フィリップ・J・アイヴァンホー「徳倫理学と中国の儒教の伝統」

なぜ近年、わざわざ「徳倫理学」なるものが言われるようになったのかというと、少し歴史的な経緯がある。つまり、早い話が、

の二つが、とても成功してしまったため、むしろ、ヨーロッパの伝統的には、ずっと一般的だった「徳倫理学」が忘れられてきた、ということになる。つまり、この二つによる「科学」的な説明は、とてもうまくいったため、「徳倫理学」は不要なのではと考えられた、ということである。
この指摘は確かに、なかなか説得力があるわけで、実際に、どういう場合に、この二つでは不十分なのかと考えてみると、うまく説明できないようなところがある。というのは、一般に歴史上、徳倫理学として扱われてきた人も、よくよく見ると、上記の二つに分類されるようなことを当然発言しているわけであるし、それと区別できないという意味で、なんとなく

  • 上記の二つで十分なんじゃないか

という気がしないでもない、と思えてくるわけである。この感覚ってなんなのかな、と考えてみると、いわゆる「科学」がそうなんだろうな、と思うんですよね。徳倫理学って、あまり科学として扱うようなものではない、と考えられているところがある。例えばデカルトのアプローチにおいては、あらゆる対象は、

  • 延長

され、

  • 分類

され、それぞれの要素に還元されていく。そうやって、細々と切り分け、同類のものは纏められた先に、それぞれの対象の「本質」が考えられる。でも、徳倫理学って、こういったアプローチとどこか相性がよくない感じがする。そういう意味で、

  • 前近代

の野蛮な時代の名残りのように受けとられがち、ということなのであろう。
ではなぜ、今、「徳倫理学」なのか、というと、まあ、時代の閉塞感のようなもの、と受けとればいいのであろうか。なんとなく、上記の二つのアプローチが、人々に説得感を与えられなくなってきた。例えば、リベラリズムを考えてみるといい。リベラリズムは、一言で言えば、

というもので、この理論は、人々がどう生きなければならないのかについて語らない。そうではなく、人がどういった生き方をしているのかを「許容するかしないか」を、延々と考察している。つまり、

  • メタ

の議論を際限なく繰り返す。これってなんなのだろうな、と思うわけである。私たちはもう、積極的なことを言えなくなったんだな、と思うわけである。例えば、街を歩いていたとする。すると目の前に、足をひきずった、おばあちゃんがいた。急な階段を昇るのに苦労をしていたから、昇るのを手伝ってあげたとする。まあ、素朴に考えると、こんなことはだれだって言われなくても、やるんじゃないか、ということなんだけど、ところがリベラリズムにおいては、

  • それ

を議論できない。そんなことに対してさえ「いろいろな考えの人がいるよね」といった、気持ち悪い「一般論」からしか説明できない。やれ、年寄だって体を動かした方が健康的なんじゃないのか、とか。
つまり、なにも積極的なことが言えない。そう思ったら、リベラリズムってなんなのかな、といった素朴な違和感が、さまざまな人に広がってきた。この前、このブログで、マイケル・サンデルの『民主政への不満』という本を紹介したけど、あの本は、アメリカの

  • 歴史

から、一般的に今、アメリカの「思想」と読ばれているものの姿をあぶりだそうとしている。つまり、ニーチェで言う系譜学的なアプローチになっている。そうやって見ると、アメリカの歴史も、けっこう「徳倫理学」的だったりするわけです。マイケル・サンデルリベラリズムに対抗して、共同体主義のようなものに注目するのも、こういった歴史的な視点の再評価みたいな観点があるわけで、そんなに単純じゃない。
そこで、進歩主義者や、成長主義者は、おそらく、こういったことに悩まないのかもしれない。マイケル・サンデルの逡巡も、そんな古くさいものに、いつまでもこだわっていて、歴史の進歩を分かっていない、と言うわけであろう。なぜ上記の二つが現代を席巻していて、徳倫理学が忘れられたのかといえば、実際に「間違っていた」からではないのか、と。間違った理論が歴史の中で淘汰されるのは当たり前であって、そういった「曖昧」で「矛盾」した主張が、科学の表舞台から消えるのは、世のことわりではないか、というわけである。
しかし、そうなのか?
というのは、実際にそれでうまくいっているのか、という問いなのであろう。いろいろとうまくいってないから、わざわざ今ごろ「徳倫理学」のようなことを言わずにいられなくなった連中がでてきたのであろう。というか、みんな、自称「哲学者」の説教に「うんざり」してきた、ということなんだろうね。ようするに「正しい」ことを言う人って、リベラリズムとかポストモダンとか、こういう袋小路に追い込まれて、先鋭化していって、まあ、時代の最先端で俺は闘ってるぜ(キリッ てな感じなんでしょうね。そういうのを、みんな動物園のサルみたいに眺めて、奇矯がってたんだけど、だんだんこういった連中に世間が、ステータスを与えていったら、なんだか息苦しい世の中になってきた気がし始めている、ということなのかもしれない。
リベラリズムとかポストモダンとか、積極的なことは言えないって、決定的に正しいけど、それって、なにも言ってないのと同じだからね。まあ、一種の責任逃れなんだよね。そういう意味では、徳倫理学においては、正しいことを「言う」人って、必ずしも、正しい人じゃないんだろうね。正しいことを「言う」人って、正しいことを言うことに「病的」にこだわっている人なんだよね。正しいことを言わないと「病気」になっちゃうから、そう言わずにいられない人のことなんで、まあ、そんな人、「正しい人」じゃないよねw

倫理学を他の倫理学と違ったものにしているのは、徳倫理学では、人の生の全体にかかわるものとして倫理(ethics)が扱われており、とりわけ「道徳的(moral)」とされる性質をそなえた事柄が問題となる場合だけが扱われているわけではないという点である。徳倫理学にとって焦点となるのは、道徳的に困難な場面で何を為すべきかという問題よりも、親切心や勇気や思慮や誠実さといった人柄にかかわる性質をそなえた人が下すあらゆる選択にどう迫っていくのかという問題なのである。この焦点の違いは重要である。自分の行為の正しさに自身をもっている人々に、あなた方は気前がよかったり、思慮深かったり、あるいは正直だったりするのかと訊くと、その途端に口をつぐんでしまうことがある。正しさとはわれわれが為している事柄についてのものであるが、しかし徳とはわれわれの生き方についてのものでもある。徳は[行為と生き方を]分断することに抗うものなのである。
(ダニエル・C・ラッセル「現代道徳哲学における徳倫理学」)

こういった感覚の最も分かりやすい例って、「論語」だと思うんですよね。論語って、徹底して「属人的」じゃないですか。でもそれって、昔の人にとっては当たり前だったんじゃないだろうか。どの村でも、みんなから信頼されている人がいて、その人が村長になって、村はまとまっていた。まあ、これだけのことだよね。さて、村長は「常」に「正しいこと」を言ってたのかな? そんなことあるかいな。まあ、人間なんだから、だれだって、だらしなかったんじゃないの? でも信頼された。つまりは、そういうことだよね。

農業の比喩の使用は、単なる文学的装飾ではない。一連の農業的比喩を見れば、道徳面での自己修養にかんする孟子の基本的主張がわかるだけでなく、孟子の倫理的見解に含まれる細やかで独特の特徴をも読み取ることができる。たとえば、「宋の農民」(『孟子』公孫丑上)という寓話のなかで、自己修養を強引に進めようとすることがいかに危険であるかを警告する際にも、孟子は農業の比喩を用いている。この寓話の中心的主張は、道徳的に向上しようとして努力しすぎる場合が人にはありうること、そして、そのような行き過ぎた努力は、性格を改善させないばかりか、かえって有害であり、自己修養の失敗を決定づけることさえあるということだ。自己修養には農業と似たところがあり、われわれは献身的ではあるが忍耐強く持つこともできる農夫のようになるべきなのである。

孟子は人間的開花についての説明を入念に作り上げた。彼が用いるひと揃いの農業的比喩は人間本性にかんする目的論的見解に依拠しており、その見解によって、植物の成長(初期の芽から、十全に開花し成熟した標本のような実例までの成長)と道徳感覚の発達(徳の「芽」から徳へと至る発達)の間の類似性が示される。また、孟子の道徳哲学は、実在の理想的行為者と仮想の理想的行為者という観点から、自己修養が首尾よく完了するさまを表現している。徳の模範となるそのような人物は、人間という種のうちの健全な実例として提示され、ある人の道徳的発達と達成度合いを測るための基準を与えるのである。さらに、農業の比喩を用いることによって、孟子は人間本性と自己修養について説明するだけでなく、道徳上の失敗についても説明する。これによって、孟子はわれわれが発見することを望みうる開花型徳倫理学の最も明白な支持者の一人となっているのである。

たとえば、植物がどうやって成長するのかって、「概念」で記述できないですよね。それは、人間もそうで、どうやって、子供から大人になるのか、その「メカニズム」を、

  • 概念

として記述できない。論語を読むと、当時はまだ文字文化も今のように普及していなかったから、なんでも「概念」で説明しようとしていないんですよね。だから、固有名で指示する「会話」というのが、非常に当たり前に徹底されている。
ところが後年になるに従って、あらゆる言説は「科学」的になっていく。なんでも「概念」でカテゴリー化されていき、非歴史的になっていく。そういった過程で、徳倫理学のようなアプローチを自分たちの認識の中に、留めておけなくなってきた。こういった考えが、あまりに異質なので、どう扱っていいのかが分からなくなってきた。
たしかに「これ」がなんなのかって、うまく指示できないんですよね。まあ、それが倫理学なんでしょうが。ピーター・シンガーなんかになると、もう倫理学という言葉を使わなくなりますよね。つまり、倫理学という言葉を「道徳」と同値に使うようになっている。でも、そうしてしまうと、残念だけど、上記までで考えてきた、徳倫理学っていう考えを維持できなくなっているんですよね。倫理を道徳(=ルール)に還元してしまうと、徳(=ヴァーチュ)って、意味不明になるのは確かなんですよね。だから、この一線を維持しているかどうかって、重要に思うんですよね...。

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

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