司波達也という「ダークヒーロー」

小説『悪の教典』について、遠隔操作ウイルス事件の片山被告が言及したことは、大変に興味深い印象を与えた。つまり、ダークヒーローについて、彼が言及したことが、近年の「ネトウヨ」的現象の一つの証左として受け取られた、というふうに解釈できるからだ。
そういう意味において、ラノベ魔法科高校の劣等生」は、主人公の司波達也の問題を、ひとまずは、

  • ダークヒーロー問題

という視点で整理するのが、この問題のアプローチとしては普通なように思われる。

先天的な魔法演算領域を「分解」と「再成」に占有されていたため、通常の魔法師としての才能を持たない人間として生まれた。魔法師でなければ四葉家の人間として居られないことから実の母親である司波深夜は当時6歳の達也に「強い情動を司る部分」を白紙化し人工魔法演算領域を植え付ける精神改造手術を施した。
手術の結果、唯一残った「兄妹愛」という衝動を除いて全て失ったが、引き換えに魔法を操る力を得た。
既に小学生で分解魔法と自己再成魔法を使いこなし、四葉家の戦闘訓練をこなしていた。
母親の死後、桜井水波が同居するまでは、父親とその後妻とは別居して兄妹のみで生活していた。達也はフォア・リーブス・テクノロジーから多額の報酬を得ている。
司波達也 - 魔法科高校の劣等生Wiki - アットウィキ

司波達也「問題」を、私がここでは「ダークヒーロー」問題に焦点をあてて考えるべきと言うのは、上記の「まとめ」の引用を読んでもらえれば理解してもらえるのではないか。

  • 当時6歳の達也に「強い情動を司る部分」を白紙化し人工魔法演算領域を植え付ける精神改造手術を施した。手術の結果、唯一残った「兄妹愛」という衝動を除いて全て失った

つまり、この主人公は、脳の手術によって、人間的な情動がない。人格破綻者として描かれている。ところが、当人は普通に高校に通っている。なぜ、それができるのか。これが、ダークヒーロー問題である。
本当は、当の本人は、非人間的なことばかり、毎日考えている。しかし、そのことを、だれも気付かない。なぜ、そんなことが起きているのか。それは、

  • ダークヒーロー自身が自分が異常であることを気付かれないように、一般人の眼を「だます」テクニックを駆使しているから

と考えるわけである。
しかし、なぜそのことが「ネトウヨ」問題につながるのか、という部分についてはどうか。

小さい頃といっても中学一年生の夏のこと。旅行中妹を傷つけた侵略者に対して復讐をするために軍に協力を申しでたのがきっかけ。そもそも軍属の前から妹の護衛であり、護衛任務の間に既に何回も人を殺害している。
司波達也とは (オニイサマとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

最初の引用で、「手術」などと、あっさりした記述がされているが、ようするに、軍事ロボットとして、「最強」の能力を、このとき、与えられた、という設定なわけである。
そして、実際に、人殺しを子どもの頃から始める。しかし、あまりにも「最強」の軍事能力が与えられているため、国家の軍隊が、たばになって向かってきても勝てない。あまりにもの、戦闘能力の高さのため、そもそも、だれも彼を止められない。
そこで、何が起きているか。なんと、子どもの頃に、軍との「協力関係」が成立した、というわけである orz。作品の中でも、何度も、自衛隊や警察や公安と、友好的に、情報のやりとりをしているだけでなく、実際に、軍の、どこかの部隊の「所属」であるかのような記述さえある。
ところが、である。
先ほど言ったように、性格が、手術によって、人格崩壊している。すぐに、衝動的に

  • 毎日

人殺しをしている。しかも、そうやって人を殺しても、なんとも思わない。しかし、たとえそうだとしても、自衛隊や警察や公安は、その情報をもちながら、なんの「反応」もしてこない。この「事件」を調べようとしない。
ダークヒーローは、ネトウヨ社会が「求める」ヒーローである。このヒーローは、基本的に人格が崩壊している。平気で、人殺しをする。しかし、そういった非人間的な存在をなぜネトウヨは、「ヒーロー」として受けとめるのか、なのである。それは、

  • 今の時代の閉塞感を突き破ってくれる

という「ネトウヨ」的感性に関係している。サヨクなど、(彼らの視点からの)非国民連中が気に入らないネトウヨは、彼らを「殺してくれる」ダークヒーローは、たんに

  • それだけ

の意味において、「ヒーロー」だというわけである。ヒーローとは、友敵理論における、敵という「不安」を、いわゆる、世間という「ごちゃごちゃして訳の分からない」ルールという「しがらみ」から、解放されて、

  • 破壊

してくれる、気分的に「すかっ」とする存在だというわけである。
しかし。
その「イメージ」は、常に「あいまい」であることが重要なポイントであろう。この作品において、各巻の最後は、きまって、テロリストへの司波達也

である。残虐に、一人一人を、皆殺しにしていく。ところが、この作品は、いくら待っても、その「テロリスト」が「なぜ」テロリストと判断されたのかの根拠が語られない。いわば、

に「テロリスト」は「テロリスト」として、作品の最初から登場する。つまり、テロリストというレッテル・イコール・好きなだけ殺していい、という作品内の暗黙のルールが存在するかのような、不気味な構成になっている(テロリストの一人一人にも、普通に、子どもがいて、彼らが死ねば悲しむ、家族が、「当然」いる、という想像力がない)。
つまり、ここには、一種の

が存在する。裁判の過程によって、真実を確定していくといったような、デュー・プロセス・オブ・ローの精神はない。いわば、司波達也という非人間の頭の中にある

  • 妄想

によって、好きなだけ、人が殺される世界、だというわけである...。