坂口謙吾『自滅する人類』

掲題の著者は、人類は「亡びる」と言う。なぜか。それは、たんに事実として、人類が「増えすぎた」から、ということである。このことを考えるには、そもそも私たち人類であり、私たち自身を含むこの地球上の生物というのが「どういった」存在であるのかの認識が問われている。

最初の始原地球では炭素原始のほとんど全部が、大気中の炭酸ガスとして存在した。全部気体だった。しばらくすると炭酸ガスの多くは海の水に溶け込み、さらに石灰岩になっていった。それが飽和状態になると、炭酸ガスの動きは再び落ち着きを見せる。この残った炭酸ガスが、原始地球の大気の中心だった。

陸地や海中を問わず、膨大な数の火山が噴火を続けていた。人の目には恐しい風景だが、ものすごい量のエネルギーが渦巻いている世界である。
火山が火を噴く。つまり熱が出ることで、水を沸騰させる、沸かす、また、あちこちで起きていた雷は、化学エネルギーを大量に出す。強風が海水をかき混ぜ、波が陸地を洗い、岩を削る。地球全体の地殻変動が大地そのものを動かす。それは、業火に焼かれる大自然であり、火の上の鍋のような状態である。そして、空気中には想像を絶するほど高い濃度の炭酸ガス天然ガスがある。空気中の炭酸ガスや水などは、そのような状態におかれると化学反応を起こして、いろいろな化合物になってしまう。

そもそも、この地球上に存在する生き物は、どのようにして生まれたのか。それは、上記における原始地球の有機化合物のスープから、なんらかの偶然によって、「細胞」と呼ばれる

  • 自己複製的

な形式が生まれることから始まった。つまり、この自己複製オートマトンは、その自らの体を構成する「材料」を、周りの「媒体」から、いくらでも吸収できる環境が、「たまたま」整っていた、というところに関係している。
しかし、この自己複製オートマトンが、さまざまに「高度」に洗練させていったときに、たんにそれまでの「有機物スープ」では、今の地球の生態系というまでには、発展できなかった。
これを可能にしたのが、「植物」である。

要約すると、処理するゴミが周りになくなったので、わざわざ自己増殖することができるゴミ製造装置を新たに進化させてつくった。そして、処理するゴミをつくっておいて、そのゴミをセッセと処理しているのである。なんとも滑稽な話である。
これを今風の環境破壊の観点で見ると面白い。同じ量の素材しかないのなら、収支は同じになるはずである。しかし、この原始の生き物の世界は違った。食う方も食われる方も増えていくのである。つまり収支が合わないのである。
なぜか?
それは、食われる方は、地球外から来る光エネルギーを利用して有機物をつくるためである。光エネルギーが物質閉じ込められ、量が増えていく。それが、物理学の法則なのである。
閉じ込められたエネルギーの多くは、今では地下資源として保存されている石炭、石油、天然ガスなどの、いわゆる化石燃料である。これを燃や知て大気中に返すと、一部は宇宙に逃げ去ることになる。次第に、原始地球時代の差し引きに戻ることになる。

植物は、地球外からやってくる膨大な太陽光エネルギーを「餌」にして、繁殖したわけであるが、これら植物が、そういった生き物たちの「餌」として、さらに「巨大に拡大していく」ための、十分な栄養分を供給するようになった。
では彼らは朽ちて果てた後どうなったのか。地球の地下深くに、化石燃料となって眠っていた。「だから」、今の地球はこういった「秩序」になっている。それに対して、こういった化石燃料を人間が掘り出して、「燃やしている」ということは、人間はこの地球の環境を、原始地球の時代に戻そうとしている、と考えられる。人間が住むには、あまり適していない原始地球の状態へ、と。
掲題の著者の主張の最も大きなポイントは、世界人口の増加にある。つまり、増えすぎれば当然、さまざまな「パイ」の奪い合いが始まり、地球のバランスが崩れ、それが人類滅亡に結果する、と。ここにおいて、掲題の著者の見積りとして、そうやって生まれてきた「貧しい」人たちの

  • 富裕な支配層

に対する「抵抗」をあなどるべきでない、といった視点があると考えられる。富裕な支配層は、自分たちの「快適」な生活を守るために、全力で抵抗するのであろう。しかし、貧しい被支配層は、そもそも「膨大」である。そして、彼らだって考え、生きている存在である。どんなに富裕な支配層が、その「抵抗」の芽を潰しても潰しても、どんどん現れる。
では、掲題の著者は、今の日本の人口減少をどう考えているか。これについては、「まったく別の」ところから理由を考察するわけでる。

民主主義的な構造を持つと、必ず選挙で政策が決められる。選挙とは数であるが、これもダーウィン自然淘汰と生存競争の変形である。長寿化が進むと、本来は不要な存在であるはずの40歳以上の有権者が多数派を占めることになる。それが6の状態だ。
そうなってくると、個人が生きるための "快適" さを優先させる政策になる。この多数派は、子孫を増やす論理には不要の存在である。つまり、生物学的には個人の "快適" と子孫を残すための "快適" とは相反し、一致しないのである。
どちらを優先させるのか。その決め手は、個体の数である。選挙は、数の多い方が勝つ! 高齢者医療保険、厚生年金、老人介護保険...。これらの費用は若者や産業が負担しなければならない。日本の場合、ある時を境にして子孫を残そうとする限界を超えてしまった。そして徐々に7の形になったのである。

なぜ日本は人口減少が続いているのか。それは、貧しい人たちが結婚もしないし、子どもも産まないから。つまり、貧困労働層に、国家はまったく、手を差し延べようとしない。子どもをつくっているのは、都市の富裕層と地方くらいしかいない。日本はずっと、こういった政策を続けている。掲題の著者はいずれ日本は、世界からの移民を受け入れる形での人口増加が不可避的に起きてくる、と予想する。
では、この地球上の人口増加は止まらないのであろうか。例えば、中国で行われてきたような、一人っ子政策のようなものは、無駄なあがきなのであろうか。
こういった状況は、ロックの社会契約論を思い出させる。フロンティア開拓を目指し、アメリカ移民は、次々と土地を開拓していった。そうして、土地所有制によって、地球上のあらゆる土地は、

  • 私的所有

によって「分割」された。では、最後に残された場所はどこであろう。海であり、宇宙である。しかし、海は地球の生態系システムにおいて、陸地の「ポジ」に対する「ネガ」の位置付けにある。ただでさえ地上は、土地の私的所有によって、つぎつぎと多様な生態系が失われてきた。年々、さまざまな種類の生物が滅亡している。もしも、海を「私的所有権」によって分割し、さまざまに開発されていったとき、本当の意味での

  • 環境破壊

が「完成」するということを意味するであろう。それは宇宙についても同じだ。つまり、私たちはどこまで

  • 私的所有

という幻想を突き進めるのであろうか。ロックの社会契約はこの「私的所有」による「フロンティア」の開拓と関係して成立しえた「ユートピア」であったと考えられるであろう。フロンティアがあるから「成長」できるし「新たな」価値が産まれ、それが人口増加を可能にしてきた。しかし、その結果として、地球環境は、その人間のパイを食べさせるだけの「余力」を失っていく。地球「自体」が、人間の活動によって人間が「住みにくい」場所へと遷移していく...。

自滅する人類-分子生物学者が警告する100年後の地球- (B&Tブックス)

自滅する人類-分子生物学者が警告する100年後の地球- (B&Tブックス)