金森修『科学の危機』

安倍総理東京オリンピックの決定のためのプレゼンをしたとき、「おもてなし」という言葉が流行語のようになった。しかし、そのとき私が思ったのは、これってようするに

  • 接待

のことだよな、ということであった。普通の日本の文脈において「おもてなし」とは、老舗の旅館のおかみによる、細かな気づかいのような意味で使われているということであって、これは

  • 優しさ

の一種と受けとられる。しかし、そうだということが、より「抽象的」な「優しさ」をイメージすることはミスリーディングなのではないか、といった印象が強くひっかかる。私たちが普段、親や子供、学校の同じクラスの友だち、こういった人たちに対して、普通に行っている「優しさ」を、

  • 一般の人

に「拡張」する、ということは何を言っていることになるのか。言うまでもなく、無限の人に対して、私たちは多くの時間をさくことはできない。つまり、自分と疎遠な人であればあるほど、自分がその人にさくことになる「時間のリソース」は限られていることを意味する。
この文脈において、上記の「優しさ」が何を意味していたのかを考えたとき、多くの場合、それは「商売道」における「倫理」のことを言っているのではないか、ということが分かる(つまり、それだけ、江戸時代から続く日本の「商売文化」は、大きな影響を日本人の生活に与えている、と解釈できる)。しかし、だとするならそれを、単純に「純粋な優しさ」に抽象的に還元することはミスリーディングではないのか。
商売においては、相手への「サービス」は、「見返り」とセットになっている。つまり、こういった「行為」は、その

  • 文脈

によっては、「わいろ(贈収賄)」の一種と解釈されかねない。もちろん、ここで言っている「おもてなし」は、そういった「レベル」にまでは行かないような

  • ちょっとした気づかい

といったような意味で使っているのだろうが、その境目は判然としないもので、前回書いたように

  • 酒女金

によって、重要人物を囲い込むことこそが、日本社会の「商慣行」として問題視されてきたわけで、いわば、

と言った場合のこの「クール」は、そういった日本の「悪慣行」に対して、その問題意識への「応答」を意味させるために、禁欲的に描かれる「登場人物の姿」を表象していた、と考えることもできるのであろう。
例えば、掲題の本は、「科学の危機」と呼ばれている近年の風潮について書いているわけであるが、この場合の「危機」と呼ばれている事態をどのように考えるべきなのかは、そんなに簡単ではない。
私たちが普通に考える、抽象的な意味での科学とは、たとえば数学の定理のように、だれもがその証明をたどり直せば、また、コンピュータにそれを行わせれば同じ結果になるような、そういった普遍的な「法則」のようなものをイメージしていて、この場合、大事なポイントは、

  • それによる、さまざまな実益をもたらす「応用」分野がある(商品が作られている)

といったところにあるわけであろう。だとするなら、それを「危機」と呼ぶことが何を意味しているのか、ということになる。
上記にあるように、科学は、いわばかっこつきの「普遍的な法則」の羅列によって、構成される。つまり、ここで言っている「科学の危機」は、20世紀の数学基礎論が言っていたような「数学の危機」と言う場合のような、その「数学体系」全体への理論的信頼性の危機ということではなく、

  • 次々と生産される「かっこつきの普遍的な法則」の「品質」の危機

であり、

  • それら「かっこつきの普遍的な法則」を実社会に適応していると言っている、その人の行為自体の「品質」の危機

ということになるであろうか。

あまり一概にはいえないが、多くの場合、その種の研究に参加した人々は貴族の家系、高い社会的身分や経済的基礎をもつ人々、または王の庇護を受ける政治的な権力者だった。水素を発見したヘンリー・キャヴェンディッシュなどは、信じられないくらいに裕福だった。一八世紀の半ばに水素を発見したからといって、それで即、大金持ちになれるということはなかったが、その種の経済的見返りなど、彼は全く気にする必要がなった。

つまり、古典時代から続く科学の営みと呼ばれるもののイメージは、こういった

  • 実社会の「ごたごた」から、まったく隔離された

ような、そもそも莫大な資産に恵まれすぎで、そういった世俗の利害損得をまったく度外視したような、単純に知的好奇心だけで行動しているような、富裕階級の道楽によって、その「純粋さ」を担保されていることが前提の部分があった。
ところが、そのフレームが維持できなくってきた、というわけである。

それは半ばサラリーマン化した科学者像でもある。
主に<知識勾配>のことが念頭に置かれているとはいえ、殊更に「権威主義的」と規定されているところなど、特に立派な人格者を想定するものでもない。いずれにしろそこには、<科学の古典的規範>を体現する一九世紀的な科学者の聖職者的な雰囲気は、微塵もない。

科学の対象が大規模になれば、それは国家規模のお金が用意できなければ、確認すらできない命題も生まれるであろう。科学の重要な命題の「生産」にはお金がかかる。もしそこに「需要」があるなら、これが

  • サラリーマン化

していくことは、必然だった、ということにもなるであろう。
しかし、もしもそうだとするなら、どういうことになるのか?

  • 科学命題の質の劣化

サラリーマンは給料をもらわなければならない。つまり、給料をくれる人が「喜んでくれる」成果をあげることが優先ということになる。当然、それができなければ、その成果を「でっちあげる」という動機になる。科学は善意を前提としているコミュニティなので、その「嘘」はなかなか「あばかれない」ことになるが、その間にも、その科学者は「役職」を転々として、「別の成果」をその時間稼ぎをしている間に行えばいいので(いったん、そうなってしまえば、「かけがえのない」存在として、だれもコミュニティから排除できない価値をその人自体がもってしまうので)、まったく倫理的な抑止が働かない。

  • 専門知識をもつ科学者による、社会現象への科学知識の「適用」の質の劣化

科学者がもらう給料を支払う勢力は、言うまでもなく「資本主義」的な、さまざまな需要がある。その需要をかなえるためにも、「聖職者としての科学者の御託宣」を利用する。そのサラリーマン科学者にポジショントークをさせることで、いわば「ステマ」によって、マーケティング的な効果を狙う。
市民は科学者を「聖職者」と同じ意味で、科学的に正しいことを言うことに「誠実」だと思っているので、まさか、「デマ」によって、自分に不利益がおよぶ行動を動機づけられると思っていない。しかし、問題はその科学者の言っている内容の「専門性」が高度すぎて、その真偽を一般の人が判断できない、というところにある。
これが言わば「ポストモダン」的な意味での「科学の危機」である。ポストモダン的な消費社会の「全体」化は、あらゆる分野における「聖域」を破壊し、すべてを

  • 商売道

に「現象学的還元」されていく。つまりは、科学者による「おもてなし」であり、「デマ」の全体化である...。

科学の危機 (集英社新書)

科学の危機 (集英社新書)