ある感情

世の中には、どうも二つの「価値」と呼ばれているものがありながら、多くの場合、一方で全てが説明され、他方については、まったく無視される、という現象が続いている印象を受ける。
つまり、一方が道徳であるのに対して、他方は、一般に「倫理」と呼ばれているものである。
このメタメッセージが、混同されている、最も典型的な主張者として、ピーター・シンガーを挙げられるのではないか、と思っている。少し長いが、分析してみよう。

しばしば「主観主義」と言われる他の理論があるが、これには上の反論は当てはまらない。ある人が<倫理判断は何も----客観的な道徳的事実でも自己自身の主観的精神状態でも----記述してはいないから、真でも偽でもない>と主張するものとしよう。C・L・スティーヴンソンが言っているように、この理論の主張は次のようなものであるかも知れない。つまり<倫理判断は態度の記述ではなく、態度の表現である。人は自分自身の態度を表現することによって聞き手い同じ態度をおらせようとするからこそ、倫理について不一致が生ずるのである>と。あるいはR・M・ヘアが論じているように、倫理判断は指図[指令]であり、したがって事実の言明よりはもっと密接に命令に関連がある、という主張であるかも知れない。この見解によれば、われわれが人々の行なうことにおついて関心もつからこそ不一致が生ずる。この見解によれば、<客観的な道徳基準の存在>を含意するような特色をもつ倫理的議論は一種の誤りである、と主張することで説明できる。一種の誤りとは、多分<倫理は神によって与えられた法の体系であるとする信念の遺物>にすぎない、あるいは多分<人々が個人的な欲求や選好を客観化したがる傾向のほんの一例>にすぎないという主張である。I・L・マッキーがこの見解を擁護している。
これらの見解は、倫理的な判断を話者の態度の記述と見る粗雑な形の主観主義から慎重に区別されるならば、倫理の説明として信頼できそうである。これらの見解は<我々からまったく独立して存在するような、現実世界の一部としての倫理的事実の世界>を拒否した点では疑いもなく正しい。しかしこのことから次のことが帰結として出てくるだろうか。すなわち、<倫理判断には批判は当てはまらない>、<倫理においては理性や議論の役割はない>、さらに<理性の立場からすればどんな倫理判断でも同じようによい>という結論である。私はこうした帰結が生じるとは考えないし、前のパラグラフで言及した三人の哲学者の誰もが、理性と議論が倫理において一つの役割を果たすことを否定してはいない。もっとも彼らはこの役割の重要さに関しては一致していないのであるが。

実践の倫理

実践の倫理

ピーター・シンガーは、本来、「道徳」と呼ぶべき内容に対しても「倫理」という言葉を使う。なぜか。それは、ある意味で、上記の引用が示唆している態度に、すべてが示されている。つまり、シンガーにとって、倫理というカテゴリーは始めから成立していない、と彼自身が考えているからである。つまり、

  • 理性が存在する「ならば」、道徳=倫理

となると、彼は証明するから、である。よって、倫理とは、道徳を「実践」において、つまり、具体的文脈において考察している、といったくらいの意味において解釈すること、といったくらいの意味において使われている、ということになる。
理性とは「計算」のことである。しかし、計算マシーンが走り始めるためには、この機械に、「前提」をインプットしなければならない。問題は、その「前提」は、何によって担保するのか、が

  • この機械「自体」

によっては、絶対に決定できない、というところにある。つまり、どんな計算も、この「仮定」における<恣意性>を絶対に排除できないという意味において、非決定的なのだ。つまり、早い話が、彼が使う全ての「倫理」という言葉を、テキストエディターの「置換」処理によって、「道徳」に変えてくれれば、彼の主張に私たちは、それほどの違和感を抱かない、というわけである。
では、私たちは、そもそもにおいて、この「倫理」という言葉を、どのように使えばいいのだろうか。まず、

  • 倫理的であることは、必ずしも「道徳的に正しい(=ルールに従っている)」ことを意味しない

ということになる。というか、もっと言えば、そもそも、倫理的であることと、道徳的であることは、その本質において、まったく別のことなのだ、と考えられる。
倫理的 ethic とは、古代ギリシア語における、オイコスが「家庭の中のこと」といった意味を含意していたように、本来は、その人個人の「個人的な体験」の範囲において、考察される、つまりは、著しく「文脈依存」な概念であった。それに対して、道徳とは、そういった文脈から「超越」して、何かを考えられるという

  • 一般論

を「前提」にして行われる「ゲーム」の一種だと考えられる。つまり、実際にピーター・シンガーが自身の本で行っているように、なにか一般的な「ルール」を提示し、世界中の人に「同意」してもらおうと続けられる「ゲーム」の一種なのだ。
他方、倫理は、そういった「ルール」形成のモチベーションを、最初から内包していない。
しかし、である。
私は、この意味での「倫理」こそ、実際に、人々の日々の日常を「動機」づけ、この人間社会を

  • 成り立たせている

重要な要素だと考えている。「倫理=道徳」主義者たちにとっては、私がここで言っている意味での「倫理」とは、物理学の比喩で言うなら、「真空」のようなものと考えられるであろう。彼らの常識においては、この「倫理」は、存在しない、なにもない真空と変わらないから、それを何かと指示すること自体が無意味となる、というわけであるが、言うまでもないが、真空とは何もないことを意味するわけではない。それは、近代物理学の「モデル」においては、

  • 何も名付けられない

から、この「モデル」のアクター、登場人物となっていないから、話に登場しない、ということを端的に言っているにすぎないわけである。

「キャ--------!!」
激しいGの移動についていけず、桜井が反対側へ吹き飛ばされた。
このままでは開いている側面から、車外に投げ出されてしまう!
桜井の後ろに大きく水面が拡がる。
「桜井!」
「たっ、高山!」
二人で自然と伸ばしあった手が掴みあう。
片手でしっかりとコンパネを握りながら、俺は桜井の手をグッと引き戻した。
桜井は勢い余って俺の胸に飛び込む。
俺はそれを受け止めるように、片手で抱きしめた。
「桜井、気を抜くな!」
うなずくと頭が俺の胸にコツンと当たる。
「......ゴメン」
俺にしか聞こえない小さな声がした。

RAIL WARS!〈3〉日本國有鉄道公安隊 (創芸社クリア文庫)

RAIL WARS!〈3〉日本國有鉄道公安隊 (創芸社クリア文庫)

アニメ「RAILWARS!」第9話は、とても啓蒙的な作品となっている。例えば、私たちは普段、なにも考えることなく、車を運転したり、自転車を運転したり、また、電車に乗車している。つまり、そういったことが「できる」ことを疑ってもいない。しかし、言うまでもなく、

  • なぜ

それができるのかは、少しも自明ではない。私たちが車を運転できるのは、車が「走る」道路が、常に、どこかの誰かによって、きちんと舗装され、メンテナンスされているからに過ぎない。これは、ある意味において、驚くべき認識であると言える。私たちは、車の免許をとり、車の運転をしていることは、「自分の能力」だと考えている。つまり、この利便性は、自らが獲得した、資格であり能力が担保しているものだから、自分の「コントロール」の範疇で、なんとでもなると思いがちだ。
しかし、実際に起きている事態は、いわば、カメラ撮影における「ポジとネガ」のような関係にあることが分かる。どんなに自分の能力を磨き、全能感を自らに抱いていたとしても、その車が走る道路という「そのクルマを包んで存在している」環境に対する、

  • 誰か

のメンテナンスという、この二つの両輪が成立していない限り、この車は、一歩たりとも前に進めない、ということなのだ。
主人公の高山直人(たかやまなおと)たち、警四のメンバーは、軽井沢での研修の最中に、悪天候のため、臓器移植のための臓器を、峠のふもとまで、トロッコ列車で運ぶ任務を任される。しかし、この任務は、むしろ、絶望的な様相を示す。というのは、彼らが運転をするレールは、普段は使われていないことが示しているように

  • 万全の整備がされていない

からである。こういったレールを走ることは、ほとんど死にに行くことと変わらない。まず、線路に石が転がっていないか。邪魔な、木片などが落ちていないか。なぜ列車が、日本中のどこにおいても、決まった時間に、決まった速度で走ることができているのかは、こういった「リスク」が、事前に、別のメンテナンス部隊のチェックによって「担保」されているからにすぎない、ということがわかる。つまり、こうである。

  • 事前のチェック
  • 本番の運転

この二つは、常に「セット」だというわけである。列車は、なぜ走れるのか。それは、この二つの部隊の「チームプレー」に依存する。そういう意味では、列車が走るということは、どこか「奇跡」のようにさえ思えてくるわけである。列車が走るためには、事前にメンテナンスしてくれた人たちが手抜きをしていない、という「信頼」がなければ、絶対に成功しない。彼ら、鉄道職員たちが、軍隊の訓練された兵隊のように、常に「敬礼」を、お互いに対して行うのは、こういう意味なのであろう。
事実、このトロッコ列車の山下りは困難を極める。うまくブレーキが効かない。車体は、さまざまに壊れていく。しかし、彼らは臓器の搬送をあきらめることができない。
桜井あおい(さくらいあおい)は、一瞬の油断から、カーブでのスピードに、列車の外に放り出されそうになる。もちろん、そうなっていれば、彼女は死んでいたであろう。その時、とっさに、桜井あおい(さくらいあおい)と高山直人(たかやまなおと)は、お互いの手を伸ばし合う。これは、とっさの「本能」のようなものである。なぜ、そんなことをしたのかなどと問うことは、愚問である。一つだけ言えることは、お互いが、とっさに、そうしたから、桜井は死ななかった。桜井の命は、高山の「なぜなのか」も説明できない、

  • とっさの「反射」

的な行動が「救った」ということである。では考えてみよう。桜井は高山に負い目を感じるだろうか。もしこれが、たんに「道徳」の問題であるなら、そういった「負い目」というような概念は無意味であろう。逆に、高山が桜井を助けたことは「当たり前」「義務」として扱われ、いつもの「ゲーム」の一場面として、時間の流れの中で、忘却されていく何かでしかないであろう。
しかし、である。
もしも、この場面を「桜井の視点」で考えたら、どうだろうか。なぜ彼女は今、生きているのか。それは、高山が、あの時、なぜだか分からないけど、彼女に手を差しのべて、車外に放り出されようとしていた、彼女の手を、しっかりと握ってくれたからである。この場合、大事なポイントは、もしかしたら、高山にとっては、その行動には、

  • なんの意図もなかった

かもしれない。なんの「道徳的」な、善意と関係ない行動だったのかもしれない。もっと言えば、高山はその行動を「後悔」しているのかもしれない(もちろん、好き合っている二人にとって、そんなことがあるわけないと分かった上で、仮定として言ってみているだけであるが)。しかし、この行動をしてもらった桜井にとっては、その行動をどのように受けとるだろうか、と考えたとき、まったく違った「事情」が想定しうる、というわけである。
(つまりは、資本主義的な金銭的交換関係とは違った種類の、一種の「贈与」的交換を示唆する、ということである。)

「お前が何者であっても、お前は人を助ける良い奴だ。他人の為に自分の身を投げだせるような奴はそうはいない。魔法少女だろうが、コスプレイヤーだろうが、さ」
孝太郎にとって大事なのは魔法が使えるかどうかではない。本当に大切な時に人守れるかどうかだ。
「だから例えお前が魔法を使えなくても、魔法少女だって言うんなら、俺は別にそれで構わない。お前はその名前にふさわしい事が、出来る奴なんだからさ」
「里見さん......」
魔法を使えるが、人を助けない者。
魔法を使えないが、人を助ける者。
そんな二人が愛と勇気の魔法少女を名乗った時、孝太郎が認めるのは後者だけだろう。本当に魔法が使えるかどうかなんて、孝太郎にはどうでも良い事なのだ。

六畳間の侵略者!? 5 (HJ文庫)

六畳間の侵略者!? 5 (HJ文庫)

アニメ「六畳間の侵略者!?」第8話において、虹野ゆりか(にじのゆりか)は、主人公の里見孝太郎(さとみこうたろう)が慕っていて、自分も尊敬している、上級生の桜庭晴海(さくらばはるみ)を助けるため、自分の身の危険をかえりみることなく、敵の攻撃の前に飛び出し、負傷する。
この光景を見ることによって、孝太郎のゆりかに対する認識が変わる。この事情を、上記の引用のように、なにかの「一般論」ととらえては、話は少しもおもしろくない。つまり、なぜ孝太郎は、ゆりかをリスペクトするようになったのか。それは、言うまでもなく、彼女が体を投げうって助けてくれた相手が、彼にとっては、なにものにも代えがたい、非常に特別な人だったからである。孝太郎にとって、桜庭先輩は、言葉に形容できないような、なにものにも代えがたい大事な人である。その人を、どんな形であれ救ってくれた、ゆりかは、まったく今までのように、ちょっと頭のおかしい、イモっぽく、都会の洗練さのない、アカヌけていない、ださい田舎者の軽蔑の対象としては、もう見れなくなっているわけである。
しかし、よく考えてみれば、私たちの人生とは、そういった縁(えにし)のようなものによって、実際に、自分たちの行動を決めていることは、往々にしてあることに気付く。

「でも、やらなきゃ! ナナさんに助けて貰った命だもの!」
だがゆりかじゃ強い決意と共に顔を上げた。ゆりかにじゃ命の恩人に報いたいという強い願いがある。その強い願いが、逃げだしたいという気持ちを抑え込んでくれた。
「ゆりかふぁいおー! ゆりかふぁいおー!」
そしてゆりかはぎゅっと手を握り締めて拳を造ると、空に突き上げて自らに気合いを入れ直した。
六畳間の侵略者!? 5 (HJ文庫)

虹野ゆりか(にじのゆりか)は、こういった少女である。彼女は、まさにドジッ子であり、回りの友達からは、ちょっと変わった、軽蔑や嘲笑を交えた視線で眺められている「ダメな子」である。しかし、このことを彼女自身の視線から考えたとき、事情は少し違ってくる。彼女は上記の引用にあるように、ずっと、自分に前向きに向き合っている。その真剣さにおいて、他人がどうこう言えるようなものではない。その彼女の「姿勢」が

  • たまたま

孝太郎にとって最も大事なものを救った。それは、「一般論」として、ゆりかが「ダメな子」かどうかに関係なく、その彼女の自分に向き合う姿勢が、孝太郎にとって無視できないリスペクトになる、ということである...。