、お金にまかせて、そういった「永遠の若さ」を

  • 買う

んだ、みたいなことを言ってみたとしても、それは私のまったく興味のない話だとしか思えない。今、目の前にいる、彼ら老人たちには、なんの関係もない話であり、彼らが少しでも生活しやすい街にするには、どうすればいいのかを考えることの方がずっと、意味のあることに思える。
ここで私が「老人社会」と言っているのは、つまりは、長生きをされる一人一人の人間にとって、「生きやすい」社会とはどういったものなのか、という意味なのである。今の都会の、さまざまなアーキテクチャーは、どちらかというと高度経済成長期に構想された

  • 若者

の街である。しかし、少子高齢化時代を迎えて、多くの老人たちが「普通」に生きる街であることの「価値」とはなんなのかが問われている。
ラノベ神さまのいない日曜日』は第9巻をもって最終巻となったと、作者はいつもの感じで、「あとがき」に書いている。この最終巻がどういったものになるのか、については、以前、このブログで自分なりの私見を書かせてもらったことがあるが、今回読んだ印象は、むしろ、作者は作者の主張を一貫させた、というもので、むしろ、これはこれでよかったんじゃないか、という印象を受けた。
私はこの最終巻を読んで、チャールズ・ディケンズの『骨董屋』の最後のネルが死んでからの、圧巻の展開を、なんとなく思い出していた。
この幼いネルが死んだ後、彼女はまさに、キリスト教文化圏における「聖者」として、多くの人たちに惜しまれ、悲しまれ、その最後を迎えられる。その濃密な記述に、どこか、不思議でありながら、強烈にひきこまれるなにかを読んでいて感じた記憶がある。
このラノベの世界が、死者たちがゾンビとして「生きる」世界である限り、主人公のアイが「死」に、死者として、死んだ後の世界を

  • 生きる

姿を描くことは、避けられない課題であったように思われた。
そもそも人間は死ぬ存在である。そういう意味において、死んだ後とは無である。ところが、このラノベの世界においては、死者はその死後も「ゾンビ」として生きる。いや。ここで生きる、という表現は正確ではない。主人公のアイが「墓守」であることの意味は、こういった墓守によって、彼ら

  • 死者

たちは、安寧の眠りに帰ることが実際に起きているから、である。死んだ後も、この世界に残り、生きていた時代の「未練」を果たすために、生き続ける「ゾンビ」たちがいる一方で、その過程を自ら受けいれることで、永遠の眠りを受け入れる死者もいる、という、この二つが描かれていることが、この作品の特徴なのだ。
ということは、このことは現代社会の何を暗喩しているのだろうか?
私は、この作者が描こうとした死者というのは、この現代社会という、若者たち用に作られた、つまり「健常者」が比較的生きやすいように作られた、健常者の

  • 幸せ

の基準から「ドロップアウト」した、多くの障害者。足腰など、なんらかの障碍をもった人たち、また、老化が進み、思考能力の衰え始めた人たち、そういった、さまざまな体が弱り、この「街」から、

  • お前はこの街に「ふさわしくない」

と言われているかのように感じている人たちのことを暗示しているように思えてならないわけである。
私は、いわゆる、「進歩主義者」たちが、大衆を「馬鹿」と言い、「馬鹿」を愚弄する彼らに対して、もしも、彼ら自身が、老化して、思考能力が衰えて

  • 馬鹿

になったとき、それでも「そうなった」自分を今、彼らが嘲笑し愚弄しているように、自分を嘲笑するのかが、興味深く思われる。
むしろ、人間が「愚か」であることは、必然のことなのではないか。間違ったことをすることには、なんらかの、さまざまな原因がある。だとするなら、そういった「馬鹿」を嘲笑することは、人間の尊厳を損ねる行為なのではないか、といったことさえ思ってしまう。
弱い人たちを「前提」にした、普通革命は、どのような形のものとして可能なのであろうか。
では、13歳の主人公のアイは「死者」となる。しかし、なぜ彼女は死者となったのか。
このラノベは明らかに、第1巻と、その後の第2巻から第9巻で、話が二つに分かれている。
アイは第1巻において、亡き母親が自分に予言していた「父親」の出現と、その死を前にして、「この世界を救う」ことを目指して旅を始める。
そもそも、なぜ彼女は、「この世界を救う」を目指したのか。それは、ある意味において、第2巻から第9巻で答えられた、と考えられる。
第1巻の最後において、何が予言されていたのだろうか。彼女は、幼くして母親を亡くし、ついに現れた父親をも、短い逢瀬を果たした後、亡くす。しかし、それでも彼女は、この世界で生きようと決意する。それはなぜか。言うまでもない。彼女を、この世界にもたらした、両親が、なぜ彼女を、この世界にもたらしたのかの「理由」を求めたのである。
作品は、その「答え」をアリスとの恋愛関係に求めた、つまり、彼女はもう一度、両親と同じように、男女の関係を再現することで、

  • 両親と「同じ」

になることで、その答とした、ということなのであろう。
彼女は、この世界に、両親に一人残され、「孤独」になる。その後のストーリーは言ってしまえば、行きあたりばったりのものであった。
そして、彼女は、ある時点で、自らの夢であった「世界を救う」を、あきらめる。
それは、どういう意味か。
彼女は、ある禁忌を犯すのである。つまり、アリスという彼女が慕う少年。すでに、死んでいて、この世にはいないはずの死者が、生き続けることを願い、彼女はその願いを叶えてしまう。そういう意味において、彼女は、この代償として、「この世界を救う」という夢をあきらめる、という構造になっている。
そんな彼女の目の前にあらわれたのが、ナインという、本当に「この世界を救う」ことが可能な魔女である。この魔女がなぜ、あらわれたのか。それは、アイが「あきらめた」からである。だから、彼女は何度も、アイに、その「夢」を自分にお願いすることを要求する。アイはナインとアリスとのトラブルに、まさに、まきこまれる形で、アリスの銃弾に犠牲となり死者となるわけだが、つまり、そういう意味において、アイが「死者」となることは必然であった。
アイが「この世界を救う」という夢をあきらめたことには、彼女がアリスの死を認めなかったことと関係している。つまり、彼女はアリスを、この世界の住民としてひきとめることを、自らの「この世界を救う」という夢をあきらめることの代償として行った。つまり、アイがアリスが生きることを選んだことが、彼女の以前の夢の禁忌になっている。
アイが「あきらめた」ことは、アリスを救ったことに対応している。つまり、そこには、なんらかの「自己犠牲」という奇跡が関係している。
しかし、そういう意味においては、今度は「逆」の関係が問われている、と考えることができる。つまり、

  • アリスがアイを救う

という問題である。つまり、もう一つの「自己犠牲」である。

その膝にすがりつくように、アリスは力なく頭(こうべ)を垂れた。
「せめて、生き返ってくれ......アイ」
「んー。どうしましょう」
「俺に、罪の償いをさせてくれ......」
「あ、それ駄目です。だったら嫌です」
本当に、さっきから嫌なことばかりを言ってくれる。罪の償いというなら花の一輪でも贈ってくれればいいのだ。それも、その辺の空き地に咲いているようなのでいい。別に断崖絶壁の上に咲いているようなやつはいらないのだ。
「......絶対に生き返らせてやる」
「私はどちらでもいいですよ」
アイは別に、死んでいたいわけでも、生き返りたいわけでもない。ただ異能や奇跡に頼らずに、自分の運命(ルール)に従っていきたいだけなのだ。
きっとそれが、永遠を歩む正しい道なのだと思うから。
だから納得できるものなら、説得されてもよかった。

この作品を分かりにくくしているのは、アリスの存在であると言えるだろう。アリスをなぜ、アイは助けたのか。また、なぜアリスを助けた後、アイは急速に「世界を救う」という夢と、距離をおくようになっていったのか。

......それにしても。と、アイは思う。
地獄色の瞳で炎を振りまくアリスと、
涙に濡れて自らの力に恐怖しているナイン。
そんな二人の酷さとは、対照的なまでに自分は普通だ。その違いがどこから生まれるのか不思議だった。殺すのと殺されるのでは、やはり後者の方が厳しいだろう。それなのに、自分はこんなに普通で、他人を気遣う余裕までる。対してナインやアリスは厄災のようにひたすらに鋭くなってしまった。
『違う人間だから』などという答えに逃げる気は無い。そんなことは当たり前の話なのだ。だからこれは単純に、縁と時の問題なのだ。
アイにはユリーがいた。
ユリーがいて傷持ち(スカー)がいた。
セリカもディーもターニャもいた。三姉妹もウッラもキリコもいた。
皆がいたから、こんなに穏やかでいられたのだ。そのことに一片の疑いもない。
彼らがいたからアイは泣けた。死して渇いたこの身の涙が、皆の頬で流れたのだから。
彼女らが笑ったからアイは笑えた。死の果てでさえも微笑みが有るのだと、友がよろこび、教えてくれたのだから。
きっと、自分に最初からそういう人達がいたら、夢など抱いていなかったのかも知れない。なぜなら夢の大部分は、孤独を贄(にえ)に出来ているのだから。
その極限が、この二人だ。
魔弾『アリス』
魔女『ナイン』
神さまのいない日曜日IX (ファンタジア文庫)

この作品を分かりにくくしているのは、アイがアリスを救うことで、それまで彼女がずっとこだわってた「世界を救う」という「夢」に急速に興味を失っていくのにもかかわらず、対照的に、アリスには、そういった

  • 変化

が見られないことなのだ。
上記の指摘は、この作品において、非常に重要である。なぜ、アイは「代わった」のか? それは、彼女がアリスの救済をターニングポイントとして、

  • 自分が孤独でない

ということに自覚的になっていった、ということが重要である。それ以前の、第1巻の終わりで、これから、この世界に旅に出ると決意していた時、彼女は、本当の意味で、知人がいなかった。その

  • 孤独

が、ほとんど比例しているかのように、彼女の「夢」であり、「幻想」であり、それと同等のものとして、異能や奇跡が、用意されるわけである。
つまり、彼女は、実際にアリスの救済に関係したことによって、アリスへのコミットメントを意識するようになる。つまり、彼女は孤独でなくなる。それと同時に、その行為自体もが、異能でも奇跡でもない、この世界のルールとして、理解される。再解釈された、ということなのである。
しかし、対照的にアリスは、まだ、そちら側の世界に行っていない。それが、アイとアリスのどこか話がすれ違う理由だと考えられるであろう。
アリスはまだ、向こうの世界の、異能と奇跡の世界、つまり、

  • 孤独

の世界の住人である、という自覚がある。そういう意味で、彼はアイと自分との距離を、絶対に埋まらない距離を感じている。
そして、その彼の行動は、結局は、この作品の最後の最後まで変わらなかった。
この変わらなかった、ということが、何を意味しているのだろう?
おそらくそれは、ナインに対して、アイがどのように、対応したのか、に示されている。

「以前、私はあなたに『失敗』しなさいって、いいましたね? そうしないと、あなたは幸せにはなれないって」
「......うん」
「あれ、訂正します」
孤独(ゆめ)を諦めなければ幸せにはなれない。アイはそんな風に考えていた。でも違った。
それはただの体験談で、人に『可哀相(かわいそう)』というのと同じ事だった。
孤独には二種類あるのだと、アイはもう知っている。
一つは一人でなる孤独。夢へ向かうための諸刃の剣。
そしてもう一つが他人が勝手に作る孤独。『あいつは違う』と、自分たちを守るために作られる見世物小屋の檻。
自分はもう少しで、そんなものに加担するところだったのだ。
「泣くことなんて、いっこもないんですよ。ナインさん」
世界を滅ぼす魔女の子を、アイは愛情で抱きしめた。
「望むままに、あるがままに、生きたいように生きて下さい」
「......いいの?」
神さまのいない日曜日IX (ファンタジア文庫)

ナインは、以前の私のブログの記事の文脈から考えたとき、「わたモテ」の「もこっち」となるであろう。彼女は、自らの自意識の中を生きている。孤独であり、孤独であるだけに、妄想と思い込みの世界を生きている。彼女が世界を救うと言うことは、「もこっち」が、リア充を罵倒することに対応している。この「全能感」は、「もこっち」が影でリア充を嘲笑するときの「全能感」に対応している。
「もこっち」のリアルは、こういったリアルだと言える。彼女は何もできない。何もできないがゆえに、なんでもできる。ナインがそうであるように。
もう一度、この関係を整理しよう。
アイは、自らがこの世界において孤独になったとき、「世界を救う」ことを夢とする。しかし、彼女が、この世界のルールを侵犯し、アリスを救ったとき、その事実は、別の意味をもつことになる。つまり、アリスを救うという事実が、彼女が「孤独でない」ことを彼女自身に自覚させる通過儀礼を意味していた、ということである。
このことは、複雑な意味を与える。確かに、アイが行ったことは「奇跡」である。しかし、それは、どういった「ルール」において、そうなのか。
というのは、これ以降、アイは、まったく、「世界を救う」という夢に興味がなくなるからだ。
つまり、こう解釈できる。アイがアリスを救ったことを、後の世界からふりかえったとき、むしろ、「後の関係」の方がリアルだったのではないか、とも考えられるわけである。
つまり、アリスが人間として生きる社会、こちらの方が、「リアル」な社会だったのだ。こちらの方が「自然」な社会なのだ。と。
アイが一線を超えたことが意味したことは、それ以前にアイが、この世界をどのように認識していたのか、からの延長で考えてはならない。この一線を超える通過儀礼は、非常に大きな地殻変動を起こしている。もっと言えば、この世界の「ルール」そのものを改変していくわけである。
アイは孤独ではなくなる。すると、アイは夢を生きなくなる。アイはこの世界を「リアル」な、自分が考える「ルール」の範囲の世界だと認識し始める。それと同時に、実際に、この世界は、普通の世界になっていく。
ところが、である。
アリスとナイン。この二人は、いつまでも、アイの普通の世界と共存しない。
そのことの意味とはなんだろう?
アリスは、アイに愛の告白をする。それは、自分がこの世界に「人間」として生きることになる、アイの行動に対して、どうしようもない「戸惑い」を表明していることが分かる。ところが、彼はそう彼女に告白した、すぐ後に、自らを「半分」殺すことで、死者の彼女を「半分」生き返らせた後、彼女に別れの挨拶もせずに、その場を立ち去ろうとする。このことは、彼が今も

  • 孤独=夢

の世界を生きていることを意味している。
しかし、どうだろうか?
私は、この作品を理解する最も重要なポイントは、この作品の「主人公」がアイであることだと思っている。
そして、このことによる、必然的な結果として、アリスは、まったく意味不明であり、まったく、理解できない、まるで「人形」のような存在になっている。
しかし、このことを、この作品の欠陥とすべきではないのではないか。
というのは、この作品が、あくまでも、「アイ」の世界だからなのだ。
なぜ、アリスはアイに告白したのか。それは、ここでアイは告発されるべきだからだ。というのは、なぜ、今、最終回になれるのか、に関係している。
なぜ、このアイの旅は始まったのか。それは、彼女が両親を失い、この世界に、天蓋孤独の存在になり、生きる目的を失ったからだ。つまり、作品として、このフラグに、なんらかの決着をつけなければならなかった。
そういう意味から考えたとき、アイとアリスの関係は、アイの両親の

  • 関係

の「再現」なのである。しかし、この反復は、たんなる反復でない。つまり、アイの両親の「悲劇」を乗り越えるものでなければならなかった。
アリスは、アイにとって、「他者」である。
それは、アイの母親が、アイの父親と、あまり幸福な夫婦生活を送れなかったことと関係している。
そして、このことが、アイとアリスの関係に対応している。
アリスは、最後まで、アイの世界に「入ってこない」。アイの「リアル」な世界の住人に、アリスはならない。しかし、それは、アイの母親にとってのアイの父親の原像に対応している。しかし、だからといって、アイにとってアリスの存在が、アイの父親の悲劇の「再現」ではない関係とは、どういったものなのかが、示唆されなければならない。
アリスは、アイの母親にとっての、父親が「どういった存在であったのか」に対応して、存在する。
アイの父親は、アイの母親を愛し、アイを産んだ後、アイの母親の元を離れる。そして、この構造は、再度、アリスによって、アイを相手に行われる。
しかし、である。
一つだけ違っていることがある。
アイの母親は、アイの父親と離れ、死者の村に残ることを選んだ。しかし、アイは、アリスと一緒にいることを目指そうとしている。もちろん、だからといって、アイの母親にとって、アイの父親が理解できなかったのと同じように、アイにとってもアリスは他者であり、不透過な存在であることには変わらない。
しかし、ね。
それでいいんじゃないんですかね。
アイとは何者か。
この世界はアイによって作られた。もっと言えば、アイの母親とアイの父親の悲劇、アイの悲劇が、この世界の歪さをもたらした。この世界がこのようにあるのは、アイのつらさが、このような形をとらざるをえなかったからだ。だからこそ、この歪さは、アイ自身の生活の実戦の中で、回復されていく必要があった。彼女は、「大人」になる。それは、自らが作り出したこの世界で、もう一度、本来、自分がこうありたかった世界を実現しようと、一つ一つ取り組むことであった。
そういった意味では、この作品は、典型的なビルドゥングス・ロマンスの形になっているのが、特徴であろう...。