宮台真司『終わりなき日常を生きろ』

この90年代に書かれた薄い本を、あらためて読んでみた印象は、むしろ、前半にこそ、意外な印象を受けた。
つまり、けっこう「まとも」なのだ。

もし事件がオウム真理教によるものだとすれば、きっと二〇年あまり前に起こっ連合赤軍事件との類似が話題になるだろう。「救済を唱える者が無辜の民を虐殺する」という逆説は、「革命を唱える者が同志を虐殺する」という逆説と、見かけが似ているからである。

宮台さんは、オウムの地下鉄サリン事件を同時代で、批評活動をマスコミを舞台に展開していく上において、最初に、この事件と「連合赤軍事件」を、平行して考えることの重要さを認識していた。
つまり、彼は、このオウム事件の本質は、60年代の、大学紛争であり全共闘運動にあると考えていた、という所が非常に重要だと思っている。
そういった視点から、彼は非常に鋭い社会批評を始める。
なぜ、オウムと全共闘を並べることが重要なのか。
つまり、オウムの問題は、オウム真理教の幹部連中に、高学歴エリートが多くいたことに関係している。つまり、両方とも、多くの東大生が関わっていた、エリート問題として、宮台さんは受け取っていた、ということなのである。
そういう意味において、この本の前半は、宮台さんによる、東大的知性に対する「闘争」の書だと言ってもいいだろう。

末端の信者は皆いい人なんですよ----オウム・ウォッチャーの人たちそう言いはじめたとき、私は強い違和感を感じたのを記憶している。「末端の信者たちがサリンばらまき計画など知る由もなかった」と言いたいのは分かる。しかし「計画を知らない末端のいい人」と「計画を知っている極悪人の幹部」という構図は、私が考えていのとはまったく違っている。むしろ計画を立て、実行に移した連中こそ「良心あふれる人々」ではなかったか? そうでなくてサリンをばらまけるか? たとえそうするしかないという状況に追い込まれたのだとしても、「救済につながる」と信じてこそなしえたのではなかったか? 教団幹部に中流以上の柔和なエリートが多いことを取り上げて、マスコミは繰り返し、「なんでこんな人たちが」というふうに反応してきた。しかしこの扱いにも同じ意味で違和感を感じざるを得ない。むしろ、そのような人たちだったからこそ、拉致監禁をはじめとする数々の非合法的ふるまいにも、確信犯的に乗り出せたのではないのか? 誤解ないように願いたいが、彼らを擁護したり免罪したりしたいわけでない。そうでなく、「良心的であるがゆえにサリンをばらまく」「社会を考えるエリートであるがゆえにサリンをばらまく」という逆説----いわば観念的であるがゆえに出発点から最も遠い場所へと隔たってしまうという逆説----が理解できない限り、私たちは問題の核心を取り逃したままだろうと言いたいのだ。

ここの指摘は、宮台さん自身が、非常に緊張感をもって語られている印象がある。つまり、彼自身の全共闘に対する問題意識と、今回の問題を非常に近づけて考えようとしている、自己批判的に取り組もうとしているだけに、非常にスリリングな緊張感がある。
むしろ、「エリート」であるがゆえに、「良心がある」がゆえに、彼ら東大生は、サリンをまく。もちろん、多くの東大生はサリンをまかない。しかし、そうだろうか。彼らは確かに、サリンをまかないかもしれない。しかし、その「観念」性は、実質的に、サリンをまくことと「同等」のことを行うことに、やぶさかでない、ということなのではないか。
そういった、視点において、宮台さんの指摘は秀逸である。
なぜ、エリートは、そういった「業(さが)」を避けられないのか。

麻原教祖の説法は、聞き手に「善業か悪業か」という二者択一を迫り、それによって特殊な世界観を受容させていく。麻原教祖の本にも登場する説法がある。<釈迦牟尼の乗った舟に盗賊が現れた。放っておいては盗賊が舟の乗客たちを皆殺しにしてしまうので、釈迦牟尼はその盗賊を殺した。これは善業か悪業か? もちろん善業である。なぜならば、大いなる救済のために小さな犠牲を払ったけなのだから>。同じような説法はいくらでもある。<貧乏人から搾取する悪業を積み重ねて蓄財した金持ちがいる。この金持ちを殺して、その財産を、彼によって搾取された貧乏人たちに分け与えたとする。この所業は、善業か悪業か。まぎれもなく善業である。なにゆえならば、大いなる救済のために小さな犠牲を払っただけなのだから>。
しかし二者択一が一般化されるときには必ず、ある種の解釈の「自明でない」操縦が入り込む。たとえば麻原教祖はこの種の二者択一を次のように拡張していく。日本は今やアメリカやユダヤ、あるいはその手先である日本政府、はたまた創価学会やマスコミによって、食らいつくされようとしている。このままでは危ない。そこで大いなる救済のために、少々の手荒なこともやむを得ないのだと。かつて八〇年代に流行しニューアカデミズムは、二者択一には罠があることを喝破した----内部/外部の対立があるとき、それはすでに内部によって作り出されたものに過ぎない、と。しかし意匠に過ぎなかった哲学は、私たちに「生きる知恵」を残すことなく消えていった。
確かに「善業か悪業か」の二者択一として抽象すると、「大いなる救済のための犠牲」という同じ図式が当てはまるようにも見える。ところがよく考えると、釈迦牟尼の挿話と陰謀説的な正当化とは、まったく違った話にも見えてくることが分かる。釈迦牟尼の挿話の場合、盗賊を生かしておくと無辜の民を殺してしまうから、その因果を断ち切るために盗賊を殺す。極悪非道な金持ちを生かしておくと、これからも貧乏人からの搾取を続けるがゆえに、その因果を断ち切るために金持ちを殺す。しかし、地下鉄にサリンをばらまくとき、乗客たちを生かしておくと何かとてつもないことをしでかすとでもいうのか。挿話との照応関係を保ちたいなら、地下鉄の乗客ではなく、アメリカ軍やユダヤと戦うのがスジではないのか。

早い話が、東大生は、

  • 最も「優秀」な麻原の「信者」になる

と私は考える。それは頭がいいから、とか、そういうことではない。「釈迦牟尼は盗賊を殺」すことを「善」を、

  • ためらいなく

言えるから、彼らはテストでいい点を取れたのであって、それ以上でも、それ以下でもない。そういう意味において、テストで点をとるという行為自体が、どこか、観念的な行為であることが分かるであろう。
そもそも、日本においては、昔から、ヤクザ組織に関係している人たちには、どこか、自分がアウトローとして、カタギの世界から、一歩はみでた存在としての、後めたさがあったように思われる。
それは、学問などの芸事においても、日本においては、同じ感覚があった。そもそも、旧帝大に入るなんていう学生は、どこか、社会の一般の人とは違う、

  • 社会の常識から外れてしまった人たち

といったような、アウトローとして、カタギの感覚が分からなくなった人間としての、一定の、ひけめのようなものがあったように思われる。
だからこそ、彼らは、社会の表舞台に出てきて、自分が目立つことを嫌った。自分たちは、アウトローの人間として、社会の縁の下の力持ちのように、脇役であり、黒子としての役割を自覚していたように思われる。
言ってみれば、宮台さんの初期のオウム批判には、そういった全共闘の問題との平行において、捉えられていた、エリート批判の視点があった。

五月二一日の朝日新聞中沢新一は《ヨガは本来、神秘体験によって宗教的理解を深めるという手段に過ぎない》と述べ、オウムはその宗教的理解に届かなかったのだという。しかしそれでは何も言っていないに等しい。このセリフは、九一年九月の『朝まで生テレビ』で、麻原教祖が幸福の科学を批判して述べたのとそっくり同じセリフである。その「宗教的理解」がサリンばらまきを正当化する世界解釈であっても、少しも不思議はないということだ。「いや、良き宗教的理解と、悪しき宗教的理解がある」----そういうかも知れない。しかし宗教的理解とは一つの全体性であって、その外側に宗教的理解の良し悪しを判断する基準を作ってもムダである。本来どうにでも解釈できる神秘体験を「神秘的だ」と考えるとき、人は自覚しないままに大きな「選択」をしている。今日的な状況下でそれがどのような「選択」でありうるかを、ありとあらゆる可能性を含めて提示することこそが、「学者」を名乗る者の責務だろう。

宮台さんは、その批判を同じ「学者」に対しても、容赦なく攻撃した。上記の指摘が重要なのは、ようするに、中沢新一は、ほとんど「意味」のある自己批判ができなかった、ということなのである。
大事なことは、その「発言」が果して、

  • 新たな「情報」を含んでいるのか

というところにある。あらゆる学問は、その情報の「増加」にポイントがある。結果的に、なにも新しいものを付け加えられていないとするなら、その反論は、ほとんどなんの効果もない、ということを意味してしまう。
しかし、私はこの本を読みながら、だんだんと、その批評性が堕落していったのではないか、日和っていったのではないか、と思わずにいられない。
どこから、宮台さんはダメになっていったのだろうか。
この本の最初の方に、彼は二つのテーマを設定する。それが「日常」と「良心」であった。私は、この後者の「良心」に対しての分析は非常に成功していると思う。ところが、前者の「日常」は、結果的に、分析ワードとして、有効じゃなかったのではないか、と思っている。
なぜ、うまくないか。
なぜなら、「日常」をメイン・テーマとしたことで、むしろ、暗に、

  • その反対

が、ウムハイムリッヒ(不気味)なものとして、裏のテーマに、「ずっと」なっていたのではないか、と思うからである。
そもそも、なぜ「日常」だったのか。それは、彼自身が書いているが、非常に全共闘的な問題意識に関係していた。共産党革命の果てに訪れる「ユートピア」との対比において、この「日常」というキーワードが意味を持たされていた。これは、世界の終わりというハルマゲドンと区別ができないものとして受けとられた。つまり、世界が終わるから、「その後」として、ユートピアが構想される。つまり、オウムは世界が終わらないから、つまり、「終わりなき日常」を終わらせるために、サリン事件を起こすことになる、と。
つまり、当時の宮台さんにとって、「日常」は少しも、本格的なテーマではなかった。それは、「ハルマゲドンの否定」という意味をもっていたにすぎず、なんら、積極的ななにかを指示するものではなかった。
それ以降、この混乱が、私は彼に、ある勘違いを強弁されることになったのではないか、と思わなくもない。

学校性ストレスが背景にるの疑いないとしても、キレる中学生たちが、尾崎豊あるいは酒鬼薔薇聖斗の声明文ばりに、「もう一つの学校や社会」を提案するような反社会性という名の「広義の社会性」を帯びているかと言えば、否。端的に「脱社会的」である。実際「教員に注意されたから刺した」とか「拳銃が欲しかったから刺した」といった理解可能な「反社会的」動機は、単なる引き金に過ぎない。実は教員が注意しなくても、拳銃が欲しくならなくても、別のきっかけでいつでも引き金が引かれたことは明らかである。彼らは人を刺したくてスタンバっている。何でもいいからナイフで刺す理由が与えられるのを待っている。まさしく「脱社会的」状態。そんな状態に置かれた一部の中学生は、「学校のここが気にくわない」などと嫌悪するほどにも社会の「中」を生きていない。
オウム信者は、承認なき社会の「外」を生きるべく、教団という「もう一つの社会」を利用した。酒鬼薔薇聖斗はいっそう進化して、「もう一つの釈迦」を生きるのではなく、彼だけの「個人神」を打ち立てた。さて、「キレまくる中学生たち」はどうなのだろう。酒鬼薔薇は「脱社会的」だが、まだ意味統合や一貫性に対する要求がある。社会からやってくるノイズに抗して、自分の存在意義や一貫性を維持するためにこそ、「個人神」が利用されている。意味や一貫性を追求するという意味で、かすかに社会的だとは言えないか。ところが「キレやすい中学生たち」の一部は、こうした存在意義や一貫性に対する要求さえ放棄している。彼らは個人神さえ必要としない。確かに振る舞いは酒鬼薔薇のほうが突出しているが、どちらがより社会性(の片鱗)を失っているかどうか一概には言えない。いやむしろ私が恐れているのは、オウムによって種を播かれた「社会の『外』に突き抜けることの魅惑」が、新たに芽吹くたびに、辛うじて残っていたはずの社会性の片鱗されもが脱落していくように見えることである。

上記の指摘を読むにつけ、非常に大きな違和感を覚えないだろうか。
なにが、そんなに変なのか。
つまり、オウム事件を同時代的に批評をしていた頃の、エリート批判的な色彩が、一気に消え失せていることである。つまり、オウムは「東大問題」ではなくなっている。
では、今度は何が問題だった、と言っているのか。
ダークヒーロー的な、サイコパス的な

  • キレる子供

の問題、学歴と、なんの関係もない、幼児たちの「傾向」性の方に、彼は完全に話の転換をしてしまった。つまり、彼はなぜか、この問題を、最初のオウム問題においての中心的課題であった、東大問題や、エリート問題や、学者問題から、

  • 低学歴問題(=愚民社会問題)

へ、批判の矛先が完全に逆転してしまった(むしろ、こういった「愚民」問題にすりかえられるこによって、東大やエリートや学者の方が、「正しい」存在だと言いたいかのようになる)。
そして、宮台さんは、ここで完全に、学者としての間違いを犯す。それは、彼らの問題を

  • 脱社会的

と呼んだことであろう。ある意味において、このことによって、宮台さんの学者人生は終わった、と言ってもいい。なぜか。それは、そもそも「脱社会的」という定義が、検証可能性のない、無定義述語であったからだけでなく、非教育的な概念だったから、と言えるのではないか。
まず、宮台さんは、本当に、彼が「脱社会的」と呼んだ子供をフィールドワークしたのだろうか。本気で、その子供の身になって、考えたことがあるのだろうか。
自分が知らない、理解できないことを、「狂人」と言うことは簡単である。しかし、そうだろうか? 私は、宮台さんが「脱社会的」という言葉を使い始めて、そして、そうした宮台さんに「共感」していった、ある種の、宮台さんの「弟子」たちの仕事は、結果として、この「脱社会的」という言葉を無邪気に使うことによって、

  • 差別

的なエリート権威的な、質の悪い批評になっていった、と考えている。
(もちろん、こういった分析を彼が始める思想的なバックグラウンドに、ある種の「団地」的なリアリティがあった、というのは分からなくはないが、もしもそういったことが言いたかったのなら、それは、「東京ローカル」な感覚にとどめておく、くらいの話だったのではないだろうか。)