稲田豊史『セーラームーン世代の社会論』

私は以前から疑問だったのだが、なぜ日本のサブカルチャー批評は、SFオタク論になってしまったのだろうか。つまり、SFオタクが

  • 自分

が好きな作品を語っている「それ」が、なぜそうなのかを延々を分析する、いわゆる「自分語り」になってしまっている。要するに、「自分大好き」なわけだ。ずっと、自分のことを書いている。
こういった現象が意味が分からないのは、そもそもSFを読んでいる人なんて、日本のほんとのマイノリティなんじゃないのか、という自覚がない。いや。おそらく、彼らにとってはSFを読むことは、歴史の最先端にいる、という感覚があって、なんらかの先鋭的な立場で人々を啓蒙している、という感覚なのであろう。
しかし、そういった「エリート」の自称優秀みたいな、自慢話ばかりが、サブカルチャーの「最先端の研究課題」みたいな状況はどう考えても異常というか「気持ち悪い」わけでして、なんとかそういった言説を、一般から駆逐したいものだ、と考えるわけである。
おそらく、こういった傾向というのは「文学批評」系とか、「哲学」系の、自分探し君たちの文脈に位置付けられる研究スタイルなのであろうが、他方において

の人たちの仕事には、比較的「まとも」なものがあるんじゃないのか、といった印象をもっている。
そういったものとして、掲題の本は考えられるのかもしれない。

セーラームーン』が徐々に社会現象化していったのは『無印』の後半から『R』の前半にかけて。はじめて視聴率が15%を超えたのも『R』の中盤である。
無論、視聴率と女児視聴者の支持率が完全に一致するとは限らないが、1つの指標にはなりうる。ゆえに、高視聴率で安定していた『R』と『S』で設定されている敵の価値観こそが、セーラームーン世代が幼いおろにもっとも強く刷り込まれた "忌避すべき価値観" と考えてよい。
そして、ここで断言したい。『R』に登場する「あやかしの四姉妹」ほど、セーラームーンの反面教師として作品に大きく寄与した敵はいない。好敵手、名ヒールというやつだ。

掲題の著者は、アニメ「セーラームーン」においても、特に視聴率の高かった時期を重要視する。つまり、主人公の月野うさぎが、最初は一人で戦っていたわけであるが、次第に同じくセーラームーンとして一緒に戦う「同士」が現れる頃から、作品はある種の

  • 倫理的な熱狂

をおびていくようになる。つまり、そういった時期に「何が描かれていたのか」というわけである。
言うまでもなく、アニメ「セーラームーン」において、月野うさぎは一見すると、ある「暴力」と戦っているように見える。しかし、そういった描写は一種の「比喩」と考えなければならない。つまり、そこにはある「価値観」の闘争があるわけである。なにかの価値があるから戦う動機となり、そういった暴力的な行動に至るのだから。

登場したころの四姉妹は、磐石の結束力を誇るセーラーチームと対照的だ。互いの化粧やファッションに容赦なくダメ出しし、互いの失敗をフォローするどころかバカにして蔑む。男にモテるカラアスが、男運のない姉のペッツを小バカにする描写もある。
あやかしの四姉妹は、互いの個性をリスペクトしあい、互いの失敗をフォローするセーラーチームとはまったく逆。アニメの制作陣は、魅力的な女の子が絶対にやってはいけない下品なふるまい、みっともないふるまいの典型を、四姉妹のキャラクターに漏れなく込めたのだ。

果たして亜美はベルチェを追い詰める。ベルチェは姉であるペッツとカラベラスに助けを乞うが、姉たちは助けてくれない。血のつながった姉妹なのに、「手柄は全員で奪いあい、ミスは個人に押しつけられる」のだ。結果主義一辺倒で頑張ってきた自分が、誰とも、なんの信頼関係も結べていなかったことに絶望するベルチェ。彼女もセーラームーンに浄化されえて改心する。

ちなみに、長女のペッツは、第72話「非情のルベウス! 哀しみの四姉妹」でセーラームーンから奪い取ったセティックを1人占めしようとするが、自分のキャリアアップのために他人を蹴落とするバリキャリ女子(という言葉は当時なかったが)のさもしさを体現しているようで、面白い。職場において、「できる女子」なのに下劣なイメージがついてしまうふるまいとは何か----という反面教師を、あやかしの四姉妹は見事に体現していたと言ってよい。
他人の足を引っ張りあう女子同士のコミュニティや、ギスギスした女性の職場人間関係に勅命した現在のセーラームーン世代は、心のどこかで、そこに「あやかしの四姉妹の醜さ」を見出しているのかもしれない。

掲題の著者は、今のアラサー女子の、決定的なまでの

  • 優秀さ

に注目する。私たちは人々を評価する場合に、主に次の二つの軸を使っている。一つがいわゆる「能力」であり、これはまあ、東大に合格したとか、そういう人間に対して言う、と考えていい。しかし、私たちがより重要視しているのが、いわば「倫理}的なものさし、というものだと言える。
これは、たとえば、ある人と一緒のチームになると、なぜだか、仕事がやりやすい、とか、目立たないけど、いろいろと気配りができるとか、そういった、いわば「日陰」の能力といったものだ。
こういった視点に立ったとき、今のアラサー女子は、決定的に後者の「倫理」的な能力が高い。というか、そもそも、こういったこと「すら」できないような、「本当」の能力の高さ「すらもてなければ、彼女たちは今の位置を維持できなかったのだ。
他方において、アラフォー男子の特徴は、掲題の著者も本で指摘しているように、アニメ「どらえもん」の主人公である「のび太」にあると言えるであろう。そして、これとまったくの同型と言える、アニメ「エヴァンゲリオン」の主人公である「碇シンジ」だと。
のび太やシンジの特徴は、とにかく、ずーっと

  • 自分

なのだ、自分のことしか言っていない。自分は不満だ、とか、自分は不快だ、とか、自分は今、気分がいい、とか。こういった男の特徴は、とにかく、

  • お前を見ている人

が、それによって「不快」になるんじゃないのか、といったようなことを、まったく考えていない、というところにある。ずっと、自分のことばっかり言っている。まあ、サラリーマンが家に帰って、奥さんに、会社のグチばっかり言っているのに似ているのかもしれない。
こういった特徴は、セーラームーンでいうなら、どこかタキシード仮面を思わせるかもしれない。タキシード仮面は、確かに、月野うさぎがピンチのときにあらわれる。しかし、別に、その戦闘にコミットメントをして、責任を引き受けるという感じではない。たまたま、偶然、あらわれて、ちょっと干渉して、その後なにもしない。どこか気が向いたら、月野うさぎに「ちょっかいを出す」ことはするが、まさに気が向いたら、というだけのようなもので、碇シンジが機嫌がいいときは、回りも手がかからなくてありがたいけど、機嫌が悪いと、めんどくさくてしょうがない、というのに似ているのかもしれない。
そういった視点で見ると、エヴァンゲリオンは、セーラームーンに基本構造が似ていなくもない。セーラームーン世代は回りにこういった、碇シンジのび太型の男子がいることに「適応」した形態になっている。つまり、こういった「めんどくさい」男子を、無下に扱わない。それなりの距離感をもって、丁寧に遇している。それは、エヴァ綾波レイが、無口で他者不干渉的であるのにもかかわらず、シンジを

  • 守る

という一点においては、なんの疑問ももっていないといったようなところに。
例えば、一般的な言説として、こういった子ども向けのアニメの「勧善懲悪」的な特徴を、いわば

  • 芸術的価値の低さ

を理由にして、嘲笑し愚弄する言説が多く見かける。つまり、この世界は「残酷」なのであって、正義だとか善などという科学法則はない、といったような低級な「哲学」といったものだ。しかし、おもしろいことは、そういうことを言っている奴に限って、日常の振舞いにおいて、回りへの気配りがなかったり、他人を不快にしていることに鈍感だったりする。つまり、大文字の正義だとか大文字の善だとかが<存在>するかどうかを語っている俺ってスゲーってわけで、自分に

  • 酔って

いて、普通にお前は回りを不快にしているんじゃないのかという、単純な「倫理」に気付いていない、というわけである。
こういった意味において、なぜアラサー女子は「優秀」なのかを、セーラームーンに見出す掲題の著者の視点は、慧眼だ、ということになるのであろう...。

セーラームーン世代の社会論

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