東浩紀さんに「呪われた」フクシマ

毎日新聞で行われているという、東浩紀さんと開沼博さんとの往復書簡なるものが、以下で読むことができるが、これは一体、なんなのだろうか?

福島はいまや世界中が知る地名です。悲劇の結果ですが、しかし東京への一方的な従属を断ち切るチャンスでもあるでしょう。高速道路が通り、中間貯蔵施設が建設されて地元が潤う。そんなわかりやすい「復興」ではなく、福島という土地が、広島や長崎のような一種の「聖地」となり、人類の未来について考える象徴的な場所になる、そんな別の復興の可能性はないでしょうか。そしてそのためには、もっと多様 福島はいまや世界中が知る地名です。悲劇の結果ですが、しかし東京への一方的な従属を断ち切るチャンスでもあるでしょう。高速道路が通り、中間貯蔵施設が建設されて地元が潤う。そんなわかりやすい「復興」ではなく、福島という土地が、広島や長崎のような一種の「聖地」となり、人類の未来について考える象徴的な場所になる、そんな別の復興の可能性はないでしょうか。そしてそのためには、もっと多様な書き手によるもっと多様な議論が必要だと思うのですが、いかがでしょうか。
脱「福島論」:3)東浩紀さん 開沼博さん 人類の未来考える「聖地」に - 毎日新聞

そもそも、開沼博という人は、東さんの福島ダークツーリズムの「中の人」ではなかったのか。だとするなら、ここでやっている「論争」らしきものは、なんなのだ?
東さんは、上記の引用にもにじみでているように、彼の関心は「原発の過酷事故」であって、福島ではない。彼の関心は終始、「原発」にしかなく、そういう意味では、別に、3・11の原発の過酷事故が福島県で起きず、他の県の原発で起きていても、その県を、今度は

  • 人類の未来について考える象徴的な場所

と言い始めていたことは、上記のレトリックからよく分かるのではないでしょうか。彼の言う「人類の未来について考える」というのは、

と言いたいのであって、つまりは、彼は「原発は語られ続けて、人類の未来と一緒に<成長>していかなければならない」と言いたいわけであろう。そのためには、どうやって「地方」を原発の「犠牲」にするか。「地方」が原発の「犠牲」を受け入れるか。彼の言う

  • 語り続ける

とは、「その可能性を語り続ける」という意味であって、つまりは、「みんなで原発をどうやって維持していくかを語り合おう」というわけだ。原発が日本に残っていくためには、「地方」が原発を維持していってもらわなければならない。つまり、

  • どうやったら、地方に原発の維持を受け入れてもらえるのか

を死ぬまで、延々と語り続けよう、というわけである。
彼は「その手段」として、ダークツーリズムを考えた。つまり、日本中の人に、福島第一に来てもらって、否が応でも、上記の「議論」に、巻き込む。福島第一を目の前に見たならば、だれだって、「これ」について語らずにはいられなくなる。その目の前で威圧的にそびえているという「物質」性が、人々に「それ」について、考えることを強いる。そして、その延長に、

  • どうやったら日本の原発の維持を続けることができるか

を「一緒」に考えることを、

  • 目の前で見せて、人々に強いる

ことが、一つの有効な手段だと考えたのであろう。
彼にとって、福島について語ることは、「人類の未来」を特権的に象徴する「福島第一」について語ることなのであって、そういう意味では、それは別に、福島でなくて、他の原発のある「地方」だったとしても、どうでもいいことなのだ。
ようするに、彼の認識の中では、

  • 地方=原発を立地できる<東京から離れた田舎>
  • 東京=人口が密集している、原発を立地することのできない<都会>

という二項対立があって、その上で、

  • 東京人は、どうやって地方人に<原発の維持>を認めさせるか?

という、「説得」の使命をもって、3・11以降、ずっと、アクティブに「フクシマ」や「原発」について語り続けてきた、ということになるのであろう。
こういった、一種の「エリート主義」は、3・11以降の「反原発厨」と「安全厨」と呼ばれてきたカテゴリーに、ある意味において、あてはめられない「不快」さをもっているため、彼はこの両方の立場から、嫌悪の感情を向けられる。言うまでもなく、彼は「安全厨」である。しかし、彼が「安全厨」であることは、言わば、この「エリート主義」的な、

  • 統治

の側の「功利」「効率」を考えて、

  • 福島の低線量被爆をしている食品を、国民全員が食べた方が、さまざまな<バランス>への統治側にとっての利点がある

という命題から導かれているに過ぎず、そういう意味では、彼が言っている「悲劇」と矛盾しているわけである。もしも、フクシマが「世界的な事件」なら、なぜ「安全」なのでしょうか? むしろ、安全なら、世界中が注目する必要がない、ということになります。
つまり、ここで、東さんと「安全厨」の対立が、フレームアップしてくるわけです。「安全厨」にとって、本当の意味では、原発

  • うざい

わけでしょう。確かに低線量なら、それほど心配する必要はないかもしれないけど、やっぱり、原発の中で働いている作業員は、高線量であり、それなりのリスクを背負って作業をされていることは認識しているわけで、本当の意味で、「安全厨」にとっては、どうしても原発は、未来永劫、維持されなければならない、というところまでは深く考えていない。というか、ぶっちゃけ、

  • めんどう

という意味では、もしも原発がなければ、それについて考えずにすむわけだから楽だよな、くらいの「位置付け」しかない。
他方、東さんにとっては、そうではない。原発は人類史的な意味をもつものであり、吉本隆明が言ったように、テクノロジーの発展は後戻りができないのだから、なんとしても原発を維持していかなければならないし、そう言うことが

  • 知識人の役割

だと思っているから、どうやって田舎者をだまくらかして、原発を受け入れさせるかの、手練手管を使って、イメージ操作をするかを考え続けている。
まあ、そういう意味では、福島の人は、東さんに「呪われている」と言ってもいいであろう。彼はおそらく、亡くなるまで、福島について発言することをやめないであろう。もうこれは、福島の人はあきらめるしかない。日本は言論の自由がある国なのだから、変なエリート意識をもっちゃった人が、その使命感に情熱を注ぐことを他者がどうこうできると思う方がどうかしている。それは、大阪が橋下さんに「呪われている」のと同じわけである...。まあ、がんばって耐えてください、と言うしかないのであろう...。