冨田恭彦『観念論の教室』

観念論は、その主張が間違っているかどうか以前に、その系譜学的な分析が欠かせない。つまり、なぜこのような主張が一つの「流行」として一世を風靡したのか、を知る必要がある。
なぜ観念論が生まれたのかを考える上で、私たちがこの世界を見たり聞いたりしてるのとは違ったようにあるのではないか、といった問いが、その前に欠かせない。どういうことか? 原子論が分かりやすいように、この世界は原子で構成されている。ところがこの原子は見ることができない。臭いもない。つまり、私たちが「感覚」している「もの」とは

に「そのようにある」と言うしかない。これをどう考えればいいのだろうか。つまり、ここで私たちは自分が「感覚」しているものとは、別に、なんらかの世界の「モデル」を考えている、ということになる。「感覚」しているものとは別に、世界の仕組みを考えるとは、どういうことであろうか。
つまり、ここで私たちは自らの「感覚」の一種の能力の限界を考えている。その「感覚」を超えて、世界の仕組みを理解するために、一つの「モデル」を仮想的に想定することになる。
問題はこの「二重化」である。世界の仕組みを理解する上で、この二つの「からくり」が登場することの、ある意味における「奇妙さ」が、ここでは問われている。
どういうことか?
言うまでもなく、原子論は「観念」である。つまり、人間が頭で考えた、一種の「モデル」である。これが正しいか間違っているのかは分からないけど、少なくとも人間が、なんらかの推論的な仮定を経て考えついたなにかであることには変わらない。
ここで、プラトンにまで遡るなら、彼の言う「三角形」も、同じく「観念」だということになるであろう。彼はそれを「イデア」と呼んだわけであるが、いずれにせよ、人間が考えた「もの」ということでは、同じわけである。
こういった事情をふまえて、デカルトはこのプラトンの「イデア」を、もっと普通に私たちの心の中にある「観念」といったものとして、一般化した。そういった意味で、デカルトこそ、この観念論の起源だと言うことは正しい。

デカルトは、神は別として、存在するものを物体と心の二つに大きく分けます。先ほと言いましたように、物体は、私たちの身体も含めて、形や大きさだけを持つ粒子からなるものであり、心は物体とはまったく違って考えることを本質とするもので、その心の中にさまざまな観念が現れます。物体の世界と心の中はまったくその在り方が異なるとされ、まったく異なるだけに、物体の世界での出来事の原因になることはありえません。反対に、心の中の出来事が物体の世界の出来事の原因にあることもありえません。けれども、物体の世界に属する私たちの感覚器官にある仕方で刺激が与えられると、私たちは(心の中に)さまざまな感覚を持つといった具合に、物体の領域の出来事が「機会」となって他方の領域にそれに対応する出来事が生起するという仕方で両者の関係を考えようとします。物体の領域と心の領域がまったく異質なため両者の間に因果関係は成り立たないというこの考え方は、こののちもさまざまな仕方で継承されていきます。

先ほど私は原子論は、人間が頭で考えた「もの」だと言った。しかし、そういうふうに言うとするなら

  • あらゆるものは、人間が頭で考えた「もの」だ

となぜ言ってはいけないのか? 言わば、これが観念論である。つまり、逆転の発想ということになる。頭で考えない「もの」などありうるのか? というか、私たちが頭で考えた「もの」だから、私たちはそれが「ある」と言うのであって、この過程を経ることなく「ある」と言えると思う方がどうかしている、ということになるであろう。
つまり、どんな「もの」も、人間の頭で考えた「もの」でなければ、私たちはそれを「ある」と言うことができない。だとするなら、あらゆるものが「観念」だと言うことに、どんなおかしなことがあるであろうか?
いや。おかしなことはないが、そう言ってしまうことを多くの人たちは行わない。なぜなら、そう言ってしまうと、

  • そもそも

この「観念論」が最初に前提にしていた「もの」が、どうしてもごまかされてしまうから、ということなのである。なぜ「観念論」を多くの場合に、それほど真剣に人々に受け入れられないのか。よく考えてみてほしい。「観念」という言葉は、そもそも「なんの観念なのか」といった意味を、最初から含意している。つまり、これは一種のトートロジーになっているのである。

実に興味深いことに、このバークリの先回り回路に近く、しかもバークリとは違って心象論的視点に限定されていないものが、物質肯定論者であるロックの『人間知性論』に見出されます。ロックの粒子仮説的枠組みでは、デカルトの心と物体のきっぱりとした区別が踏襲され、物そのものからなる外の世界と、脳に位置する心の領域とが明確い区別されており、その区別の中で、心の中に観念が位置づけられています。ところが、そうした物(物体)と心の区別と関係とを論じる『人間知性論』第二巻第八章で、ロックは次のように述べています。

われわれの観念の本性をよりよく発見し、それらについてわかるように話すためには、それらをわれわれの心の中の観念ないし知覚としてのそれと、そうした知覚をわれわれの内に生み出す物体における物質の在り方としてのそれに区別するのがよいであろう。
(『人間知性論』第二巻第八章第七節)

ここでは、「観念」が「心の中の観念ないし知覚」と「そうした知覚をわれわれの内に生み出す物体における物質の在り方」とに分けられています。これを整合的に理解しようとすると、分けられるべき「観念」は広い意味での観念であり、「心の中の観念ないし知覚」と言われているものは狭い意味での観念であるとしなければなりません。では、広い意味での観念とはいったいなんなのでしょうか。
ロックの広い意味での観念の用法は、デカルトの観念の用法を思い起こさせます。デカルトは、意識の対象となるものをすべて「観念」と呼ぼうとしました。けれども、それと同時に、観念を、外の物体の世界とはっきり区別される心の中に位置づけました。意識の対象となるということであれば、原子や粒子に限らず、外の世界に存在すると思われているものを考えているときにも、それらは確かに意識の対象となっています。したがって、内と外の区別をしているにもかかわらず、私たちの心は常に先回りをして、すべてが観念であると認めなければならないようにしむけているかのようにも見えるのです。

バークリの観念論においては、あらゆるものは心の中の「観念」にすぎない。つまり、そ以外が認められない。では、その観念の中における、私たちが一般に物理法則のような形で、いつも、外部の風景として眺めている「因果関係」はどう説明されるかというと「神による記号間の関係」として解釈される。つまり、それはもう「因果関係」ではなく、たんなる、神が差配する「記号間の諸関係」ということになる。
しかし、このようなバークリの考えを敷衍するなら、なぜバークリは神を「観念」だと考えないのか。神だけは、特権的に「外」に想定するのか、ということになるであろう。
問題は、観念論における、どこかしら「恣意的」に受け取られざるをえない「論点先取り」的な思考作法に、意識的であれ無意識であれある、と言わざるをえないのではないか。
つまり、なにかが「先取り」して考えられている。この「先取り」感がどこまでもついて離れないわけである。
たとえば、こんなふうに考えられないだろうか。
私たちが上記のように考えるその「意識」は、どのように生まれたのだろうか、と。私たちが産まれた最初の赤ん坊にはまだ意識はない。では、それはどの段階で存在を始めた、と考えるべきなのか。それは、おそらく「言語」と関係している。赤ん坊は最初、自らのもつ「ミラーニューロン」によって、外部を

  • 真似

し続ける。すると、その再帰的な反復から、なんらかの「同一」性の感覚が生まれる。そして、ここに「言語」が再帰的に対応付けが、日常的な「音」と、その自らの「反復」する「発話」から反射的に行われるようになるところから、「意識」が始まる。
意識は、なんらかの「同一」性である。それは、言語に関係している。つまり、ある日常的な感覚や、行為を、なんらかの「同一」性において整理していく過程において、意識される。
つまり、大事なポイントは、どうやってその人間の「観念マシーン」が誕生したのか、なのである。ある意味において、この「観念マシーン」が誕生した後は、それを

  • 観念論

と呼ぶことには、それほどの違和感はない。しかし、その観念マシーンが作成されるためには、どうしても、私たちは「外」との再帰的な相互作用を必要とした。
つまり、観念論は<自ら>の「起源」を忘れている、ということになるであろう。しかし、どうして観念論「自体」にそれを意識できるであろうか。なぜなら、それは自らが生まれた「原因」に関係しているのだから...。

観念論の教室 (ちくま新書)

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