工学的

東浩紀さんの書く文章は、正直私には、うまく「読めない」印象がどうしても強い。つまり、「おもしろくない」。それは、例えば、柄谷さんの書く文章と比べたとき、なにか

  • 辞書

を読んでいるような印象と言えばいいのかもしれない。このことは東さんが柄谷さんを「否定神学」と批判することに関係しているのかもしれない。つまり、東さんはどこか「正しい」ことを書こうとしているが、柄谷さんは「書きたい」ことを書いている。柄谷さんにとっては、たんに書くことは「快楽」に関係しているが、東さんは「義務」に近いのかもしれない。
そういう意味では、分かりやすいかそうでないかはともかくとして、東さんと柄谷さんは、決定的に違っている点があるように思われる。それは、東さんが基本的にハイデガーの延長で考えているように、東さんは「常識」的だ、ということではないだろうか。それは日頃のエキセントリックな言動とは関係なく、理論的な作法として、徹底して「常識」の範囲の内容だということである。

そしてそのような傾向は、同僚の院生たちにも明らかな影響を与えていた。かつてならば映画の原理論を論じたであろう学生が溝口健二の女の表象を研究し始め、かつてならばテクストとコミュニケーションの関係を研究したであろう学生がドストエフスキーと都市の問題を考え始める。そのような光景がつぎつぎと展開していた。なるほど、ラカンドゥルーズの著作はまだかろうじて読まれてはいた。しかし、そこで彼らが作りあげた世界理論は、もはやまったく必要とされていなかった。必要なのは現実分析のためのツールだけだった。

文学環境論集 東浩紀コレクションL

文学環境論集 東浩紀コレクションL

その「空気」はいろいろな観点から分析することができる。たとえば僕はそれを「ポストモダン化」や「動物化」という言葉でも呼んでいる。しかし僕は最近、結局のところ、その変化の核心は「工学的な発想の拡大」ということなのではないかと考え始めている。
工学は理系と見なされがちだが、歴史的には文系(文学部)とも理系(理学部)ともまったく異なった出自をもっている。工学は前出の自由学芸に属さない。それは長いあいだ職人的な技であり、知として体系化されることがなかった。
文学環境論集 東浩紀コレクションL

この引用個所は、東さんの発想のネタがどこにあるのかを正直に言っている個所であろう。なぜ彼があそこまで「ポストモダン」にこだわるのか。それは、彼自身が、いわゆる「文系」「理系」といった、学問の「体系」化に対する、アカデミズムの世界での

  • 流行遅れ

の印象を強くもち続けたことにあるわけであろう。こういった「工学」系の隆盛は、数学の世界を始め、アカデミズムの一般的な傾向だと言えるのではないだろうか。
つまり、東さん自身がこういった「工学」的なものへの「実感」をアカデミズムの中に直観してきたことが、「ポストモダン」と同値のことと解釈され、それが彼に「ポストモダン」への実感主義を主張させることになった、と。だから、あそこまで「自信満々」に主張できているのだ、と。
(私は現代をこういった「工学」的な世界として解釈する、という意味でなら、ほぼ同意するが、だとするなら、なぜそれを「ポストモダン」と呼ぶのか、非常に混乱のもとだと思っている。「工学」的でいいんじゃないのか。)
そしてこのことは、東さんの言う「動物」なるものが、一般に言われる意味での「動物」とは、まったく違った意味での定義になっていることと関係している。

以前岡田斗司夫氏と雑誌で対談したとき、七〇年代ロリコン・ブームが話題になりまして、「ロリコンって、最初はシャレだったよね」ということで意見が一致したことがありました。最初のロリコン(美少女もの)ブームは七八年頃に発生したと言われているわけですが、自分の記憶をひもといてみても、確かに最初は「シャレ」とか「パロディ」の一種だったと断言できます。どういうことかと言うと、それ以前のエロマンガというのは、上の世代の劇画の流れから来ていて絵柄も手塚系統の記号的マンガではなく、実写的な描き込みがなされた、明らかに大人向けのマンガだったわけです。
竹熊健太郎「オタク第一世代の自己分析」)

ところがその後数年を経ずして、本当に「それでオナニーする」ことを表明する人々が出始めました。これに私や岡田氏などは驚いたわけです。八〇年代初頭には、私自身もそうした人に何度か遭遇したことがあって、正直「引いた」記憶があります。
竹熊健太郎「オタク第一世代の自己分析」)
網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

私の解釈では、東さんの言う「萌え」とは「オナニー」、もっと言えば、「射精」のことを言っていると解釈できます。そして、データベースとは、その「オナニー」のための「オカズ」のことだと考えられます。上記の引用にあるように、二次元ロリコン美少女、つまり、アニメ絵は、つい最近まで、多くの人はそれを「オナニーのオカズ」だとは考えていませんでした。しかし近年では、コミケで売られる大半は、こういったアニメの二次創作と称した、アニメ絵による「ポルノ」であり、こういったアニメ絵が「ポルノ」として消費されることが一般的となりました。
つまり、東さんの言う「動物」は、こういった「進化」と関係して考えられているわけです。この「動物」は、この

  • 「オナニーのオカズ」データベース

を使って、「効率的」に自らの性的「欲望」を

  • 自己管理

します。そういった意味で、「工学的」でもあります。アニメとは、それが一見すると「健全」な物語に見えたとしても、ひとたび「萌え絵」、つまり、「アニメ絵」で描かれている限り、消費者によって、「オナニーのオカズ」として消費されます。しかしその「場面」は、つねに断片的です。つまり、ポストモダンにおける「大きな物語の終焉」とは、消費者は、そこに物語が不要とまでは言わないが、自分がオナニーに「使う」場面は常に断片的だと言っていることと同値となるわけです。

ひとことで言えば、オタクたちは一人一人、なにかのキャラに萌えたりする際に自分がなぜそのキャラに萌えるかということについて理屈をこねるわけですが、しかし集団として見れば、結局、猫耳が流行ればバーッと猫耳、メイドが流行ればバーッとメイド、羽根が流行れば羽根というわけで、単にもう動物的に動いているだけだろうと。
網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

このように考えてきたとき、消費者はそのアニメの「どこ」を使って「オナニー」をするのか、といった視点から見たとき、その作品のさまざまな側面は、ただただ、「オナニーとして消費者に使われている場面か、そうでないか」といった、二つの側面からの「統計的情報」によって差別化されてあるだけの「情報」にすぎなくなります。
しかし、ここで東さんは、ある認識の「反転」を行います。つまり、製作者たちの「マーケティング」から、作品の「再構成」を行うわけです。まず、作品とは「消費者に消費させる」ための何かであるとして、だとするなら、まずもってこの作品は、萌え要素(オナニーのオカズ集)によって

  • 構成

される、と考えるわけです。製作者側は、どのようにして、消費者を「エレクト」させるのか、というそれだけが、作品制作の「目的」となります。

ところがアニメというジャンルは、ゲームと異なり物語やメッセージと切り離せない表現でありながら、またマンガとも異なって受容層が狭く、個人作業も不可能なあためオタク系文化の消費構造から離れられないという厳しい条件を抱えている。その結果、いまでもアニメそのものは次から次へと生産されているものの、その多くはキャラクター・ビジネスに吸収され始めている。そのなかに単独で鑑賞に耐えるものを探すのは難しいし、より深刻なことに、消費者の側も、いまやアニメに独立した作品としての価値を期待するのを止め始めている。この状況全体に対してアイロニカルに作られた作品が、本誌の対談でも触れた『デ・ジ・キャラット』である。しかしそのようなアイロニーが通用するのはやはり一回きりであって、類似した作品の多くは悲惨なまでに退屈な様相を呈している。具体的なタイトルを出すことは控えるが、そのような「萌えアニメ」が一般にどのような質のものなのかは、地上波の深夜アニメをいくつか見ればすぐ確認することができるだろう。そこでは、萌え要素の組み合わせのみで作られたキャラクターが、お約束の脚本と演出にのってただ飛んだり跳ねたりしている。その環境から次世代の才能が出てくるのか、と問われれば、やはり僕は大きな不安を感じてしまう。この五、六年、一般メディアでしばしば「ジャパニメーション」の隆盛が囁かれてきたが、僕の目に映っているのは、むしろそのような危機的状況である。
文学環境論集 東浩紀コレクションL

東さんにとって、「深夜アニメ」は「ポルノ」と同値です。それは一見してそう見えなかったとしても、その「意図」として、実際にそう「機能」している、という彼の認識においてそうだ、というわけです。
しかし、もしも上記の引用の内容を彼が今だに否定していないとすれば、彼は全アニメ関係者を敵に回していると言えないこともないであろう。
上記の引用の個所の何が問題なのであろうか。それは、アニメを

  • 飛んだり跳ねたり

するだけの「サブカルチャー」と、世界的にその存在を「芸術(=ハイカルチャー)」として誇れる、芸術理論の一翼を担えるようなもの(彼がたびたび言及するアニメ監督の作品)との二分法によって、完全に差別化したから、と言えるのかもしれない。
私は、こういった「サブカルチャー」を考えるとき、絓秀実さんの『JUNKの逆襲』という本に影響されている。つまり、徹底して「ゴミ」と考える、といったものであろうか。しかし、そのように言う場合に、いわゆる「ハイカルチャー」だって「ゴミ」なんだ、という意味で、なにもかもが「ゴミ」だと言っている、ということなのである(こういった態度は、例えば、ウィトゲンシュタインが自らの哲学の手法を「周縁」から迫るようなものと言ったこととも関係して考えている)。例えば、この本では、サミュエル・ベケットの『モロイ』について言及されているが、この「極私的」なスタイルに、その「典型」を見出す、といった関係がある、と言える。
なぜ東さんの文芸批評は「つまらない」のか。それは、結局のところ、それが「一般論」にしかなっていないから、と言うしかないであろう。

  • オタクたちは一人一人、なにかのキャラに萌えたりする際に自分がなぜそのキャラに萌えるかということについて理屈をこねるわけですが

つまりは「So what?」であろう。「だから何?」。どんな作品も、それを作っているのは一人一人の個人であり、その一人一人は、それぞれ、さまざまな「出自」をもって、関わっている。つまり、作品の「差異」には、当然そういった、関係者の「差異」が関係して現れる。
もちろん「だから」傑作になる、と言いたいわけではない。むしろ、私はそういった序列になんら興味がない。なぜなら、それが「サブカルチャー」の定義だからである。サブカルチャーとは「エンターテイメント」である。その「需要」はあくまでも、顧客のニーズに関係する。そういう意味において、なぜ制作側が「萌え要素」つまり、その

  • ポルノ性

だけを作品制作の動機にしなければならないのか(東さんはこの発言で、全アニメ関係者を「侮辱」していると受けとられても、しょうがないんじゃないだろうか)。