徳倫理学とは何か?

近代以降の、道徳哲学は、ベンサム功利主義と、カントの義務論によって、説明され尽した、と誰もが考えたこの時代にあらわれたのが

であった。ところが、困ったことに多くの人にとって「これ」がなんなのかが分からない。うまく「指示」できない。
この状況ってなんなのかな、と思って考えてみると、ようするに、今の時代って、ベンサム功利主義と、カントの義務論の二つによって、なにもかもが説明される時代なんですよね。例えば、ポストモダンって、ある意味そうでしょう。つまり、「科学」ですよね。そうやって科学で、人々の道徳や倫理を語ろうとしたら

  • なにも確実なことが言えなくなった

と言っているのが、ポストモダンですよね。一般的な科学のアプローチで「人間学」をやろうとしたら、ずいぶんと寂しい研究結果しか生まれなかった。そしてその結果に対して、でもこれこそが、時代の最先端なんだ、というわけでしょう。
それに対して、徳倫理学って、なんていうか、どこか人を食ったようなところがあって、ようするに、あえて挑発的な言い方をさせてもらうなら

とも言えなくもない、ってわけなんですよね。そんなことがあるのか? と思うかもしれないけど、まあ、事実なんだからしょうがない。

アリストテレスの徳倫理学の利点は明らかである。その利点とはすなわち、徳ある人が正しく行為するために[上述の道徳的嗜好とは別の]さらなる動機をまったく必要としない理由を、そうした人はその人自身にとっての善さにかんしてだけでなく、その人の友人や同胞にとっての善さにかんしても正しく行為することに喜びを感じるから[と説明することができること]である、という利点である。それゆえ、アリストテレスが議論の途中で言及しているように、しっかり訓練されなかった人の場合を除けば、外部からの制裁や強制は余計なのである。さらにいえば、アリストテレス的徳倫理学は「みんなのための倫理学」である。なぜなら、適切な環境に置かれれば誰もがきちんとした性格を獲得することができるからである。つまり、[きちんとした性格を身につけるために]特別な洞察や複雑な哲学的反省が必要とされてはいないのである。それゆえ、アリストテレス的徳倫理学では、プラトンの哲人王が備えるような超越的な知性や宗教的な類いの上位の権威などはまったく登場しない。もしアリストテレスが立法者として働く政治家に「[人の]生にかんする統括的学問」を担わせているとすれば、それはたんに、立法者は一般市民と比べて思慮深いがゆえに立法者であれば共通善のために必要な秩序と法のことが分かっていると想定されているからにすぎない。
(ドロテア・フレーデ「徳倫理学の衰退の歴史」)

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

倫理学は、その名が示しているように、人々の「徳」に注目する。つまり、最初から「行為」を文脈から独立に引き離して考察する「科学」と、どこか対立している。例えば「科学」なら、ある行為があったときに、それが「正しい」のか「正しくない」のか、といった二択を迫られる。しかし、徳倫理学は、そもそも、最初から、そういった命題に興味がない。つまり、一切の道徳命題に反する行為を行っている人であっても、その「徳」において評価されうる、ということが起きてしまう。
つまり、このことを一言でまとめるとするなら、

  • 倫理学は最初から「ハイコンテクスト」が前提にされている

わけである。徳倫理学は、最初から、あらゆる行為を、その「文脈」から離れて考える、といった「科学」の作法を拒絶する。その人のその行為は、その人が産まれてから今、ここに至るまでの、すべての行為の「インテグラル」であって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、その文脈を離れて評価可能だといった「非文脈主義」を許さないわけである。
また、徳倫理学は、その最初において、その人が産まれてから今までにおいて、出会うことになった人々との諸関係を抜きにして、その人を評価する、ということを行わない。そういう意味では、最初から、その人の評価には、他の人たちがいることが「前提」になっている。(思考実験的な)孤独な存在を仮定しないわけである。

  • 倫理学は「特殊」な文脈を特権化しない

たとえば、論語でもそうだが、ある人が人間的に評価される場面において、その人が「特殊」な経歴をもっているかどうかが焦点になることはない。なぜなら、そもそも、徳倫理学は「開花」型と呼ばれるように、植物が成長したり、人間が子供から大人になる場合がそうであるように、なにか特殊な「才能」に恵まれたから、子供が大人になれた、といったことではないからである。

  • 倫理学は、才能に<反して>現れる

こうやって見てくると、徳倫理学って、ぜんぜん「すごく」ないんですよね。なんか、どこにでもいる「おっちゃん」「おばちゃん」みたいなもんで、まあ、マイルド・ヤンキーみたいなもんなんですよね。
でもさー。
例えば、漫画やアニメなんか特にそうだと思うけど、よく飽きもせずに、少年ジャンプ的な人間関係を描くじゃないですか。あれ、みんな「徳倫理学」ですよね。傍から見て、なんの才能もない、どんくさい奴なんだけど、肝っ玉が座ってるとか、恐れずに向かって行くとか、みんな「徳倫理」ですよね。
まあ、でも、実際、私たちの日常を考えてみてもそうですよね。なんとなく、人間的な魅力を感じる人と、長いつきあいになってたりするわけで...。