嘉戸一将『西田幾多郎と国家への問い』

九州電力の社長と会食して安倍首相は「川内原発はなんとかします」と言ったそうだが、
http://www.asahi.com/articles/ASG7L74G3G7LUTFK01P.html
これじゃあ、完全に、時代劇の悪代官と越後屋だよな。二人して、「おぬしもわるよのお」とか言い合ってるんでしょうね。
と思っていたら、知事に裏金でしょう。なんか、つながっちゃいましたねえ。
http://www.asahi.com/articles/ASG7G7HWWG7GULZU00H.html
いいかげん、国民も、なんか言ったら、どうなんだろうか。法人税減税のために消費税増税されて、庶民の懐は、どんどん、苦しくなるばかり。なんでこんなめにあわされるのだと思っていたら、なんのことはない。悪代官と越後屋は、裏でグルになっていた、と。
こんな奴を、総理にしている限り。こんな奴が、党首をやっている自民党が、日本中の選挙で勝ち続ける限り、お宅の生活は、どこまでも、壊され続ける。原発再稼働から、集団的自衛権から、消費税増税から、それでいいんですかね?

  • 家の近くの原発が福島第一になって、家を捨てさせられることになってもいいんですかね?
  • 集団的自衛権で、アメリカの戦争に、大事な息子を贄(にえ)として捧げされられることになってもいいんですかね?
  • 消費税増税で、なけなしに稼いできたパパの給料が、どんどん、めべりしていいんですかね?

全部、悪代官と越後屋が、庶民を、生かさず殺さず、ですよ orz。そして、彼ら同士は、裏で裏金で、好き放題しているって、こんなんで、

  • 恐しくなりませんかね?

いやあ。この国の国民は、なんとまあ、おとなしいですなあ。ほんとに、生きてるんですかね。というか、人間なんですかね。
なんにも言わない。
なにも言い返さない。
なに言われても、「すみません」「ごめんなさい」「もうしません」。
アホか。
お前は、馬鹿にされたんだぞ。怒れよ。殴られたら、殴り返せよ。生きてるんだろ!
まあ、こんなようなことを、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読みながら、考えたんだけど、あながち、間違ってはいないよなあ、と。
私は、いわゆる、国家論って、まったく、意味が分からないんですよね。つまり、国家というカテゴリーになにか、本質的な意味があるかのように語るレトリックが、よく理解できない。実際、アーレントの『人間の条件』にしても、確かに、これは政治の本ではあるけれど、ようするに「人間の条件」と言っているくらいで、もっと言えば、集団としての人間の、なんらかの特徴を考察したものであって、その一つの例として、国家がある、くらいなものであろう。

数年前の失恋を思い出したり、明日来るであろう台風について予想したり、数学の問題を解いたりするとき、それらをしている私というものはないのだろうか。ないのだろう。数学の試験問題を解きながら、ふと今朝の車内の出来事を思い出し、それらと無関係に脚のかゆみを感じるときでさえ、それら複数の事象をまとめている「私」などというものは存在しない。存在するのは、数学の試験問題を解こうとしていること、今朝の車内の出来事が思い出されていること、脚にかゆみが感じられていること、そうした諸々のことだけだろう。それなら、なぜそれらはばらばらにならないで、一緒に感じられるのか、と問われるなら、後の西田の用語を使って、同じ「場所」に起こってうからだ、と答えるのはごく自然な発想でないだろうか。そして、その「場所」を、あえて名づけるなら、「私」と呼ぶのだ、と考えることができる。だから、この場合の「私」は、「私は」という主語的統一ではなく、「私に於いて」という述語的統一なのである。

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

ここで、永井均さんが言おうとしていることは、西田幾多郎の「純粋経験」についてなのだが、でもそれって、ようするに、ドイツ観念論的な

のことなのでしょう。こんなふうに考えてみるといい。
物理学で「測定問題」というのがある。測定をするという行為が、測定される対象に影響を与えてしまう、ということだけど、ようするに、それが「ある」と言えるためには、測定された「結果」なんだよね。つまり、

  • それが「ある」と<言える>

ことと、測定マシーン「自体」を区別できない、ということなわけである。私たちが母親の体内から産まれて、外界を知覚し始める、つまり、「測定」を行ったから、この世界がどうなっているのかが分かるようになる。つまり、自分とその自分が感覚している世界は区別できないんだよね。自分が気分が悪いときは、「そういった」ように、外界を知覚するし、そうでないときは「そういった」ように外界を知覚する。
しかし、この話は、ここで終わらない。独我論というけど、ここでそれを「私」って、言う必要あるのか、という疑問なのだ、と。たしかに、こういった、一つ一つの外界を知覚する感覚はあるよね。しかし、だからといって、「それ」がなぜ

という形で、まるで「統一」されているかのように説明されるのか。測定対象と測定マシーンは、この測定という行為において「区別」できない。この場合、測定対象とは「世界」そのものなのだから、それと区別される「私」などという表現は、別の

  • モデル

を外部から持ち込んでいる、と言われてもしょうがない、となるだろう。

この場面でもし言葉が使えるとすれば、それは「こうである」と言えるだけである。「どうである」かは言えない。あえて分節化するとしても、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」と言えるだけである。いったい「どれ(ら)」が「どのとおり」に「どうなっている」のか、と問われたなら、ただ「これ(ら)が、このとおり、こうなっているんだ」と答えられるだけである。
西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

あらゆる言語は、一般性と特殊性によって記述される。ソクラテスは哲学者であると言う場合、私たちは普通、古代ギリシアの、プラトンアリストテレスが言及したソクラテスについて語っている。しかし、なぜそのように解釈されるのかについては、これといった根拠があるわけではない。なぜ、別の人と勘違いされないのか。言うまでもない。慣習的に勘違いされにくい、というだけであって、どこかのおっちょこちょいは、近所のソクラテスさんと勘違いするかもしれない。つまり、言語における一般性と特殊性は、常に、相対的に記述するしない運命にある。つまり、それ

  • 自体

に根拠を見出すことはできない。私たちが言えることは、せいぜい、この「モデル」自体の無矛盾性であり、完全性だ、ということになるだろう。
つまり、この問題を逆に言うなら、私たちが本当にやりたいことを言葉にするなら、

  • これ(ら)は、このとおり、こうなっている

というような指示詞による記述になる、というわけである。
しかし、この辺りで、だんだん自分たちがやっていることの「おかしさ」に気付いてくる。
よく考えてみよう。上記の指摘自体は問題ない。測定対象と測定マシーンを区別できない。そして、測定対象はこの世界自体であるとするなら、測定マシーンという表現自体が無意味だ(なぜなら、世界と区別できないのだから)。どんな言語も一般性と特殊性、つまり、相対的な意味しかない。つまり、あらゆることを説明する根拠はない。よって、すべてを指示詞で記述する形以外の正確な表現はない。
しかし、だとしても、そこにおいてすらある「文法」の根拠とは、なんなのか。つまり、この話が裏に隠しているのは、

  • この説明自体のメタ・メッセージ

は、じゃあ、なんなのか、つまり、そもそも、私たちは、どのようにして、言語を学習してきたのか、という問題なのだ。
上記のようなことが、もし言えたとしても、私たちは「なぜか」

  • これ

を言葉で書いている。つまり、だれかに説明している、ということであろう。つまり、独我論が正しいか間違っているかなどということは、しょせん、測定問題の亜流の話でしかなく、そのことを、まるで、あらゆる言明の「根拠」であるかのように語ることの

  • 情報量の少なさ

なのだろう。どんなに独我論的な分析を延々と続けようと、マルクスが分析した商品の物象化の問題には辿り着かない。だったら、その

  • 情報の価値

はどうなるのか? つまり、あらゆる学問は、そもそも、最初から「相対的」にしか存在しない、という、しごく、まっとうな結論になる、ということであろう(この事情は、数学基礎論をいくらやっても、関数解析などの普通の数学の基本定理が導かれるわけではない、に似ているかもしれない。つまり、それぞれ考察しているモデルが違うのだ)。
なにか、「根底」に基礎となる土台があって、その「上」に全てが建設されているという、建築モデルは、そのモデルが適合する場合には、通用する、というだけで、そうでない場合は、それだけのことにすぎない。
では、この事情を、ハンナ・アーレントの政治論に適用してみよう。

第一の意味というのは、「公示」とか「公開」など、情報の開示・発信に関わる意味です。アーレントはそれを哲学的に掘り下げているわけですね。つまり、情報として知られているという次元から、他者に対する「現われ appearance」、それも知覚的な「現われ」という次元へと掘り下げている、もしくはズラしているわけですね。
「現われ」というのは、通常は主観的なニュアンスを帯びた言葉ですね。誰かにとって主観的に「〜と見える」ことが、「現われ」だという風に考えるのが普通です。英語の<appear>は、<seem>とほぼ同義に使われることが多いですね。<pappearance>は、「外観」とか「仮象」といった意味もありますが、これらは、認識主体がその対象の本質をはっきり把握してない所か生じて来る幻影的なものと考えられがちです。しかし、アーレントは、「現われ」が他者か見られたり聞かれたりすることによって、「リアリティ」を獲得すると考えるわけです。「間主観性」を通して、「現われ」がリアルになるわけです。
近代哲学は、主体である自我の内面と 物質的な客体のいずれがより本質的かをめぐって議論を繰り広げてきたわけですが、アーレントはむしろ、物の人々に対する「現われ」を本質的だと見ているわけです。そういう「現われ」は、「共同幻想にすぎないのではないのか?」、という疑問を持つ人もいるそうですが、アーレントは少なくとも「公的領域」においては、全市民の視線に晒される「現われ」こそが、「リアリティ」の基盤になっていると見るわけです。

ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義

ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義

共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての「共通の本性」ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。

各人がそれぞれ”相互に全く関係ない場所”から”違ったもの”を見ていたのでは、リアリティは生まれません。単に雑然としたイメージが飛び交っているだけの状態でしょう。一つの空間にそれぞれに固有の場所を占める形で人々が集まっていて、同一の対象を見ていることが確かだからこそ、複数の人のパースペクティブが重ね合わされることによって、その対象のリアリティが増すわけです。テーブルに座っている人たちが、真ん中にある同じ物を見つめているようなイメージで考えればいいでしょう。
ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義

こういった視点は、どこか、「近代科学」のレフェリー制度に似ている。また、仲正さん自身が言っているように、廣松渉の物象化論やハーバーマスの言う間主観性論と同型だと言えるだろう。
たしかに私たちは、この世界を観測する観測マシーンである限り、この世界と自分自身を区別できない。それだけでなく、そういった観測事実(=純粋経験)それぞれを「束ねる」

といった「統覚」のようなものを、アプリオリに仮定することさえできない。しかし、そのことと、こういった

を仮定することは、普通に両立する。つまり、何がそれを許しているのか、なのである。それは、いわゆる、「帰納法」的な思考方法だと言えるだろう。
パースペクティブ重ね合わせ「モデル」は、必ずしも、真理への到達を意味しない。もっと言えば、

  • 真理を相手にしていない

わけである。じゃあ、何を相手にしているか。こうやって、その「パースペクティブ」を担う人たちの、

  • 異議申し立て

を、と言えるだろう。つまり、こういった人たちの異議申し立てがなくならなければ、「問題系」として扱われ、そういった抗議がなくなれば、「平和系」として、一定の正当性をもち始める、というだけにすぎない。
つまり、これが

である。ミームは「進化」する。しかし、ミームは少しも「正しい」ことを意味しているとは限らない。例えば、陪審員裁判において、すべての陪審員が「有罪」と言ったからといって、被告が実際に犯罪を犯していたことを担保しない。
ここで、大事なポイントは、なんだろうか。一言で言うなら、「多くの人が関わる」ということである。まさに、集合知である。
まず、最初の段階として、「観客レベル」がある。彼らは、政治を、まさに、テレビを見ているのと同じように、見ている。この段階は、一見すると、政治へのコミットメントが、まったく起きていないように思われるかもしれない。つまり「プライベート」な行為だと思うかもしれない。しかし、例えばその人が今見たことについて、ブログやツイッターに書き込んだとして、その意見が人口に膾炙したなら、なんらかの政治的行為と言えるかもしれないだろう。問題は、どんなことの、この「観客レベル」を介すことなく、政治的コミットメントは始まらない、ということである。
なぜ、こういった「パブリック」を、ハンナ・アーレントは重要視するのだろうか。
それは、そもそも、ハンナ・アーレント以前において、政治とは「何が問題だ」と考えられていたのか、と問うといいかもしれない。

マイネッケは、主権が無制約の権力であることを強調しつつ、それの定義から、「それゆえ、それはどんなほかの権力にも依存しない・永続的な・どんな委託にももとづかない・独自な・法律にしばられることのない・至高の・臣民に対する強権にほかならぬのである」と締めくくる。

周知のように、国家理性に関する言説は、一六世紀の特殊な政治状況を背景としちる。すなわち、カトリックプロテスタントとの対立に国内の諸身分の抗争が重なるという国内的・国際的な戦争状態である。したがって、国家理性という合理性は、具体的な合目的性を意味する。その目的とは、国力を増強することで「その敵を無限に圧倒すること」であり、そのために国家理性によって要請される統治術は「神や自然あるいは人間の法に従って統治を行う技法」ではなく、「国力を拡張的かつ競争的な枠組みの中で強化していうことを目的とするような統治の形態」を意味するとも言われる。しかし、この統治術は、他方で、国内の平和を条件つる。その意味で、国家理性とは少なくとも、いわば神学的闘争状態に安定をもたらす準拠でなければならない。

カール・シュミットは政治を「敵味方のカテゴリー」に集約される、と定義した。つまり、政治の問題は、どうやって「この世界をコントロールするか」、どうやって「自分のやってほしいように人に行動させ、自分がやりたいように人に行動させるか」といった、他者支配に関係して考えられた、と言えるだろう。
このことは、明治政府における、天皇制の位置付けにも関係している。

一体、何故、「人間以上ノ権力アルコト」やその「権力」の人間の行動への「制裁」を信仰することが、「憲法ノ解釈問題」に要請されるのか。穂積によれば、人間の「共同生活」にさまざまなレヴェルで「利害ノ衝突」がある、「之ヲ権力ヲ以テ秩序ヲ保チ其利害ノ衝突ヲ調和シイテサウシテ団体的生存ヲ永遠ニ伝ヘルト云フコトハ何ニ依ツテ出来ルカト言ヒマスルト是ハ法律ノ力カ宗教ノ力カテアリマス(中略)併ナカラ法律ハ人ノ外形ノ行為ニ付イテ取締ヲスルノミテアツテ人ノ精神ヲ支配スルコトニ至リマシテハ力及ハサルノテアリマス又国家ト箇人トノ関係ニシマシテモ種々理屈ヲ以テ之ヲ弁疏シマスルケレトモ併シンカラ冷淡ナル哲学論ヲ以テ何カ故ニ何カ故ニト云ツテ推詰メテ論シテ見ルト何セ我々カ国家ニ服従シナケレハナラナイカ主権ノ命令ハ神聖テアルト云フコトハ何故テアルカト云フ問イ対シテハ何処マテモ奥ノ奥マテヲ弁解シテイクト云フコトハ中々ムツカシイノテアリマス出来ヌト言ツテ宜シイノテリマス」、それゆえ「理論」と「知識」ではなく「信仰」や「宗教」が国家に必要なのである。

天皇は、無の中心である。つまり、天皇はなんの政治的欲望もない、とされる。しかし、その天皇が国民に命令する。自分がなにかになろうとするわけでなく(なにかの欲望に動かされているわけではなく)、国民に、なにかを命令するということは、その命令の「中立」性が担保される。つまり、いずれにしろ、こういった命令は、国民への平等の担保が果される。
そのことによって、国民はそこに、なんらかの「正当性」を読もうとしてしまう。
しかし、興味深いのは、上記の引用において、国家の行動について、「利害ノ衝突」を、その「動機」としていることだ。つまり、シュミットと同じく、友敵理論の結果として、天皇の正当性(=宗教の正当性)を考えようとしている、ということである。
しかし、こういった方向で「政治」の正当性を考えることは、私には、どうしても無理があるように思われる。
なぜか。
それは、

  • 自分が「知らない」ことを、自分が「判断」をするとして、果して、それで、あるべき「効率」さを実現できるのか

なのである。「政治」は、自分の身の回りのことだけを扱うものではない。本質的に、私が「知らない」ことを含んで扱う。つまり、私は、それをどうすればいいのかを知っていない、と言えるだろう。
こういった場合、私たちは、どのように振る舞うだろうか。おそらく、「適当」に扱うのではないか。なぜなら、よく知らないし、そのこと自体、自分個人には、効率的に扱おうが、そうしなかろうが、大きな影響はない、と考えるからだ。
しかし、こういったことを国家レベルで考えれば、そういった国家の隅々で、いかに効率的な扱いができるかは、税金の節約だけでなく、国民の「満足度」にも影響する、非常に大きな問題だとも言えるわけである。
ハンナ・アーレントがパブリックを、彼女の考える政治の最も重要なポイントとしたことは、このことと関係している。
彼女は、古代ギリシアの民主主義政治を重要視する。例えば、オリンピック競技を考えてみよう。オリンピックに出場すると、彼らを

  • 多くの人が見る

だろう。つまり、出場選手が、いい成績を残せば、彼らの名誉になる。多くの人からの祝福が待っている。
大事なことは、ここで「競争」がされていることであり、多くの「観衆」が、彼らを評価している、ということである。
多くの人が関わること、そうすることで、一人の人が「知らない」ことにも、その人が非常に詳しい可能性がある。こういった

  • 多くの国民の知恵

が、政治の質を圧倒的に上げることになる。つまり、である。友敵理論が駄目なのは、自分が「自分が嫌なことを知らない」ということに本質があるのだ。自分が嫌なことを知っているのは、この日本中にいる人の中のだれかかもしれない。だとするなら、私は、その人が友であろうが敵であろうが、その人の「知恵」を使わなければ、気持ちのいい環境にはならない、ということである。
これが、ハンナ・アーレントの言う「政治」である。
さて。西田幾多郎は、戦前における日本の哲学者の第一人者だったわけだが、当然、彼も国家について論じた。では、彼は、上記のハンナ・アーレント的な「国家の質」の感覚を理解していたであろうか?

国家有機体説は個人の自由を君主制の下で保障する理論であり、絶対主義的な支配から市民を解放しつつ、国家としての統一性や君主の指導的役割を維持するために用いられた道具であっが、日本における有機体説はそうし歴史的意義を捨象し、君主の下での組織化理論としてのみ機能した。そのため、徹底的な「非連続」として捉えられた西田における個の概念は、有機体説と対立するのである。論文「弁証法的一般者としての世界」(一九三四年)において西田は次のように言っている。

有機体的統一に於ては、各部分が独立的たると共に一つの全体を構成すると云つても、それ等は全体の部分たるに過ぎない。全体が全体の意義を失ふと共に部分は部分の義を失ふのである。それ自身に於て発展すると考へられるものに至つては、その一歩一歩が唯一的として再び繰り返すことができないとしても、何らかの意味に於て内的統一といふ如きものが考へられるかぎり、それは一つのものの発展といふ意義を脱することはできない、何処までも合目的的統一の意義を脱することはできない。その各の段階は真に個物的といふことはできない。真の個物と個物との間にアリストテレスが知るものと知られるものとを包む類概念はないと云つた如く、両者を包む所謂一般車といふものがあつてはならない。而もその両者が相限定する所に、絶対に相反するものの自己同一として、始めて弁証法的限定といふ如きものが考へられるのである。[7:311-312]

もしも、天皇が完全なる道徳的「全一」性を代表するなら、日本人は全員、天皇の「コピー」になればいい、ということになるよね。しかし、問題は、

  • 天皇すら「知らない」こと

なのだ。私たちは、天皇のコピーになって、その「天皇が知らない」ことについて、どうすればいいのかを

  • 天皇が「命令」してくれるのを待っている

のが「皇国史観」であろう。よって、天皇は自分がそれを何か知らないのに「はったり」で、国民に命令するようになる。すると、国民は、「なにかがおかしい」と思いながらも、天皇の命令は絶対であり、天皇の命令に背くときは死ぬときと覚悟しているわけだから、ハーメルンの笛吹きのように、全員で海に向かって自殺する、というわけである。
たとえ、天皇が「素晴しい」かったとしても、別に「全て」を表象している必要などないのだ。上記の引用を読む限り、西田はハンナ・アーレントの言う「多様性」は理解していたようである。多様性が維持されているから、パブリックの場における、集合知は、その品質を担保できる。
むしろ、問題は、この近代機械文明の時代において、どのようにして、人々が「パブリック」であることを動機付けるのか、なのである。どうやって、人々にデモに参加させるか。ネット上で、つぶやかせるか。さまざまな政治的アジェンダ

  • 観客

になってもらうか...。

西田幾多郎と国家への問い

西田幾多郎と国家への問い