破局噴火と一般意志2.0

このブログでは何度もとりあげてきたが、東浩紀さんの『一般意志2.0』は、その前の著作である『動物化するポストモダン』から継承する課題として「オタク」論が引き継がれている。しかし、そういった視点で見たとき、近著になる『弱いつながり』は、この「オタク」論という意味では、『一般意志2.0』を、3・11以降を反映する形で、前作を「補完」するものとなっていることが分かり、この二冊は内容として深くつながっていることが分かってくる。
私が『一般意志2.0』を読んで、強烈な違和感を覚えた一つとして、これが未来の人類社会について書いているとされていながら、「近所付き合い」について、まったく書いていない、ということであった。これは私にとって、驚くべきことであったが、不思議なことに作者にとって、そのことはまったく問題ととらえられていない。つまり、私には、この本はなにを書いているのか、さっぱり分からなかったわけである。
どういうことなのかを私なりに整理させてもらう。
まず、この話は社会学ルーマンの「社会の複雑化」の話から始まる。ルーマンはこの複雑化する社会の「縮減」を考えるとき、近代科学の「テクノロジー」に注目した。つまりは、「電気社会」である。
例えば、こんなふうに考えたらいい。学校のクラスには、いろいろの趣味の人がいる。中には、東大受験をしたいから、少しの時間も惜しんで、学校の勉強をやりたい人もいる。しかし、学校社会は、こういった趣味の合わない連中を一つのグループにして、団体行動を強いてくる。こういったことから、何が起きるか。複雑社会は、人々を

  • ストレス

に追い込んでいく。つまり、人々は「心理学」的な問題を抱えるようになる。こういった問題を解決する手段として、

  • オタク的日常

が呈示される。つまり、引き込もりである。なぜ上記のようなストレスといった心理学的な問題を抱えるようになったのか。それは、他者と「関わった」からである。つまり、他人と関わるということが、そもそもの原因だ、というわけである。余計な人間関係は、多くの「無駄」な時間を浪費し、多くのトラブルを生み出す。しかも、平等な人権概念は、それぞれの人の「権利」を認めるために、ひとたび関係をもったら最後、その「おとしまえ」を人々に強いてくる。
つまり、ここにおいて諸悪の根源は、「人間関係」だった、ということになる。ルーマンの「縮減」テクノロジーは、ここで、一般意志2.0マシーンに重なることによって、以下の構造となる。

  • 電気社会:市民 --> <国家>

市民は、一切の媒介なしに、国家と「つながる」。つまり、市民と国家は「強烈なつながり」となる。この市民は、「ひきこもり」の個人である。一切の、人間関係を拒否して、部屋に引き込もっている。また、外にでかけるときも、自動車の中で、一歩もそこから出ない。

  • アラート(要求=欲望):市民 --> <国家>

市民はさまざまな欲望をもつ。それらのアラートは決して他者に向けられることはない。なぜなら、他者にそうした途端に、「強いつながり」が発生するため、人間関係のトラブルの元だからである。つまり、それらのアラートは、直接

  • 国家

に向けてメッセージを送られる。これに対して、国家はテクノロジーを介すことで、市民に対して、その「要求」の「応答」をすることになる。大事なポイントは、それによって、その市民の欲望が充足されなければならない、ということである。しかし、重要なポイントとして、必ずしも全ての場合で、その市民の要求に素直に応答ができない、ということである。つまり「義務」が存在する場合が問題となる。この場合、一般意志2.0マシーンはどうするか。それは、次のような比喩によって説明されている。

  • 例えば、道の真ん中に石があれば、私たちはそこを通るとき「よけて」進むであろう。つまり、これと同じように、国家は市民の存在する「環境」になんらかの改変を行っていくことによって、まるで<自由>に日常を過ごしているかのように、「石をよけ」させ続けるわけである。

つまり、<国家>は<僕>の嫌がることをしない。<僕>は生まれてから死ぬまで、<国家>としか話さない。つまり、「権利 - 義務」関係が<国家>としか発生しない。これが、究極の「オタク」社会である。
しかし、このことを逆に言えば、<僕>は<国家=一般意志2.0>とだけは、強烈な「つながり」が発生している、ということである。<僕>にとって、<国家>は生まれてから死ぬまでの唯一の「トモダチ」である。ここに、絶対の「信頼」感がうまれる。
ここには、「コミットメントは非倫理的」という思想が存在する。なぜなら、多用な他者との「つながり」は、結果として、ストレスであり心理学的トラブルを生みだすのだから、「つながってはいけない」ということになる。
しかし、そもそも「弱いつながり」とは、「つながってはいけない(=強いつながりは、非倫理的)」と言っていることと同値であるわけであろう。「弱いつながり」ということは、「つながり」が「ない」ということなのであって、一切のコミットメントを否定しているわけである。そしてこれは反語的だが、国家だけが唯一の「強烈に強いつながり」ということを意味する。
例えば、この前提に「言論の自由」があることが分かるであろう。なにを言ってもいい。他者を嘲笑してもいい。これは、「オタク」社会の前提条件である。なぜなら、そうであることによって、オタクの「欲望」は充足され、ストレスや心理学的トラブルから開放されるのだから。そして、例えば、フランスで起きた漫画家によるイスラム教への中傷によって、出版社が襲撃されて、関係者の多くが死傷したようなことは、無条件で犯人が悪く、たとえどんな理由があれ「言論の自由」は守られなければならない、ということになる。というのは、それは「殺人」の是非というより、

  • 強いつながりが「非倫理的」

と考える思想に関係している。殺人は、「強烈に強いつながり」であり、これを「否定」することこそが「オタク」社会の倫理だから、ということになる。「オタク」は他者を嘲笑する。それは彼らの「欲望」なのだからやらないわけにはいかない。しかし、それによる相手からの「クレーム」が当然返ってくるわけだが、それに対しては、ひたすら

  • 逃げる

わけである。そして、それを「可能」にするのが「国家」である。<僕>の唯一の「トモダチ」である<国家>はそういった「強いつながり」を強いてくる「クレーマー」たちから<僕>を「守る」。そういった意味で、そもそもの前提として国家は「善=トモダチ」でなければならなくなっている、ということを意味している。
「オタク」社会の要諦は、社会の複雑化によって、共通の規範を前提にできなくなった、ということを基盤とする。よって、人々はストレスであり心理学的病気を抱えることになり、問われているのは、この問題の<解決策>ということになる。どうすることによって、「オタク」たちのストレスを軽減するか。それには、彼らの「欲望」を充足し続けることが必要になると同時に、トラブルを発生させない(=他人と関係させない)ということが求められる。つまり、一方において「言論の自由(=好きなだけ他人を嘲笑する権利)」と、「トラブルの回避(=深いつながりの回避)」という、一見矛盾した命題を両方実現させなければならない、ということが前提となっている。
この妄想体系は「はるか未来の人類の<理想社会>」として構想されているところがポイントである。つまり、別に今、実現していないことが瑕疵ではない、ということである。しかし、私は思うわけである。

  • そもそも、こんな社会の「定常性」は可能なのか?

と。それは上記の文脈においても示唆しておいたように、これが「電気」文明を前提にしている、というところにそのポイントがある。

高橋正樹 対策も中央集権的な対策ばかり考えるので、例えば、大地震があったら、救急車をどう配置して、どう動かすか、それから消防自動車をどう動かすかなんて訓練、バカな訓練をやってるんですが、3・11のときをみればわかるように、道路はまったく使えなくなります。だから、そんな訓練をやったってなんの意味もないわけです。リアリティがないですよね。それよりむしろ、初期消化とか大切なので、小さい単位で、町内会とか小さい単位で、消防を早くする。そのためには、人力のポンプ車とかね。それから、江戸時代みたいに、防火用水とか、そういうのを小さい単位でいっぱい作っておく。公園の地下には必ず雨水を貯めるタンクを作っておくとか、そういうことをやって日頃から小さい単位で訓練をやっていればですね、初期消化もできるし、崩れた家からすぐに人を助け出すこともできる。我々どうしても消防とか病院とか頼っちゃってるけれども、頼ならないような原始的なシステムを作れば生き残る可能性は非常に高くなると思います。
VIDEO NEWS » これが火山国日本の生きる道

例えば、一時期「破局噴火」という言葉がはやったことがあった。スーパーボルケーノと言ってもいいが、ようするに、恐竜を絶滅させるような、巨大な「噴火」と考えればいい。こういった大きな噴火は、日本では、九州と北海道に集中して起きているが、それは、富士山や箱根山が「安全」ということを意味しているのではなく、富士山や箱根山は、三つのプレートが押しあい、ぐにゃぐにゃとぶつかりあっているから、しょっちゅう、ブスブスと小さい噴火をしているので、そこまでマグマがたまらない、ということのようである。
こういった「破局噴火」が北海道や九州で起きれば、まず、日本列島の動植物は「絶滅」である。他の地域でも、噴煙が地球を覆い、長期間の「氷河期」のような状態になり、多くの動植物が亡くなることになる。
もちろん、こんな「破局噴火」なんでやだ、というなら、日本に住まなければいい、ということになるが、ひとまず、こういった巨大噴火は、地球上の歴史でも、そう起きない、ということが分かっている。
例えば、噴火だったら、それなりの間、噴火をしない状態が続けば、「マグマ」が貯まるのであって、それがある閾値の超えたときに、噴火が起きると考えれば、まあ、こういった「破局噴火」は、どうしたって、「いつか」は起きる、ということは言い切ってもいいくらいなのだが、問題は「いつ」起きるか、といった予測がほとんど不可能というところにある。まず間違いなく起きるのだが、それが「いつ」なのかは言えない、ということである。
しかし、いずれにしろ「破局噴火」は、そう簡単には起きない。何十万年とか、そういうスパンということになり、まあ、そのとき、日本に住んでいる日本人がいて、それに遭遇したら、そのとき日本列島に住んでいた人たちは、一人残らず死んで、ご愁傷様、運が悪かったね、ということになるわけで(まあ、別にそれが、明日、起きないと言っているわけではないが)、まあ、これが日本人の「運命」だと思ってあきらめるしかない。
他方において、上記の「周期」をより短い期間で、もう少し小さいスパンで繰り返しているのが、富士山であり箱根山なのであって、この

  • 世界一危険な火山

を「極端なまでに身近」におきながら、巨大な「人口都市」を築いてしまったのが、我らが「東京圏」だという、困ったことになっているわけである。

箱根山も活火山である。富士山と25キロメートルしか離れていない。富士山も箱根山も、伊豆半島がプレートに載ってやってきて、日本にくっついてから噴火してきた火山だ。

さらにその前には箱根山の噴火から出た火砕流が、何度か30キロメートル近く離れた神奈川県の大磯や50キロメートルも離れた横浜まで達したことがわかっている。中でも約6万6000年前の噴火の火砕流は大きな規模のものだった。
火山入門 日本誕生から破局噴火まで (NHK出版新書)

火砕流といえば、雲仙普賢岳が直近では記憶に新しいが、何百度にもなる高温の空気より重たい空気が、山を下って神奈川県全体を流れていく。言うまでもなく、何百度の空気なのだから、その空気にあてられた動植物は、のきなみ

  • 全部

死亡である。この火砕流が流れた、神奈川県の「すべての人が死ぬ」わけである。もちろん、これがちょっとでも広がれば、東京から、関東圏全員「死亡」なんていうことにもなりかねない。
(もちろん、火砕流は各所で「濃淡のむら」が起きることが想定されるわけで、その規模の大小によっては、生き残らないとも限らないが、全滅だってありうる、といことである。)
私はつい最近、このブログで地方自治の発展の過程において、「東京の滅び」ということについて考察したことがあるが、上記のような点を考えたとき、これから百年単位で、日本社会は、東京一極集中の「解消」は始まるのではないか、といったことが、具体化し始めていくような印象を受けた。
どう考えても、東京圏は、富士山や箱根山という「世界で最も危険な火山」に

  • 近すぎる都市

というわけで、このように考えたとき、これ以上の東京の「発展」は無理なんじゃないのか、と思えてきたわけである。
これらは、あくまで「火山」に注目したケースであるが、洪水にしても、地震にしても、津波にしても同じであろう。こういったものは、ある一定程度での「周期」性がある(それは、地震であれば、プレートの圧力がたまればたまるほど、いずれは、どこかでそのストレスを発散しなければいけないという意味で、地震が繰り返されることは避けえない一方で、それが「いつ」なのかを予想することができない、という意味でもある)。
こうした場合に起きることは、「一切の電気文明の一時的な消滅」ということを意味している。今回の3・11においては、津波による人の死者は非常に大きかったが、電気の復旧はまあ、早い方だったと言えるのかもしれない。それでも、地震時、完全に自動車は麻痺した。そして、そんな文明の利器に頼ることなく、いちもくさんに、高台に向かって走った「津波てんでんこ」の子どもたちは命をまぬがれた一方で、いつまでも、車から離れることをやめられなかった「文明人」たちが、津波にさらわれて、帰らぬ人となった。
噴火においてもそうである。火砕流が来て、何百度の空気にあてられ、その地域の人々は「全滅」するかもしれない。全員死ぬかもしれない。しかし、比較的、被害の軽いところでは、まだら模様の濃淡をもって、空気は流れるであろう。その場合、言うまでもなく、。全電気は使えなくなる。

  • 国家

はここにはいない。頼れるのは「人力」のみである。自分の力で、井戸まで歩き、井戸の水を汲み、それを自分の家までもってきて、まだ小さい火で燃えている家を「消せるのか」が、生き残れるのかの境界を分かつ。ここで頼れるのは、

  • 近所付き合い

だけである。近所の人が自分を助けてくれるか。自分一人ではできないことも、回りの人が力を貸してくれれば、大きな力となり、自分の家の火事も消せるかもしれない。つまり、むしろこういった「災害時」においては、

  • 強烈な強いつながり

が重要になる、ということなのである。つまり、

  • 非電気社会:市民 --> 中間集団(隣近所) --> ... --> 国家

ということになる。恐らく、3・11においても、部屋から一歩も出ることなく、他人と関わることを避け、一人閉じ込もっていた「オタク」は、一人部屋の中で唯一の「トモダチ」である<国家>が助けに来てくれることをひたすら待ち続けているうちに、津波に流されて、帰らぬ人となったのであろう...。