根本かおる『日本と出会った難民たち』

この地球上に生まれた私たち人間は、さまざまな理由によって、住む場所を「変えたい」と思うのではないか。その「移住の自由」を、私たちは一つの「国際的な権利」として認めるべきだと思うだろうか?
逆に考えてみればいい。では、なぜ移住してはならないと思うのか? その場合に、どういった理由が人間が移住することを妨げうる理由になると考えるのか? 私たちの周りをかけめぐっている人間以外の動植物は、国境など関係なく、世界をかけ巡っている。これに対して、なぜ、人間だけは「制限されうる」と考えるのか。
そこには、おそらく「民主主義」が関係している。もしも、一定の勢力の人口の移動があった場合に、その地域の多数決の勢力図が変わってしまう可能性がある。そのため、その地域で長年育まれてきた共通認識のようなものが通用しなくなる。つまり、その地域の、もともと微妙なバランスの上に成立していた、環境的なバランスが、そういった

肥え太った大地の間だけ、むさぼれるだけむさぼって、利権を得た後、土地が駄目になったら、次のフロンティアに向かうというビジネスモデルが伝統的な生活をしている人たちに反発を買う、というケースなのであろう。
もちろん、単純に労働力として地元民との「競争」になることを忌避するという、右寄りの主張もあるのかもしれないが、しかし、本当にそれでいいのか、とは、心のどこかで、誰もが思っているのではないだろうか?
この地球上に生まれた、自分という人間が、いざとなったら、日本ではない、どこか別の国に移住して生活「できるように世界があるべき」とは、だれもが思っているのではないか?
例えば、今の安倍政権は著しく大企業寄りで、経団連の言うことには一瞬で反応するが、国民に対しては、さまざまな仕組みを作って、身体的にも精神的にも

  • 管理

を強めようとしている。こういった国家による国民の管理が強化されることを嫌がって、別の国に移住したいと思うことのどこがおかしいのであろうか?
言うまでもなく、国家は議会制民主主義である。つまり、代議制である。つまり、私たちが直接、この国家を統治しているわけではない。今の安保法制の議論を見ていても分かるように、国民がどれだけ、この法案に反対をしても、経団連と与党の話し合いだけで、勝手に、成立させる。というか、憲法違反でも、勝手に「そうでない」ということにして、成立させる。そういう意味では、今の民主主義国家であっても、大なり小なり、独裁国家だということなのだ。
そういった国の雰囲気に、「息苦しさ」を感じて、なんとかしてここから

  • 逃げだしたい

と思うことの、どこか不自然というのであろうか? もう一度整理するなら、ホッブズの近代国家のフレームは以下の非常にシンプルな構造しかもっていない。

  • 自然権:人 --> 国家
  • セキュリティ:国家 --> 人

国民は自らの暴力行為などを、国家に「移譲(=法を守る)」という契約をする代わりに、国家から、さまざまな「セキュリティ」を受けることによって、自然状態のアナーキーな暴力紛争から逃がれようとする。ところが、この国家から「提供」される「セキュリティ」が自らにとって、受け入れがたい品質しかもっていないと判断されるとき、私たちには次の二つの選択を迫られていることになる。

  • 内部から改革の運動を行う
  • この国家から逃げる

ここで、私たちは「一国平和モデル」から、「世界システムモデル」に思考をシフトさせる必要がある。世界には、複数の国家がある。そこに日本という国家が含まれている。さて。上記の認識から、日本の国民は、以下の三つによって「分類」できることが分かる。

  • ひとまずなんの不満もなく、今のまま日本で生き続けることを、今のところ選択している人
  • ひとまずは今のまま日本で生き続けることを選んでいるが、さまざまな不満を抱えており、まずは国家の「改革」を目指してデモなどをしている人
  • このまま日本にいることを忌避し、他の国への移住の検討をしている人(日本から逃げようと思っている人)

しかし、この場合問題は、三番目の人だということが分かるであろう。この人は、一体「どこ」へ行けばいいのだろうか? つまり、この人にその「選択」を許すためには、「ある国」において、次の条件を用意していなければ、少なくともならない、ということになるわけである。

  • 自国の国民が生活する「生活空間」
  • 他国からやって来て、この国に住もうとしている人を受け入れる「生活空間」

つまり、どういうことか? 上記は日本から「逃げ出す」人のケースを考えたわけであるが、もしも日本が「日本に逃げて来る」人を許さないとすると、当然、国家平等の原理から、他の国にも「その国に逃げて来る」人を許さない権利が許されることになり、結果として、日本から逃げ出す人ことはできない、ということになってしまう。しかし、それでは上記で考えた

  • 私たちの「権利」

は成立しないことになってしまう。よって、この論理的な必然によって、

  • 少なくとも、どの国も、どの地域も、一定程度の「移民」を受け入れなければならない(=そういう人のための「生活空間」を用意しなければならない)

という「定言命法」が成り立つ、ということになるわけである。
さて。
次に、難民問題に議論を移そう。難民とは上記の

  • この国家から逃げる

と選択した人の、その選択した事情が、彼らの人権保護上、やむにやまれぬ事情があると、判断される場合、と考えられるであろう。つまり、

  • セキュリティ:国家 --> 人

の関係が、客観的に成立していないと判断される場合。国家が、「その」国民の人権の保護をやっていないと判断される場合となる。分かりやすい例が、その国家の中の「政治犯」、つまり、その主義主張によって国家によって犯罪者とされた人となるが、しかし、その主義主張自体が国際的に非難される内容ではないような場合、つまり、むしろ、国家の方が国際法に違反して、一部の国民を弾圧している場合、となるであろう。
しかし、それ以外にも、今のシリアのように、国内が「内戦」状態で、すでに国家がその「リバイアサン」としての機能を果たしえていない、言わば、まだ、「リバイアサンが成立しきっていない」状態を考えることもできるであろう。
こういった、いわゆる「難民」の場合は、たんに「私たちの移住の権利」として、国際法的に各国、各地域に、一定の受け入れが義務づけられるというだけでなく、その難民の人そのものの「生きる権利」として、よりその「緊急性、必要性」が強まる、ということが分かるのではないか。
そもそも、その人は、自らが「逃げだした」国に帰れば、さまざまな問題が発生しうるから、難民申請をしているわけである。本人がそう言っているのに、どういった客観的な事実で、

  • あんたの主張は間違っているから、国に帰れ

と言えるのだろうか? もしもその人が国に帰って、その国の政治犯にされて死刑になったら、どうしてくれるのだ。
難民の場合、自らが「生きるか死ぬか」の瀬戸際で判断している、ということになります。本人がそう言っているのに、日本では、そいった人たちの声に、耳を傾けようとしない。つまり、

  • 非常に難民申請に対して、受理されるケースが少ない

ということなのです。

ここで一つの数字を考えてみましょう。
日本は、年間何人の難民を受け入れていると思いますか?
答えを先に言ってしまうと、二〇一二年に「難民として認定された人」は一八人、二〇一一年には二一人でした。

日本に対して難民申請をしている人は、二〇一二年には二五四五人、出身国は五〇カ国にわたり、その詳細はトルコ四二三人、ミャンマー三六八人、ネパール三二〇人、パキスタン二九八人、スリランカ二五五人などとなっています。おのうち際立った増加が見られるのがトルコで、二〇一〇年には一二六人だったのが二年間で三倍以上に膨れ上がっています。また、ナイジェリア、ガーナなどアフリカ出身者の増加も目立ちます。一方、認定される人の出身地には偏りがあり、一八人の認定者のうち実に一五人をミャンマー出身者が占めています。

??? これを見て、なにを言っているのか分からなかった人も多いのではないか? つまり、1パーセントも認めていない、ということなのである。これが、何を意味しているか分かるであろうか?
まず、大事なポイントは、難民として認められるためには、難民として認めてもらいたい人は、「難民申請」を各国家にすることになる、ということである。多くの場合、旅行ビザなどで、日本に来ていた人が、日本国家の日本国内の窓口に難民申請をする。ここでまず、問題が発生する。難民申請は、「理由」があって申請をしたのだから、国家はその「理由」の「正当性」を判断することになる。つまり、

  • 時間がかかる

ということである。ところが彼らは旅行ビザなどの長期滞在を許されない「権利」しかもたずに、日本に今いるわけであるから、まずここで大事なことは

  • この申請の審議の時間の間、彼ら難民申請者の「人権」が守られなければならない

ということなのである。

現在の日本に「難民キャンプ」はありません。彼らはアパートなどを自分で借りて生活しています。難民の子どもたちの多くは地域の学校に通って、日本社会の一員として生活しているのです。前に述べたように、難民として認定されれば一定の権利と行政サービスが保障されますが、申請中の人にこうした支援制度はほとんどありません。
申請中の人のすべてが働けないわけではありません。いったん「短期滞在」等の在留資格で入国した人が、その資格の期限内に難民申請をした場合は「特定活動」目的の在留資格に変更され、難民申請から六ヶ月経てば就労できるようになります。とはいえ、逆に言えば六ヶ月間は働くことができないわけで、これらの人々が最初の六ヶ月を生き延びるための支援はほとんどありません。また、そもそも不法入国だったり在留資格が切れてから難民申請をした場合には就労許可が下りません。そうした場合は当座の生活も立ち行かず、海外の家族・親戚などからの送金に頼ったり、不正規に日雇いやそれに近い仕事をしたりするしかありません。
外務省の管轄の制度として、困窮している難民申請者に一日一五〇〇〇円の「保護費」を支給し、住む所がない人にはアパートを無償提供する、というものがありますが、難民申請者の急増によって手続きに時間がかる上に、予算の枠もあって支援を必要としている人たち全員には行き届いていません。あるソーシャルワーカーの報告によると、難民申請者全体のうちでこの保護費を受給した人は一割にも満たず、残りの九割以上は保護費なしで暮らしている、というのです。保護費もなく、働くこともできない人は、長い申請期間中NPOなど民間の支援機関に頼らざるを得ないのが現状のようです。

つまり、人間のライフ・サイクルは次のようになっている。

  • 非難民 --> 難民申請中 --> 難民(難民申請受理)
  • 非難民 --> 難民申請中 --> 非難民(難民申請却下)

ここで、「難民申請中」の期間は上記のシステムから、必ず、一定期間必要になる。ところが、その間に、ほとんどなんの国家からの支援もないだけでなく、六ヶ月間、国内の就労が「認められない」というわけである。さて。国はどうやって、その間、その人に「生き延びろ」と言ってるんですかねw
そして、さらなる「異常さ」は、上記にあるように、これら申請中の状態を日本において「サバイバル」した人たちの、ほぼ「百パーセント」が、実際に却下になっている、ということであろう。
長い時間をかけて、わざわざ、この国に住みたいと申請してきた人たちを却下にして、この国って、なにがしたいんですかねw
さて、話はここで終わりでしょうか。いいえ。終わるわけがないでしょうw よく考えてください。彼らは「難民」申請をしているのです。生きるか死ぬかを賭けて、彼らは難民申請をしたのです。そうした人たちに対して、ほぼ百パーセント「却下」してるんですよ、この国はw 話がこれで終わるわけがないじゃないですか。じゃあ、このほぼ百パーセントの人たちは、どうなっちゃうんですか。

もう一つ、日本特有の摩訶不思議な制度について紹介しましょう。
それが、先ほどの申請手順のところで出てきた「人道上の配慮に基づく在留特別許可」と呼ばれるものです。
これは難民申請では「不認定」という判断になった人に対し、「人道上の観点から日本に在留することを特別に許可する」という制度です。これまでに許可が出たケースを見ると、子どもや家族、健康上の理由、日本人との結婚といった事情が考慮されるようです。
二〇一二年には一一二人にこの許可が出されており、その数は正式な認定者の六倍以上に上ります。難民認定において補完的な役割であるはずのこの制度のほうが数的に主となる、というおかしな状況なのです。正面から「難民条約」として認められるべき存在が「人道配慮」で済まされているのではないか、とも考えられます。
さらに問題なのは、この制度が国(法務省)の「裁量行為」であり、許可の理由や基準が明確にされていない非常に不透明な制度である、ということです。条約難民と認められれば受けられるはずの日本語教育や就職あっせんなどの支援も受けることができませんし、許可自体も一年ごとに更新する必要があるなど、権利が明確に保護された条約難民の身分とは大きな隔たりがあります。

上記の二つのルートのうちの下のケース、難民申請却下の場合には、彼らにはさらに、次の物語が待っている。

  • 非難民(難民申請却下) --> 非難民(人道配慮による在留特別許可あり)
  • 非難民(難民申請却下) --> 非難民(人道配慮による在留特別許可なし)

この二つの分類を維持したまま、さらにルートは分かれていく。

  • 非難民(難民申請却下) --> 異議申立中 --> 難民(異議申立受理)
  • 非難民(難民申請却下) --> 異議申立中 --> 非難民(異議申立却下)

さらに、

  • 非難民(異議申立却下) --> 裁判中--> 難民(裁判勝訴)
  • 非難民(異議申立却下) --> 裁判中--> 非難民(裁判敗訴)

この一連の申請過程をまとめると、次の三つのルートに、大きくは整理できる。

  • 非難民 --> 難民申請中 --> 難民(難民申請受理)
  • 非難民 --> 難民申請中 --> 非難民(人道配慮による在留特別許可あり)
  • 非難民 --> 難民申請中 --> 非難民(日本在住をありらめる、または、法的に強制送還される)

最後のケースは、彼らが日本国内の法律によって、「不法滞在」という

  • 法律違反

をしている人として扱われる、ということを意味しています。つまり、難民認定が却下された時点で、彼らはこの日本に滞在する「権利がない」ということになるわけで、一般に言う「犯罪者」と同じ扱いになるわけです。

日本で難民・難民申請者たちと話をしていると、よく「ウシク」という言葉が出てきます。ウシクを語るとき、彼らは一様におびえたような悲しい目をします。
ウシクとは、正しくは茨城県牛久市にある「東日本入国管理センター」のこと。基本的には、不法滞在していた外国人が強制送還されるまでを待つ収容施設です。
牛久のほか、大阪府茨木、長崎県大村の三ヶ所に「入国管理センター」があります。
二〇一一年の法務省の資料によると、同年六月の時点で一六四人の難民申請者が各地の入国管理局に収容されています。ここはあくまでも強制送還を待つ場所であり、基本的に中では何もすることができません。刑務所の場合、囚人たちには労働の伴う懲役、服役後の社会復帰を念頭に置いた職業訓練や慰問がありますが、ここはただ「待つだけ」の場なのです。

つまり、最後のケースは、まだ終わっていなかったのです。次のルートがあるわけです。

  • 非難民(日本滞在の権利の消滅=強制送還決定) --> 強制送還待機中 --> 国外(強制送還)

しかしね。
強制送還っていうけど、そんなに簡単に行われるわけがないですよね。けっこうな時間、待機することになるのでしょう。でも、その間って、彼らは日本の法的な権利がないわけでしょう。自分で日本国内で働いて、お金を稼ぐこともできない。むしろ、そういう状態こそが、人道的に許されるんですかね。彼らは、正当な権利によって、難民申請をした。そうしたら、たんにその申請が認められなかったというだけで、一定の期間、労働をしてお金を稼ぐ権利も認められない。なんか、間違っているんじゃないのかな。
それに、そもそも、ほぼ百パーセントで却下して、強制送還された難民申請者は、本当に自国で自らの「人権」が守られているんですかね。勝手にほぼ百パーセントで難民申請却下をしている日本の役人は、それを確かめているんですかね。
あのさ。
なんか、制度的に、根本的に間違っているように思うんだよね。
このシステムって、どこか日本の「生活保護」に似ているよね。徹底して、申請主義だし。でもさ。たかだか「役人」に、その人に権利があるかどうかなんて、判断できるのかな。ただの役人だよ? 学校でちょっと勉強ができた、というだけの、ただの「役人」がだよ?
まずは、難民「申請」をする人の人権を徹底的に「保護」しませんか。その上で、

  • 役人が難民申請を「裁量」する、そのレベルを<信じない>

システムにしませんか。まずは、制度的な意味で、日本国家の中に「難民キャンプ」を作る。すべての都道府県、すべての市町村に作る。つまり、一定程度の人権保護のための「生活空間」を、各地域が保障する。その上で、一人一人の状況に合わせて、

  • 残酷な仕打ちをしない

ということになるんじゃないですかね。難民申請する人にとって、それを申請して最終的な結果がでるまでの期間で、その人にとっての人生の中での、貴重な非常に長い年月であるわけでしょう。この時間の長さに対して、一定の

  • リスペクト

のないシステムはありえないんじゃないでしょうか。認められた場合にしても、そうでない場合にして、その人に対して

  • 難民申請をしてよかった

と思われないような「仕打ち」をしたら、国家の「恥」じゃないんですかね。まあ、この国のほぼ百パーセントの申請却下は、日本の生活保護のあまりの少なさに対応して、いかに国家が個人の人権に関心がないかをあらわしているんでしょうけどね...。

日本と出会った難民たち――生き抜くチカラ、支えるチカラ

日本と出会った難民たち――生き抜くチカラ、支えるチカラ