柳実冬貴『対魔導学園35試験小隊2』

ときどき思うのだが、戦争が「終わる」とは、どういうことであろう? こんなことを言うと、頭がおかしいんじゃないか、と思われるかもしれない。戦争が終わるとは、文字通り、戦争が終わるということで、平和になるということでなんの不思議もないじゃないか、と。
しかし、そういうことではないのである。
そもそも、戦争を行っていたということは、なんらかの意味で「憎み合っていた」ということだと思われる。憎み合っていたから、殺し合っていたわけで、それが「終わる」とは? その憎しみは、なくなった、ということなのでしょうか。だとするなら、なぜなくなったのでしょうか。
安倍首相の70年談話では、「中国の皆さん、韓国の皆さん。恩讐の彼方にしてくれて<ありがとう>」という内容でした。私は、強烈な違和感を覚えましたが、それは「恩讐の彼方」という、とても

  • 日本的

な概念を、中国や韓国の方々にも、敷衍していることへの違和感でした。
憎しみとは無くなるものなのでしょうか? 私にはよく分からないのです。私がここで分からないと言っているのは、この憎しみが「生ま」れたり、「無く」なったりを繰り返すとするなら、その理由(=原因)だと言えるかもしれません。
なぜ、ある感情は生まれたり消えたりするのでしょうか? なぜ、感情は変わるのでしょうか? 憎かったものが、憎くなくなるものなのでしょうか。だとしたら、それはなぜでしょうか?
普通に考えると、その遷移は一般的ではない。戦争が終わっても私たち大衆の「憎しみ」は変わらない。親戚を殺され、多くの同胞を失い、どうして冷静でいられようか。人を殺すということは、殺された側から、強い「嫌悪」の感情を受けることを「覚悟」するということです。殺される側が、「憎しみを感じない」などということがあるでしょうか。もっと言えば、戦争とはこの「憎しみ」をいかにして増大させるかを競っているとも言えるでしょう。つまり、殺す側は別に「許してほしい」などと思っていないわけです。殺すのは自らの憎しみという「衝動」がさせているのであって、逆に言えば、この憎しみの感情もなしに、相手を殺したいとは普通には思えない。つまり、自然ではないわけです。
ここで私が考えたかったのは、戦争というより、「終戦」についてでした。終戦とはなんなのでしょうか? 掲題のラノベにおいて、その「戦争」とは、「魔女狩り戦争」というものでした。
国家が、魔女や魔法使い、魔導遺産の「脅威」を管理することを目的として異端審問会という組織を作ったことに反旗を翻した、魔力を有する人間たちとの、

を経て、人間は彼ら反旗を翻した魔力を有する人間たちに勝利をするわけだが、この過程において、多くの人間の命が失われる。このラノベは、その後の世界、戦争が「終わった」後の世界を描いている。
主人公の草薙タケルが通う学校は、この異端審問官を養成する学校であるわけだが、ここになぜか「魔女」が、特待生として転入してくることになる。それが、

  • 二階堂マリ

である。

「鳳だよ。あいつ、魔導に関わることに遭遇するとすぐに頭に血が上っちまうんだ」
「......あんなの、気にしていない」
「あいつにもいろいろあるんだ。悪い奴じゃないから、許してやってくれ」
タケルが桜花に代わって謝罪すると、マリは訝しげな顔をした。
「あんた何謝ってんの? バカじゃないの?」
「バカってお前......そうもはっきり言われると、本当にバカでも、結構傷つくぞ」
「あたしは魔女だよ? あんた達の敵。あの女の反応が普通でしょうが」
「......? 魔女だからといって敵とは限らないだろう。だいたい、二階堂は異端審問官になるために学園にきたんだから、そうなったらもう俺らの身内じゃないか」
身内と言われて、はあ? という顔をする。
「あんたほんとに異端審問官? 疑うのがあんたらの仕事でしょーが」
「まだ学生なんだが......」
「簡単に人を信じてんじゃないわよ......バカじゃないの」

彼女は自分が入学した学園で、自分が嫌われていることを自覚している。それどころか、自分が「差別」されることには理由があると思っている。例えば、イスラエル国家の高校に、パレスチナスンナ派イスラーム教徒の高校生が入学してきた場合を考えてみるといい。もちろん、イスラエルパレスチナで行っている蛮行は、いまさら言うまでもないが、この高校の中には、パレスチナレジスタンスによる、ロケット弾によって、家族を失った人もいるかもしれない。そういった「憎しみ」は、ある意味において、二階堂マリは

  • 当然

だと言うのである。むしろ、こんな自分を信用しようとする奴の方こそ「おかしい」。これは上記の文脈で言うなら、戦争中において、あれほど

  • 憎み合った

のに、今、その「憎しみ」を表に出さない人間の方が「人間的ではない」「自然ではない」と彼女は言うのだ。
戦争が終わるとは何か? 戦争が終わると、まず、人間は

  • 平等

になる。一瞬前では、「敵」であって、見かけるやいなや「殺さ<なければならない>」相手であったにもかかわらず、ひとたび終戦いなるや、この関係は

によって、整序される。敵は「敵ではない」のである。敵はたんに「人権をもった人格」に過ぎない。敵だからといって、相手が「犯罪」を侵していない限り、暴力をふるうことはできない。というか、たとえ敵が「犯罪」を行ったとしても、

  • 逮捕して警察に突き出す

ことしかできない。つまり、

  • 殺してはならない

のだ。これが「終戦」である。魔女はすでに、魔女狩り戦争が終わった後においては、人間社会の「管理下」にある、同じ「人権をもった存在」に過ぎない。まれに、「レジスタンス」として、反抗してくる、地下組織の「残党」に対して、一部のトラブルが残っているに過ぎなく、そういったものは言ってみれば、ヤクザのような連中であるにすぎない。
そもそも、「魔女」すべてが人間と戦争をしたのではない。一部の「徹底抗戦」を主張した、異端審問会に反旗を翻した「過激派」こそが、問題だったのであって、必ずしも魔法の全てが否定されるべきなのかは、それほど自明ではない。

「あんたまだ笑ってんの? しまいには殴るわよ?」
「ご、ごめん......そうじゃなくて、やっぱ魔女も普通の人間だよなあって、改めて思っただけだ」
マリはあまりに屈託なくタケルが笑うものだから、怒る気にもなれずそっぽを向いた。
「綺麗事言ってんじゃないわよ。あんただって、魔女が嫌いだから異端審問官になるんでしょ」
「誰もそんなくだらない理由でなろうとは思ってないが......お前はどうなんだよ?」
「何が?」
「二階堂こそ、どうして異端審問官になりたいんだ? 魔女でなりたいと思う人はそうそういないと思うし、その辺り、ちょっと気になるな」
言われて、マリは顔に困惑を露わにした。
やべ......とでも言いたげに。
マリはしばし目を閉じて思考し、汗を浮かべながらも、人差し指を立てた。
「あ、あたしは.....魔法が全部が全部危険と見なされている世界の価値観を、変えたい......? そう、そうよ、あたしは魔法でたくさんの人を救えるってことを証明したいの! だから、ここに来たのよ!」
うんうんと何度も頷いて、マリは志望動機を語る。
「確かにあの女が言うとおり、魔法は害悪になるものが多いけど、それと同じくらいに人の役に立つものも多いのっ」
言って、マリはタケルに向かって身を乗り出した。
「知ってる? 現代医療では治せない病気も、魔法なら治せるものも多いんだよっ。もちろん逆もあるけど、その恩恵を利用しないなんて馬鹿みたいじゃない? 魔法で救える人がいるのに、使っちゃいけなくて見殺しにしろなんておかしな話でしょっ?」
「お? お、おうっ、そりゃ、そうだな」
「それとね、あとね、催眠療法とか精神干渉魔法はめちゃくちゃ嫌われてるけど、心のケアとか不眠症を解消させたり、時間をかけて脳の疾患を治療することもできちゃうんだからっ。すごいでしょ?」
「それはすごいな」
「でしょ!? それからね、それからね----」
マリは魔法の有用性について、無邪気に話す。
タケルはその迫力に圧倒されっぱなしだったが、引いたりはしなかった。むしろこれだけ魔法を好いているマリのことが、少しだけ可愛く見えた。
マリは熱の籠もった語りを続け、仕舞いには立ち上がって拳を握っていた。
「魔法の有用性を危険と判断して抑制している現状には、納得がいかないわ! いずれは必ず証明してみせる! そのためには、悪い魔女や魔法使いは裁かなきゃならない! 魔女である私がそれを行うことに意味があると思うの! 私が異端審問官になって、正しいことを行えば、そうすれば......そうすれば魔法が......全部が悪いわけじゃないってことを......みんなに......」
熱く語っていたマリだったが、次第に自分が空回りしていたことに気づいた。
気まずそうにベンチに腰を下ろし、そっぽを向く。
マリ自身、魔法に対する愛情がこれほどとはと驚いているようだった。
どうせ馬鹿にされるか、気持ち悪がられるに決まっている......そう思っていると。
タケルが、ふと柔らかい笑みを浮かべた。
「そいつは、素敵だな」
マリが顔を上げ、怪訝そうにする。
「難しいことはわかんねぇけど、お前の志望動機はよくわかったよ。素敵だと思う」
「素敵って......何が、よ」
「素敵じゃねえか。魔法の悪いイメージを変えたいんだろ? 魔法で人が救えるってことが証明できて、それを受け入れられる世界になったら......そりゃあきっと、いいこと以外のなんでもねぇさ」
マリは首を傾げて、出会ったこともない生き物を見るような視線を向ける。
「......あんたって......変よ」
「バカの次は変かよ......」
「魔法とか魔女に偏見無いわけ?」
「無いわけじゃねえよ。でも全部が全部悪いってわけでもないんじゃねーか? 魔女だって、悪人ばっかりじゃねぇのは、証明されてるし。だから倫理委員会みたいな組織が出来上がったわけだしな」
「......」
「......な、なんだよ」
「......やっぱ変」
本当に不思議そうに、呟く。

例えば、私は「ネトウヨ」という言葉は、使うべきではない、と思っている。私たちは「ちゃんと」彼らが言おうとしていることを聞くべきだ。彼らは、正確な意味で

  • 右翼

ではない。彼らが主張しているのは、「反ユダヤ主義」と同様の意味において

  • 反<中国・韓国>主義

と言うのが正確だと思っている。彼らの「愛国」は、「反中国」「反韓国」「反北朝鮮」の表裏の関係になっている。つまり、彼らは広い意味での

と戦っている、という意識がある。だとするなら、そういった彼らを「ネトウヨ」と呼ぶことは、彼らの実相を正確に言い当てていることにはならない。
例えば、「憎しみ」という言葉は、

  • 形容詞

である。形容詞というのは、不思議な言葉で、ようするに「定義がない」わけである。例えば、こういった概念に対応するものは、数学においては

  • 順序構造

と呼ばれる。順序構造の特徴は何かと言うと、

  • 双対性

にある。つまり、それを「逆」にしても、まったく構造が変わらない、ということである。
心理学者のフロイトに「否定」という論文があるが、肯定と否定はその「無意識」において、同型だ、ということを言っている。嫌いだと言うことと、「好き」は、むしろ

  • 容易に反転する

わけである。なぜなら、お互いとも、それが「重要」だと考えていることには変わらないからである。桜花とマリがケンカをするのも、お互いがそこに「譲れない」何かがあるからであるが、それは逆に言えば、お互いにとってお互いは「大事」だということになる。
こういった問題は、どこか大江健三郎ノーベル賞講演を思い出させる。「好き」と「嫌い」は、言わば

  • 二元論

である。つまりこれは「アンビバレント」なのだ。それに対して、大江は「アンビギュラス」を対置する。彼は言わば、こういった二項対立では捉えられない、微妙な差異をそう呼んだわけである。「ネトウヨ」にしても、なぜ彼らはそう考えるようになったのか、その一人一人の具体的な「いきさつ」を考慮しない雑な議論は、<アンビバレント>な態度だと言わざるをえない。逆に、「ネトウヨ」にしてみても、彼らがもしも、自分の家族を彼らが

と呼ぶ「中国人」や「韓国人」が病気を治してくれたらどう思うだろうか。私たちに求められているのは、むしろこういった「細かな」差異について、だと言えるのかもしれない...。
(ちなみに、掲題のアニメの第3話は、完成度において、近年まれにみる「傑作」であるw ほとんど、原作通りであるがw)