パオロ・マッツァリーノ『偽善のすすめ』

「偽善」という言葉は、明治近代化の過程で作られた「翻訳語」なのだそうだ(実際は、中国で聖書の翻訳語として使われたというのが早いようだが)。

「あれ? じゃあ、英語で偽善の反意語はなんなんだろう?」
”誠実”などとなっています。偽善が hypocrisy(ヒポクリシー)で反意語は sincerity(シンセリティー)です。これは英語以外の主要な西洋言語では、どれもだいたい似たような単語が使われています。
日本の英和・和英辞典ではすべて、偽善はヒポクリシーと訳されています。でも”偽善”の反意語は”偽悪”なのに対し、”ヒポクリシー”の反意語は”誠実”。
逆に考えると、西洋人にとってヒポクリシーとは「誠実でないこと」を意味します。しかし日本人が”偽善”を「誠実でない」という意味で使うことはまれでしょう。
てことはつまり、西洋人の考える”ヒポクリシー”と日本人が考える”偽善”は、似ているけど別のものなのではなかろうか?

だとするなら、まず、一般に偽善という言葉が西洋において、どのように使われたのかを考察する必要がある。

聖書の中の偽善のほとんど、「マタイによる福音書」に集中していますし、そちらの偽善批判はだいたい似通っています。

あなたは施しをするときに、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。

これは、何を問題にしているのだろうか? おそらく、慈善行為が「宣伝行為」の手段になっていることの「不純さ」を言っているのであろう。このように考えるなら、一時期世間を風靡した、タイガーマスク騒動のような「匿名」の寄付が正しい、ということにもなるのかもしれない。
例えば、この本では、地方の新聞では、震災義援金に寄付した人の名前が記載されることから、日本人は別に偽善を嫌がっていない、と主張する。しかし、それは少し変な印象を受ける。なぜなら、例えば、地元の祭(まつり)において、地元の人は寄付をする。すると、どこの家の寄付があったみたいに、名前がでる。これは、偽善を嫌がっていないのではなく、「みんな」がやることが当たり前だから、むしろ、寄付しない方が恥かしいから、ということであろう。つまり、強烈な横並び意識があり、また、そのことを「しょうがない」と思っているし、それはそれでいい、という感覚がある、ということであろう。だから、むしろ寄付を「しない」場合の方が、その「理由」をしつこく聞かれることになるかもしれないという意味で、コミュニケーション・コストがかかる、ということなのであろう。
だとするなら、ここでは何が問題にされているのであろうか? 日本語の偽善は、「善」との関係によって、その意図が問題にされている。つまり、それが「善」であることは前提なのである。
ところが、英語の「ヒポクリシー」は、ひとまず、それが「善」かどうかを仮定していない。まず、そういう判断を避けている。そうではなく、「誠実」に神の前に立っているのか、その姿勢が問われている。つまり、なんらかの「不十分さ」があることが問われているわけである。

偽善、ヒポクリシーの語源はギリシャ語の”演技”です。人はだれでもなんらかの役割を演じているんです。いろんな化けの皮を、とっかえひっかえかぶりながら生きているんです。

演技をすることは、神を「だます」行為である。ということは、

  • 別の神

への信仰を告白していることと同値にとられる。つまり、偶像崇拝だ。この「ヒポクリシー」の話を分かりにくくしている原因は、この偶像崇拝の問題を避けて話そうとしているからのように思われる。
この世界にとって、なにが善であり、なにが悪であるのかを、人間が最終的に決定できるだろうか? それは「神」の仕事なのではないか。だとするなら、私たち人間が、なにが善でなにが悪なのかの議論に深く拘泥することは、生産的ではない、ということになるであろう。
しかし、その場合に、「誠実」なのかどうかは、比較的に簡単に問えるわけである。
ある問題を考えるときに、その証明を徹底して行ったのか、は「誠実」の問題だと受けとられるであろう。人生は短いから、ある一つの問題ばかりに時間をかけられない、と言って、自分の立場に有利な問題ばかりを

  • フレームアップ

していることは、どこか誠実さに欠ける。つまりこれも、一種の「ヒポクリシー」なのだ。

その例として、江戸時代の学者、本居宣長の著書『玉勝間』を取りあげます。
先にことわっておくけど、その本で本居宣長は”偽善”という言葉は一度も使ってません。江戸時代にはまだ”偽善”という言葉がなかったことは、以前に検証済みです。ここでも、そういう趣旨のことを書いてるというだけです。
うまいものが食いたい、おしゃれしたい、金持ちになりたい、人から尊敬されたい、長生きしたい、といった気持ちこそが、人間だれしも持っている本心だ。その本心を隠してうわべを飾るのは、偽りである。
たしかにここだけ読むと、本居が偽善を笑い、賺してんじゃねえよ、もっと欲望のままに生きようぜ! ベイベー! とけしかけてる露悪的・偽悪的な人みたいに思えます。
でも、読者にそう思わせたとした、丸山はちょっとズルい。なぜなら本居はこの文章をこう締めくくっているからです。
------とはいうものの、うわべを飾っていいひとぶるのは、いつのよでもあることだから、そんなに責めなくてもいいか。
「あー。丸くおさめてる。ひよってる」
本居宣長は、たしかに偽善的な態度の人を皮肉ってるけど、人間ってそういうもんだよね、と人の弱さも認めてるんです。

本居宣長は、さんざん、自分の自然な感情を偽って行動している人たちを、批判しておきながら、そう、さんざん書いてきた最後で、でも、そういう人たちが、そう振る舞ってしまうことも、ある意味で、自然だよなー、と、一言付け加えてしまう。つまり、問題はそこなんじゃないんじゃないのか、ということを自分で示唆してしまっているわけである。
仮面とは「嘘」である。しかし、偽物が全部正しくないと言うと、そもそも、学習という行為が成り立たなくなってしまう。学ぶためには、まず、「まねる」という行為が必要になる。しかし、それは「偽物」である。少なくとも、自分の内面から自然にでてきたものではない。
ところが、である。
その「まね」を何度も行っていると、それがあたかも「最初から自然であった」のではと勘違いしそうになるほどに、自然になることがある。しかし、こういった場合、そもそも、その行為は「もともとそうあるべきだった」のかもしれないという意味で、最初から「自然だった」とさえ言えなくもない、とも言えるわけである(これが、学習であある)。
つまり、大事なポイントは、その嘘が、

  • 「相手」を意識している

ということの意味なのである。相手の「反応」を予測して、発言をデコレートしていく。その過程で、「嘘」が、その意図と共に、混入していく。
そしてこの場合には、二つの理由が考えられます。

  • 自分が相手に馬鹿にされるのが嫌だから嘘を言う。
  • 相手が自分の発言に傷付くのが嫌だから嘘を言う。

もし前者であるなら、そのことによって、相手は不利益をこうむるかもしれないので、言い訳の余地がない、ということになるかもしれないが、後者のパターナリズムの場合は、実際に相手が助かる場合もあるのかもしれないが、そうならないかもしれない。
しかし、いずれにしろ、ここにおいては「誠実さ」ということは相対的に問えるわけである。適当に面倒くさがってやっていれば、どこか不誠実であろうし、実際に実害がでているのに、見て見ぬふりをしていれば、不誠実であろう、といったように。

丸山の「偽善のすすめ」は、こんな感じで締めくくられます。政治家の汚職国会での強行採決なんて悪いことがまかりとおっているけれど、それをよのなかそんなもんさ、と冷笑して悪を認めていいのか? 偽善と承知で悪いことは悪いと批判したほうが、少しはよのなかがよくなるんじゃないの? 悪よりが偽善のほうがましなんじゃないの?

八〇年代から二〇〇〇年の期間中、”偽善”を肯定的に使った記事でめぼしいものは、『Sapio』一九九三年六月号に載った、批評家の柄谷行人さんと浅田彰さんの対談記事くらいのものです。
おふたりは、日本国憲法の九条改正に反対する意見を述べるなかで、たとえ偽善といわれても、憲法九条を守ることが善であり、日本のためになると主張します。

浅田「理念を語る人間は何がしか偽善的ではある」
柄谷「偽善者は少なくおも善をめざしている」
浅田「めざしているというか、意識はしている」
柄谷「ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない」
浅田「むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する」

さらに浅田さんはつけ加えます。日本の社会にはホンネとタテマエがあるとむかしからいわれるけど、実際のところは、日本人タテマエという偽善を嫌い、ホンネだけにしてしまいがちなんじゃないか。逆に日本以外の世界の国々のほうが、タテマエとしての正義を重んじ、けっこう偽善的にやっているよ。

ようするに、この二つの引用は、逆説的だが、今度は、日本語の「偽善」という言葉に含まれている「善」に注目することで、もともとの「ヒポクリシー」の意味、「誠実でない」ということを強調している。
「偽善」は一見すると、善の否定であり、「悪の肯定」に思われる。しかし、言うまでもないが「ヒポクリシー」の意味を考えれば、そんなわけがない。
「ヒポクリシー」は「誠実でない」と言っているだけで、その人が誠実であろうと目指しているか(=善)、誠実であろうとしていないか(=悪)の判断に関係してこない。
嘘が問われるのは、その「嘘をつかれる」相手との関係を意識しているから、と考えられる。その場合に、一方的に嘘をつくことになる側を、道徳的に責めることはバランスを欠いているのかもしれないが、逆に言えば、

  • なんでそこまで相手に話さなければならないんだ

とも言えるわけである。相手に何かを話さなければならないと思うから、その「体裁」を気にする。つまり、かっこつける。つまり、

  • 相手の反応を気にする

わけだ。しかし、もしも最初からデタッチメントであったなら、なんとも思わないわけであろう。だとするなら、なぜ相手とのコミットメントを

  • 前提

にして生きているのか、という問いも成り立つわけであろう。
たとえば、上記の寄付の場合の、タイガーマスクにしても、もしかしたら、なんらかの不純な動機で行っていたのかもしれない。しかし、少なくとも、この人の正体を誰も知らないということは、上記の聖書の例のような、

  • 宣伝目的

のような効果は実現できないわけだ。上記の丸山の例でいえば、国会の「悪」が「悪」のままあることはまずいんじゃないのか、と言うことで、その人の名前が知れわたって、国に逆らっている人という噂が広まれば、仕事を探しづらくなるかもしれない。だとするなら、今の「選挙」が実名を書かない、無記名投票であるように、本来は、匿名的なコミュニケーションでなければ、「国会での悪」の排除のための、議論は成立しないのかもしれない(国会議論の無記名投票化!)。
そして、最後の「理念」という嘘は、興味深い。理念は常にタテマエにしかならない。しかし、理念のない社会が、いい社会だなんて、だれも思わないであろう。つまり、だとするな、善とは、そもそも、「理念」のことであって、それを「状態」と考える、朱子学のような作法が、どこか不自然だ、ということなのかもしれない...。