女子アナの「笑い」

西尾維新の最新刊の「悲録伝」の最後の方で、ようするに、これら主人公たちの「処女」性についての、一種の「神秘主義」的な価値感の主張をしている部分があり、私は今まで読んできて、少し残念な印象を受けた。
つまり、処女だとか童貞だとかいったことが、なんらかの彼ら少年少女たちの「能力」の源泉なんだ、といった解釈を示したものであり、私はこういった考えと戦ってきたつもりなんだけどな、といった感じで、少し「軽蔑」を覚えた、と言っていいだろうか。
以前、例えば、村上春樹の「ノルウェイの森」のように、主人公がヒロインの「死」によって

  • 成長

するという「物語」に対する「軽蔑」をこのブログで書いたことがあるが、よく考えてみると、ラノベから漫画からアニメから、こういったサブカルチャー作品は基本的にこの

によって構成されていることが分かってくる。
主人公すなわち「ぼく」は、回りの女の子たちに「かまって」もらえて、「承認」されて、幸せになる。つまり、主人公すなわち「ぼく」は、回りの女の子を「手段」にして、

  • 成長

する、というわけである。つまり、主人公の「成長(これは、ニアリーイコールで、東大進学のことと解釈してもいい)」のために、回りの女の子たちは「手段」として「消費」されていく。大事なポイントは、主人公の「ぼく」は「成長」する、ということである。そして、その成長の過程と平行して、回りの女の子たちは

  • 消費

されていく。つまり、極論を言うなら、主人公の「ぼく」が「成長」するなら、回りの女の子は何人死のうが「関係ない」というわけである。ここで問われているのは、主人公の「ぼく」の成長「ゲーム」である。どれだけ、劇的かつドラマティックに主人公が「成功」するかを描くことが、こういった作品のモチベーションとなっている。
例えばここで、「アニメのヒロインの金髪」問題を考えてみよう。なぜ、アニメのヒロインに金髪が多いのか。言うまでもなく、そこには、明治以降から続く日本人の

  • 白人崇拝

があるにきまっている。日本という国が、完全なアメリカという国に従属する国であることを理解すればするほど、彼らアメリカ社会を支配する白人への「あこがれ」が、終生、私たちをつきまとう。アニメの「私たちの等身大」の主人公が、金髪美女を自分のものにすることは、アメリカ社会への「復讐」を意味している。彼らアメリカ社会の支配階級の中で「価値」をもつ美人な女性を、自分のような日本という片田舎の異人種のへっぽこが「ものにする」という表象が、なんらかの「自尊心」をそいつに与える、というわけである。
しかし、問題はそれにとどまらない。例えば、アニメ「山田くんと七人の魔女」のヒロインの白石うららにしても、アニメ「ダンまち」のヒロインのアイズ・ヴァレンシュタインにしても、なんというか、たんに「高嶺の花」というだけでなく、

  • 性根の部分での「いい奴」

といった表象が、何度も繰り返される。つまり、ここにはなんらかの「処女」性の影が漂っている、というわけである orz。
この構造を整理すると、主人公の男の子がなぜ男の子なのかといえば、ようするに、まだセックスをしておらず、「純情」だ、という前提がある。この主人公は、成績も平凡むしろ不良に近く、なんのとりえもない奴だが、どうも正義感に熱い純粋なところがある。すると、ヒロインの

  • 処女

の金髪美女は、この少年の「まっすぐ」な

  • いい所

を彼女「だけ」が<発見(=主人公の成長)>する、というわけである。この場合、大事なポイントは、

  • フレームアップ問題

である。どういうことか。つまり、主人公の少年は、「いつまでたっても」自分のヒロインへの「恋愛」感情に気付かない、というわけである。つまり、性行為に、いつまでたっても、たどりつかない。なぜなら、そうなってしまっては、ここでの前提である

  • 純情さ

が担保されなくなるから、というわけである。
よく考えてみると、今のこの現代社会も基本的には、この「構造」になっていることが分かる。私たちは、言ってしまえば、体が大人になった時点で、いつでも、セックスをして、子供を産むことができる。ところが、そうだからといって、高校生カップルが、背中に子供をかついで、授業を受けているなんて聞いたことがないわけであろう。よく考えてみると、なぜそうなっていないのかは、よく分からない部分がある。
なぜそうなっていないのかは、逆に言えば、子供を産んだ場合の「養育費用」を、なぜか国家が保障していないから、ということに尽きるであろう。子供を産めば、養育費にお金がいるし、子供の世話をする時間が必要になる。しかし、なぜか、今の教育制度は、それを「支援」するサービスが一切ない。高校に通う生徒に子供ができたなら、その生徒が子供を育てながら、学校に通えるようにするための

  • サービス

を国家が保障するのは当たり前ではないか。なぜなら、生徒は学業があるため仕事ができないのだから。ところが、そうなっていない。ということはどういうことか? 国家は、日本人に、学業を行っている間は、「子供を産むな」というメッセージを発し続けている、ということを意味する。
しかし、なぜこれが「自明」なのだろうか? こんなことをやっているから、少子化によって日本は今、滅びようとしている、と考えられないか。
たとえば、なぜラノベの主人公には、すでに、二、三人の子供を産んで育てている人がいないのか。もっと言えば、なぜヒロインは、主人公の一挙手一投足を

  • 元カレと比較

して、「前のカレシの方がよかった」とか言わないのか。普通に考えて、そういった社会経験のある人の方が、人生の世渡りを上手にやっていけそうなものであるが。
そこには、純然たる上記の「構造」がある、と言わざるをえないであろう。ラノベの主人公は、「普通」の「なんの特徴もない」、だれにも注目もされない、凡庸であることが特徴である。彼らが

  • 成長

するということは、彼らの「自尊心」をどのように調達するのか、が問われているわけである。高嶺の花のヒロインが、主人公を彼女が唯一、彼の「いいところ」を見つけだし、その感情は「誠実」でなければならない。言わば、

  • 誠実=処女or童貞

という関係になっている。その「純情」さは、彼ら彼女らが以前に「恋愛関係」を経ていないから、ということになる。もしも、過去に何人も恋愛経験があるとすると、それ「以降」これらの「行為」は

  • 比較

以外のなにものでもなくなる。ここは、一番目につきあったカレシの方がうまかったな、ここは二番目の方がよかった、ここが一番ダメなのは今のカレシだろうなw
こういった態度の特徴は、結局のところ、主人公を「凡庸」な、どこにでもいる「普通の人」に還元することにしかならない、というわけである。主人公がほしいのは「オンリーワン」だというわけである。だから、こいつの自尊心は満たされ「成長」する、というわけであるw
日本においては、こういった「純真さ」を礼賛するような「野蛮」な文化が温存されてきた、といった特徴があるのではないか、と私は思っている。例えば、テレビに出てくる女子アナの

  • 笑い

を考えてみればいい。この日本社会の「セックスシンボル」である彼女たちの「笑い」は、全国の大学生の中から、よりすぐりで選ばれた「エリート」の笑いである。お茶の間に喜ばれそうな「笑い」を顔に貼りつけられる女性が、新入社員として女子アナとして新卒採用される、というわけである。
しかし、よく考えてみると、あの「笑顔」は「恐しい」。なぜなら、彼女たちは、カメラを前して笑っているわけで、一体

に向けて笑いかけているのか。そういった特定の相手をもたない、「万人」に向けた「メッセージ」というものの、おぞましさを体現しているわけであろう。私はそこに「吐き気」をもよおすわけである。
以下の話題になっていた、ブログの記事は示唆的であるが、
これに気づいてない日本人は永遠に英語を話せるようにはならない。 ☆旅人美容師の1000人ヘアカット世界一周の旅★
日本人は、それほど親しくない人たちに囲まれると、自然と「笑い」を顔に貼りつかせる。それは、なんとかして、ここでの「共同体」に同化しようとする努力だとも解釈されるが、もっと言えば、日本人はこういった「共同体」的な人付き合いしかやってこなかった、というふうにも解釈される。
こういった行為を、日本人は「善意」だと解釈しがちだ。つまり、女子アナの笑顔は無条件で「善」だ、と解釈しなければならない、といったような「暴力」的な雰囲気がどこかある。つまり、どこかに「美しい」ことは「だれも批判できない」正義なのだ、といったようなインプリケーションがある、というわけである。

  • 身体障害者が片足をびっこをひいて歩いていると「ニヤニヤ笑う」。
  • 劣等生がテストで悪い成績をとると「ニヤニヤ笑う」。
  • いじめられっ子がいじめっ子にいじめられているのを見ると「ニヤニヤ笑う」。

こうした場合、日本の文化では、そういった「ニヤニヤと笑っている」人の「純粋」な心から、ついやってしまう、その「どうしても、ついやってしまう」という、「うぶ」さを

  • 無上の価値

として、こういった行為自体を「免罪」する。まさに「本居宣長」の言う「もののあはれ」というわけである。だから、「差別」も、この理屈によって、「うぶ」にやらずにいられなかった、ということで「否定」されない。
しかし、本当にそうだろうか?
というか、こう考えてみたら、どうだろうか。もしも。あなたの目の前の人が、急に、あなたに向かって「笑い」始めたら、あなたはどう思うだろうか。なんて失礼な奴だと思うんじゃないか。こんな礼儀知らずは、ありえない、と思うのではないか。なぜ、そうなのか。それは、この人が「目の前」にいるから、なのである。だって、その目の前の人が

  • どのように思う

だろうか、といった「気づかい」なしに、考えられないからであろう。こういったことは、正義だとか論理だとか、なんの関係もない。もっと、倫理的な態度が問われているわけであろう。
たとえば、柄谷行人さんの言う「トランスクリティーク」にしてもそうだし、もっと「他者」論が直截であるけれど、なんらかの

  • 共同体

が共有している「コード」のようなものがあって、例えば、それは女子アナの「笑い」を、無条件に礼賛しなければならない、といったような「コード」のようなものがあって、しかし、その

  • 自明さ

が批判されなければならないんじゃないのか、といったことを彼はずっとやっているようにも思うわけである。
こういった「自明」性を前提に、なにがしかが行われる一切のものには、どこか瑕疵があるんじゃないのか。人の本質をのがしているんじゃないのか、と。
たとえば、大学教授の人たちを見ても、明らかに日本の先生たちは、

  • 3年以上、回りに日本人のいない海外の大学で、日本人として一人ぼっちで研究してきた人

と、そうでなく、日本国内のローカルな、高学歴社交界で、人脈をつくって、のしあがってきた人たちとでは、なんか、話していることが天と地ほどの差があるように思うわけである。
日本の高学歴エリートコミュニティで、つちかってきた、「話術」のようなものは、いわば日本国内という「ローカル」な文脈でしか通用しない。そもそも、ここでの「ジャーゴン」は、まったく、世界的な文脈に翻訳できない。

  • なんとなく

これを言うと日本コミュニティの「回りが笑う」という「純朴」さだけが

  • コード

として流通し「消費」される。しかし、そういった饒舌が何を結果しているのかは、結局、日本という文脈の外では、まったく解釈されない。しかし、今や世界の「最先端」は日本のオタク社会なんだから、「世界史」的意味があるんだ、というわけであろう orz。
(例えば、原発関係で働いている人の多くは「高学歴」であり、もっと言えば、東大卒業生なわけである。つまり、原発の終わりは、東大エリートたちの失脚であり挫折なわけであろう。そこで、東大コミュニティにおいて「社交的」な人は、このコミュニティを「守る」立場として、彼ら社交界の「ヒーロー」として、原発推進をたとえ世論に反することになっても、主張していくことになる。)
パブリックな場には、いろいろな人がいる。

  • 仕事がうまくいっていない人
  • 大学入試に失敗した人

そういった人が目の前にいるのに、「ニヤニヤ笑って」いれば、そりゃ、相手にキレられるんじゃないのか。そんなこと当たり前のことじゃないのか。まさに、これこそ「KY」なわけであろう。
(柄谷さんが言っていた「他者」とか「差異」といったものも、こういった人それぞれの立場が「不透過」にしかありえないことを分かった上での倫理とはどういったものがありうるのかが問われていたわけで、私がフラット革命さとか、なんらかの社会の「同質」性を主張していた連中をずっと、このフログで攻撃してきたのも、こういった文脈で考えているから、というふうには言えるだろう。)
今期の京アニの「響けユーフォニアム」は、最初に、主人公の黄前久美子(おうまえくみこ)が、中学での合奏コンクールでいい成績をおさめられなかった結果に対して、これ以上の結果を望んでいたなんていうのはおかしい、といったようなことを言ったら、同級生にキレられたことへの「ショック」を受けた、といったような回想から始まっている。しかし、それがどういう意味なのかは、最初見ているところでは、あまり説得的な説明がされることはない。
しかし、原作を読むと、その「理由」として、彼女の「姉」の存在が、かなり丁寧に説明されていることが分かる。彼女が小4のとき、合奏を始めたのも、姉がやっていたから、ということであり、彼女の「人格」の形成に、かなり姉の存在が関係していることが分かってくる。
この作品を決定しているのは、この主人公の女の子の最初から最後まで、延々と描かれ続ける「優柔不断」さ、であろう。つまり、この女の子は、なにが魅力的なのか、さっぱり分からないわけである。そもそも、彼女はなぜ吹奏楽部に入部しているのか。別にどうしてもやりたい、というわけでもない。たんに、小4のときに、すでにブラバンをやっていた姉に「あこがれ」て、吹奏楽を始めたというだけで、たんに「経験者」だから、回りがほっとかない、というだけの理由で、いつまでも慢性的に続けてきた、というだけにすぎない。彼女自身の主体性がない。
というか、彼女がやっていることは、徹頭徹尾、全部そうなのである。
弟や妹にとって、兄や姉は、いわば「産まれたときから、ずっと側に存在する」なにか、である。つまり、人格の「影」のようなものだ、と考えられる。なにか考えるとき、かならず「兄や姉」について「まず考えて」から、自分のことを考える。彼らがどこか奥手な印象を受けるのはそういうところにある。彼らは単純に自分の願望について語ることは、まずありえない。なぜなら、それによって兄や姉がショックを受けるかもしれないからだ。ならば、

  • それを言ったとき「兄や姉」は、どういう反応を示すのか?

が「分かって」から、自分について、どうしたいのかを語り始める。
しかし、である。
こういった「特徴」は、ある意味において、上記で考察した「金髪」ヒロインの特徴でもあるわけである。彼女たちヒロインは、徹底して、冴えない主人公を「たてる」。つまり、主人公がイラっとするようなことを言わない。主人公の「ダメ」さを、あげつらったりしない。徹底して「奥手」であるが、なぜ彼女が、これほどの美貌と才能に恵まれていながら「奥手」なのかは、だれも説明しない。
ここで、「兄姉」とは何者なのか、を考えてみよう。
当たり前だが、彼らは「弟妹」がいなければ、親を独占できる。それだけ、親に愛情をもって育てられる。おこずかいもたくさんもらえる。お菓子もたくさん食べられる。勉強も多くの時間を見てもらえる。つまり、それだけ

  • 成長

できる。「良い子」になれる。
だったら、彼らにとって「弟妹」は「邪魔」ということになるであろう。
「兄姉」は常に「弟妹は邪魔」オーラを吐き出している。
いつも「イライラ」していて、「弟妹」に、「お前が邪魔だから、俺はうまくいかない」と「ぐち」を言い続ける。ネチネチと。
反対に、兄姉が「ご機嫌」のときがある、そのときは、今度は今度で、「こんな邪魔な弟妹がいるのに、おれはこんなに優秀」とか、自慢(=嫌味)を言う。
兄姉は、そもそも弟妹より、常に授業が先に進んでいるんだから「なんだ、まだこんなことも知らないのか」とか、「こんなことも分かんないのか」とか、「こんなに成績が悪いのか」とか、弟妹を嘲笑し続ける。こんなバカな連中は、家にいらないんじゃないか、俺だけでいいんじゃないか。まさに、こいつら邪魔なだけだよな、というわけである。
(兄姉は、確かに、弟妹を直接、、暴力によて殺すまでは行わない。しかし、逆に言うなら、兄姉は自らが、弟妹の前で「イライラ」し続けることによって、弟妹を「精神的」にストレスで衰弱させることで、長期的には「殺そうとしている」と解釈することもできるわけである。)
(この関係をネガティブに簡潔に表現するなら、兄姉は「イライラ」、弟妹は「ビクビク」、といった感じだろうか。)
私は別に、どちらがどう素晴しいのか、といったようなことを言いたいわけではない。例えば、上記の黄前久美子(おうまえくみこ)にしても、そういった奥手の性格をなんとか克服して、シスコンをなんとか卒業しようという作品になっているわけだし、一概に、どういう育ち方をしたから立派だとかを言いたいわけではない。
しかし、少なくとも言えるのは、たとえどういう人であっても「他者」に対して、謙虚に、<真剣>に向き会おうとしない人は(共同体的な自明性のコードの中で、他人をバカにすることしかできない人は)、長期的には、他人からも信用を失い、生きづらくなっていくのではないか、と思うんですけどね...。