THE BLUE HEARTS「電光石火」

カントの三批判書というのは、おもしろい構造になっている。
まず、純粋理性批判においては、理性(=計算)の問題を、理性的である人間のその様態と、実際の理性という能力によって結果する計算との、微妙な諸関係を探求する過程となっている。
他方における、実践理性批判はこういったアプローチとはまったく違っていて、言わば、そういった純粋理性を

から考究していく、合理的な整合性のアプローチを一切放棄して、まさにそれを「外」から近づいていく、つまり、実際の実践的な場面において、それは「どのようにならなければならないか」といったような観点での考察を行うことによって、この純粋理性批判実践理性批判の二つによって、世界の両側面に対する見識を、明晰に分析していった、ということになるであろう。
しかし、このように考えると、では、第三批判書にあたる「判断力批判」というのは、なにをしているのであろう、ということになる。どうして、こういったものが必要とされたのであろうか。この三番目の「批判書」とは、一体なんなのだろうか?
一見すると、第三批判書は、第一批判書と何が違うのだろうか、という感覚にとらわれる。つまり、もう一度、純粋理性批判を行っているように思われる。しかし、一点違っているのは、ここにおいては、すでに、実践理性批判が存在している、ということである。それがあることを前提にしてなお、純粋理性批判を行うということが、どういうことなのかを考えるような議論を強いられている、ということが分かる。
つまり、このアプローチはなかなかスリリングな考察であることが分かるわけである。
純粋理性批判実践理性批判があるということは、この二つはごちゃ混ぜにできない、ということである。この二つが分かれていることには意味がある、ということである。
しかし、そもそも学問において、こういった「分割」というアプローチはそれ以前においては、本質的と考えられていなかった。確かに、アリストテレス形而上学は、さまざまな分野に分かれているが、それは便宜的なものでしかなく、本質的にはそれぞれの学問が厳密に分割可能とか考えられなかった。それは、当然の話で、神が作ったこの世界をどうして分けられるのか、という話になる。神が作ったこの世界のどんな細部も、別の細部と無関係に意図されたはずがないのであって、だとするなら、こういった学問の分割のようなことは本質的に不可能と考える方が自然だからだ。
こういった意味において、なぜ現在の大学の授業は、さまざまな分野によって分割されるようになったのかは、このカントの三批判書から始まっている、と言ってもいいわけである。
しかし、このように言ってみても、なぜカント以後そういった学問の分野分けが「一般的」になったのかは分かりにくいかもしれない。これが、有名な「コペルニクス的転回」に関係しているということなのだが、例えば、私たちの「心の内面」を考えてみるといい。私たちは自分の内面と関係なく、この世界というものは「ある」と思っている。ところが、その「ある」と言うためには、私たちの感覚器官を通して、世界を感覚しないと、私たちは「それ」を知ることができない。ところが、その感覚とは、言わば、私たちの身体が持っている機能なのだから、この機能が、その「写像」をぐにゃぐにゃした形で行えば、私たちはその様相を正確に理解することにはならない。ところが問題はここで言う、「正確」とはなんなのか、ということになる。
つまり、困ったことに、ここでのカントの議論(=観念論)を突き詰めていくと、そもそも、自分に関係なく世界が「ある」と言うことに、どんどん相対的な意味しかないのではないか、という認識が大きくなっていく。つまり、カント以降、この「心の内面」というものが、全ての分野において決定的な役割を演じるようになっていくわけである。
まず、実質的に始まったのが、カント以降の「文学」である。もっと言えば、カント以降、始めて「小説」が始まった、ということになる(小説がそうだということは、あらゆる芸術がそうだ、ということになる)。また、政治というものをハンナ・アーレント的な意味における「大衆」の表象する何かと考えるなら、カント以降に始めて、政治学が始まったと考えることもできる。というか、カント以降に始めて、こういったような「分野」を分割して、それぞれの独立性を言うことの意味が確定したのだから、あらゆる学問分野は全て、カント以降に始めて

  • 誕生

したと言ってもいいわけである。
例えばここで、カントによる有名な崇高論を考えてみたい。私たちがなにかを崇高に感じるとき、その感じている対象と、

  • そう感じている私たちの心の「内面」

は厳密に区別をできない。私たちの目の前で、3・11の東北の地震があり、津波が襲ってきて、多くの人が津波に飲み込まれて死んでいる状況を見ているとき、その「対象」と、それを見ている側の「心の内面」を区別できないのだ。言うまでもなく、その状況を見ているということは、一歩間違えば、自分が津波に飲み込まれていたということで、それになんらかの感情を感じている場合じゃなかった、ということになる。しかし、逆に言えば、そういった対象に「崇高」の感情を感じているということは、

  • ひとまず

自分は安全な場所にいる、ということを意味しているわけである(ここにはすでに、後年のハイデガーが考察することになる、「不安」や「安心」といった、近代の大衆論を先取りする考察がある)。
しかし、である。
この二つはそんなふうに「恣意的」にくっつけたり離したりできるのだろうか、という疑念が離れないわけである。

電光石火の超特急が
流れ星と並んで走るという

何かにつまづいている人
何かを心配している人の
心の中のプラットフォームに
流線形の輝くボディ

掲題のブルーハーツの名曲は、以下の三つをまるで「一つ」のものであるかのように記述することで、その「イメージ」の喚起力の効果を狙っている。

  • 超特急 ... 流れ星と平行して走るイメージ
  • プラットフォーム ... その超特急が今にも走りだして流れ星と平行に走り始めるのを今か今かと待っているイメージ
  • つまずいたり、心配している人の心 ... そのプラットフォームを、なにかに「不安」をもっている人の心のまだ、その不安をふきとばして、次に向かって走りだしていない状態として比喩的に描いているイメージ

こういった意味において、カント哲学は、言わば、私たちのこの世界との関係の位相を、それ以前の素朴哲学とまったく違ったものに変えてしまった(コペルニクス的転回)。彼のすごいところは、言わば、この「事実」に、ほとんどすべての世界の人たちはまったく自覚することなく、いつの間にか受け入れてしまった、というところにあるのであろう。彼の認識が、だれにも気付かれることなく、こういった

  • 文系的行為

が、まったく世界を「それ以前」と「それ以後」で、全然別のものに変えてしまったのだ。
もしも、これ以降の未来において、この地球上の人間が、世界最終戦争を迎えて滅びることなく、生き延びることが可能になるとするなら、このカントの革命と同じくらいの、なんらかの「リベラル的コペルニクス的転回」を、だれか、優秀な人が見付けだして、だれにも自覚されることなく、根本的にこの世界を変えるくらいの偉業が必要なんじゃないのか、と思わなくはないのだが、しかし、それってどんなものなんでしょうかね...。