「ハナヤマタ」のマチ

アニメ「ハナヤマタ」と「けいおん」の違いは、なんだろうか? おそらくそれは、「ハナヤマタ」の主要登場人物の基層低音に流れる「シリアス」さにあるのであろう。「ハナヤマタ」の主要登場人物たちには、どこか「部活をやる」ことについての、明確な動機が成立している。つまり、やりたい理由があって、やっていて、そのことに迷いがない。この迷いのなさが、作品のストーリー自体から、どこか、まっすぐに演繹されているような、無駄のなさ、洗練さを感じる。
けいおん」は、ガールズ・バンドとして、まあ、ともかく、卒業まで、なんの「挫折」もなく、で、結局、うまかったのか、それなりに評価されたのかも、最後の最後まで、オブラートに包んで、終わってしまう。
他方、「ハナヤマタ」では、その「けいおん」への批評ともとれるような場面が描かれる。主人公の関谷なる(せきやなる)の親友の笹目ヤヤ(ささめやや)はバンドをやっていたが、オーディションでの不合格をきっかけに、各メンバーのそれぞれの事情から、解散することになる。
バンドを継続できなくなることの意味とは、なんであろうか。ここにはつまり、各バンドメンバーの、それぞれの「事情」があることが分かる。例えば「けいおん」においては、各メンバーは、結局、同じ大学を受験して、しかも、一緒に合格してしまった。つまり、彼らは結局、そうやって続けることに悩まなかったわけである。それぞれが違う道を選んだ場合、バンドを続けることは不可能となる。しかし、逆説的ではあるが、そうであるからこそ、彼らは

  • なぜ今やるのか

を自らに問いかけることになる。なぜ、それをするのか。それに答えないことは、バンドの継続を「あきらめる」ことを意味する。つまり、バンドを「続けている」という

  • 事実

が、このことを続けることに意味があることの「答え」となっている、というわけである。
ハナヤマタ」のメンバーが行うのが、いわゆる「YOSAKOI」と呼ばれる、創作ダンスである。いまさら、整理するまでもないだろうが、高知県において知られていた「よさこい祭り」からアイデアをもらって、札幌で始まった、「よさこいソーラン祭り」という、独特の、スタイルの創作ダンスが、祭りにおける「集客力」の高さから、今では、全国のさまざまな場所で、同様のイベントが行われるようになっているわけであるが、ここで私が言いたかったことは、こういったイベントに、中学生が参加することは、あまり、一般的ではないように思われることなのである。
つまり、これ系のイベントは、どちらかというと「大人」たちの行事である、という印象が強い。たしかに、創作ダンスという部分からは、コミケの二次創作との並行性を思わなくもないが、例えば、衣装一つをとっても、そんな子どもたちだけで、簡単に行えるようなもの、という感じはもたない。もしも、子どもたちで参加しているケースがあるとしても、なんらかの「大人たちのサポート」によって、つまり、なんらかの「色モノ」として見られるんじゃないのか、というわけである。
もちろん、このことについては、おそらく、もっと論点がある。

  • ダンスの「レベル」。
  • 音楽の質。

こういったことを考えたときに、たんに素人が、集まった「楽しくワイワイ」を人に見せる「レベル」なのか、という問題があるだろう。しかし、そういったふうに考えるなら、今度は「その著作権は?」といった話にもなってくる。
ただ、こういったイベントについては、一つだけ、非常に「いい」特徴がある。それは、比較的、大勢が後追いで参加できるイベントだということだろう。それは、私たちが祭で、盆踊りを踊るようなもので、そういった形で、みんなで統一した行動を行うことの快楽というのは、昔からあったのであろう。
よって、私たちは、あまりこの「よさこい」性について、つっこんで考えるべきではない。むしろ、これは、現代の「よさこい」と同じものと考えることすら不要なのかもしれない。どこか別世界の「よさこい」をSF的に考えて、そのイベントは、もっと若い人たちの「バンド」のようなものとして、さらに、気軽にやれるもの、と考えるといいのかもしれない。
アニメ「ハナヤマタ」の第9話は、この作品のターニングポイントと言っていいだろう。
主人公の関谷なる(せきやなる)は、みんなと始めて、人前で踊ったとき、自分の子どもの頃からの、対人恐怖症によって、足がすくみ、ステージの上で、座り込んでしまう。その後は、なんとか回りのフォローもあって、最後まで、やり遂げたが、彼女は、自分のその「いつもの病気」で、よさこい部のメンバー、みんなに迷惑をかけたことに落ち込む。
しかし、彼女のことを昔から知っていて、幼馴染の笹目ヤヤ(ささめやや)と西御門多美(にしみかどたみ)の反応は、

  • そんなこと分かりきっている

という態度であったことに、なるは驚く。二人にとって、そもそも、なるがそんなに簡単に、こんなふうに人前でなにかをやれるようになると思っていない。そういう性格であることは、ずっと、子どもの頃から見てきたからだ。しかし、他方において、彼女たちは大人になっていく。立派に人前で、普通になれるようになっていくことが求められていく。
つまりは、ヤヤも多美も、自分がサポートすることで、一緒にいてやることで、つまり、一緒だったら、なるはその性格を乗り越えて、人前でも恐怖を覚えない「大人」に成長できるんじゃないのか、そういった形で、なるの成長の手助けを自分がしたい、そういう意味で彼女が好きだから、一緒にいたい、という側面があらわれている、と言えるであろう。
言うまでもないが、学校生活とは、「教育」なのだ。どうやって、子どもは大人になっていくのか。そこで、なにが起きるのか。学校の意味とは、「共同生活」のそれだと言えるであろう。同年代の子どもたちが、一緒に、同じ場所にいること、そこから、お互いが助け合って、成長していくこと、それが「目的」だということになるのであろう。
他方、生徒会長の常盤真智(ときわまち)にとって、よさこい部との関係は、最初に、顧問の常盤沙里(ときわさり)との関係から始まる。非常勤の先生として、今年からやってきた真智の姉の沙里は、沙里が家族との不仲から家を出てから、真智は姉を憎んできた。しかし、他方において、彼女は自分がどれだけ姉が「好き」だったのかを認めないわけにはいかない。

あの頃 私にとって姉は 世界で一番の ヒーローだった
いつも優しく美人で オシャレで友達だって いっぱいいたし 勉強や運動だって 常に一番!
そんな姉を 家族みんなが 誇りに思っていたし
私も一生懸命 頑張る姉の姿が とっても好きだった
そんな姉の姿を 見ていたら 私も頑張らなきゃ いけないと思ったし
小さい頃の私は ずっとそう思って 姉の後ばかりを 追いかけていた
------そう
私は... そんな憧れの姉に なりたかったのだ...

最終的に、真智は姉の誤解が解け、彼女も姉が顧問をやっている、よさこい部に入部することになる。
真智にとっての、沙里は、いわゆる、年の離れている兄弟の関係の典型と言えるであろう。
例えば、「けいおん」の主人公の平沢唯(ひらさわゆい)に対して、妹の平沢憂(ひらさわうい)は、年齢も非常に近く、作品内では、確かに妹は姉を尊敬しているようではあるが、どう見ても、妹の方が「しっかり」していて、姉の方が妹にあまえているように見える。
他方、真智にとっての姉は、自分がとても小さいときの姉なのだ。つまり、自分がまだ小さく、自我もちゃんとしてくる前に、すでに大人で、かっこよかった「姉」を見る妹の目なわけである。
真智はもちろん、今まで、そんな、「よさこい部」なんて、興味があったわけがない。そんな彼女が、友達に誘われて、ほとんど考える間もなく入部するのは、姉が顧問だからである。
つまり、である。
彼女は、こういった「姉に教えてもらえる」という関係を、もう一度、自分が小さかったときに、姉に勉強を教えてもらった、あの関係に、もう一度、なりたかったわけである。
彼女は、いつまでも、あの小さかった頃の、姉をあこがれの目で見続けていた、幼い頃の彼女なのだ。ずっと、姉にあまえていたい。なんでも、あねに教えてもらいたい。そんなこと自分で分かっていても、姉に教えてもらっている自分に萌える...。