映画「インターステラー」のメタ・メッセージ

現在、上映している映画「インターステラー」を見てきたが、その印象は、人によって違うのかもしれない、とは思った。
この映画はどこか、ファンタジックなストーリーになっている。そういう意味では、ロマン主義的な「印象」を残す、さまざまな趣向がこらされていると言えるであろう。
主人公のクーパーが、土星周辺に突如あらわれた「ワームホール」を抜けた先には、三つの、すでに先遣隊によって、その「似地球」惑星の存在が示唆されている。「海の惑星」「氷の惑星」「第三の惑星」。しかし、その惑星に降り立つ彼らが見る後景は、どこか、

  • 地球

に似ている。つまり、前者の二つは「人間を拒む」ような「自然の厳しさ」を表象している。こういった自然の描き方こそ、ロマン主義の特徴であったと言えるであろう。
ではなぜ、地球は「滅び」に至るとなっているのであろうか。この映画はその「理由」を示唆しない(しかし、作品の内容を見ている限りにおいては、アメリカの南部のような農園を舞台として、砂嵐に代表される「異常気象」と、さまざまな生物ウィルスの猛威が示唆されてはいる)。
この映画の特徴は、「なぜ地球は滅びることになったのか」と問うてはいけない、という構造になっている。この映画は、一部のエリートたちには「この地球はもう助からない」ということが分かってしまった

の世界として、その思考仮説を受け入れたことを前提して、ストーリーが進む。つまり、この映画の登場人物のだれ一人として、この地球そのものの「滅び」を回避しようという「あがき」を行っていない。
どういう意味か。
つまり、この滅びという運命を「避けえない」という前提で、この世界が成立している、ということである。この社会は一種のディストピアである。それは、まず「大衆には絶対に地球がもう少しで終わりになる」ということを知られないための「言論統制」がされている。その代表が、アメリカは一度も月に人を送っていない、という

  • 歴史の改竄

である。これはどこか、3・11における福島第一での政府による情報統制であり、報道規制を思い出させる。政府関係者は「本当のこと」を言えなかった、と言う。その意味は、もしも本当のことを言えば、福島の人々が、避難しようと一挙に動きだし、交通機関が「パニック」になるからできなかった、と。
なぜ地球は滅びることになったのか。この映画が答えない、ということは、どういうことであろうか? なぜ私がこのことについてこだわっているのかと言えば、つまり、である。私が気になっているのは、たとえ、生き残ることになっても、どうせ

  • 同じ理由

によって、「その惑星」も、人間が滅ぼしてしまうんじゃないのか。つまり、幾つ、新しい惑星に移住しようが「同じ理由」で、次々と滅ぼすのではないか、と考えたからである。私はこのポイントは非常に重要なのではないか、と考えた。なぜなら、この作品の問題設定として、「地球が滅びた」ことを、前提にしているからである。だとするなら、この「惑星の滅びを回避するような<道>」の示唆なくしては、作品としては完成しているとは言えないのではないか、と思ったからである。
そういった視点において考えたとき、この作品は二つの「罪」が描かれていることが気になってくる。一つが、上記における「氷の惑星」の生き残りの宇宙パイロットの「裏切り」であろう。結果的にこの登場人物による「裏切り」は失敗という形となっているが、いずれにしろ、彼の「自らの個体としての生存競争」を優先する生き方が一つの何かを示唆している形になっている。
もう一つが、この人間救済プロジェクトを構想した理論物理学者ブランド博士による、死の間際に行われる「嘘」の告白であろう。こういった慣習は、欧米キリスト教社会における「倫理」を特徴付けているものだと言える。つまり、欧米キリスト教社会においては、どんな偉い業績をあげた人も、死の間際において、すべての「懺悔」を行うと考えられている。なぜなら、その信仰において、死ぬ前に「懺悔」することの重要性が共有されているからである。この慣習は確かに、欧米キリスト教社会の「弱点」でもあるが、逆に考えるなら、その「健全」性を、社会的なタイムスパンで担保していると考えることもできる。日本は、第二次世界大戦での敗戦で、すべての重要文書を焼き払った。つまり、日本にはそもそも、死んだ後に、自らがついた嘘を「懺悔」しなければならない、という慣習がない。そのため、国民の感性の中に、アーカイブの重要性が共有されていない。日本人の倫理を特徴付けているのは、

  • 家族の間の「感覚」的な自明性

だと言えるだろう。つまり、生きていて、目の前にいて、それた「ずっと続く」ことにしかない。その感覚は死んだ後も続く。つまり、墓参りという形において。大事なことは、この「自明」な慣習を続けることなのであって、墓の前で、人々は死者と、生きていたときと同じように話しかけて、生きていたときに普通に返してくれていたように、なにかを答えてくれたと「解釈」して、次の日の生を続けることになる。
この日本的な「自明性」の慣習の特徴は、「何を死者は言いたかったのか」を本気で聞こうとしないところにある。つまり、本気で「死者」と向き合わない、ということになる。だから、死者たちが残した「言葉」を平気で、焼き払って、「忘れて」なにも思わない。
さて。この作品は人間がこれからも生きることに「意味がある」と言っているのであろうか?
この作品は、そのことに答えていない。しかし、結果として「どうなる」かには答えている。
どういうことか?
それは、主人公たちの宇宙旅行をさまざまに「成功」させるために、陰から尽力している五次元の知的生命体が、「未来の人間」であることが、主人公によって示唆される形によって、である。つまり、人類は「はるか未来」まで生き残り続けることが、楽観的にも、この事実によって「証明」される形になっている、ということである。
この五次元の知的生命体というアイデアは、はるか未来にまで人類が生き残り続けた結果として、この時間を空間的な属性として、解釈可能な存在として、

  • 過去の歴史に介入してくる

存在として、いわゆる、キリスト教における「奇跡」の事実を裏付ける解釈を与えていることが分かるであろう。
これらのことをふまえて、もう一度整理してみよう。この映画は、なぜ地球が滅びるのかの理由を説明しない。ということは、どういうことであろうか? つまりは、そこに「物語はない」と言いたいわけである。つまり、地球が滅びるのは

  • しょうがない

と作者は言いたいわけである。地球が滅びることに、本質的に人間の罪はない。だから、人間が地球と一緒に滅びなければならない理由はない。では、別の惑星に移住して生き残り続ける人間は、その惑星を次々と滅ぼすことになるであろうか。このことについては、この作品は答えていない。なぜなら、この地球が滅びた理由が説明されていないのであるから、そういった惑星が人間を理由にして滅びるかどうかは、直接の作者の関心はないからである。
このことは、どこか「聖書」の構造に似ていなくもない。聖書は一方において、人間の「原罪」を前提にしておきながら、他方において、神による人間の「救済」を前提にしている。問題はその「救済」がどういうものとなるのかに対する説明を拒否しているところにある、と言えるであろう。
聖書における神の「救済」は、この作品においては、未来の人類による、過去の私たちへの「介入」という形をとることによって

  • 少なくとも人類は、はるか未来まで生き残り続ける

ことが、楽観的にこの作品においては、言祝がれている、と解釈できる。ではなぜ、人間は、はるか未来まで生きられるのか、ということについて、この作品は答えない。それは、聖書自体がそうであるように、家族という人間の原初の本能的な動機が「言祝がれるもの」という価値観によるものなのか、といったところが、憶測の範囲において、示唆されている、ということなのかもしれない。
同じような疑問は、聖書自体に対し、向けることもできるであろう。なぜ人間は、神によって関心を向けられているのか。なぜ滅ぼされないのか。人間に、そこまでの価値があるのだろうか。人間は長く生きる価値のあるような存在なのだろうか。たんに利己的な個体が、他者の滅びを「利用」して生き残ったとして、その程度の倫理的な志の低い存在を生き残らせることに、なにかの意味があるのであろうか。私には分からないし、この作品も聖書も、そのことには答えてくれないけれど、どうも人間は、こういった

  • 自分たちには価値があるので、きっと(神だか未来の人間だかが奇跡を起こしてくれて)私たちを助けてくれる

といった、どこかナルシシズム的な物語を好み、「消費」する性向がある、ということなのかもしれない...。