姉と妹

ガルパンの主人公の西住みほは、ドジッ娘属性もそうだが、むしろ「引っ込み思案」であることが、この作品の構造を決定している。彼女の「引っ込み思案」属性には、ある

  • 構造

が示唆されている。それは姉である、西住まほの存在である。
このように考えてみると、この作品は、どこか漫画「咲-Saki-」を思わせるものがある。主人公の宮永咲ドジッ娘属性で、「引っ込み思案」なわけだが、同じように、宮永照という姉がいる。
西住みほと宮永咲の特徴は、むしろその「無特徴」性にある、と言った方が正しいのかもしれない。この二人は言わば、まったく「個性」がない。というか、この二人にとって、自分が何者かであることに「関心」がない。
つまり、一般的な意味において、この二人には「欲」のようなものが、感じられない。
しかし、それは無いわけではない。ないのではなく、普通、私たちが考えるような方向ではない方に向かって、なにかの「欲望」を秘めている。
それが「姉」である。
西住みほと宮永咲は、一般的な意味における「欲」が一見ないように見えるが、それは彼女たちが「それ以上」のなにか別のものへの「関心」を強く秘めているところに、その理由がある。
西住みほは、実家が西住流戦車道の本家ということで、ここには「母&姉 vs 妹」の対立がある。妹は言わば「落ちこぼれ」である。妹は、母&姉の「評価」を得られなかったことを理由として、家元を離れて、姉とは別の学校に入学することになる。
宮永咲の場合は、どうも親同士が離婚をしているようで、咲は父親との「父子家庭」であり長野に引っ越してくるわけだが、照が母親との「母子家庭」となり、東京で暮らしているようで、ここにも「母&姉 vs 妹」の対立がある。
そうやって考えてみると、宮永咲の「母親」の描写というのは、今まであっただろうか?
西住みほと宮永咲には、どこか強烈な「母&姉」への意識がある。ある意味において、二人は

  • ずっと

「母&姉」のことを考えている。この関係を非常にシンプルに表現をするなら、「認められたい」ということになるのであろうが、じゃあ、実際にどうなったら「認められる」という関係になるのであろうか?
西住みほは、家元での「西住流」の戦車道を「楽しい」と思ったことがない、と言う。そういう意味においては、彼女は、「母&姉」との、なんらかの「対立」を秘めている。彼女の戦術は、言わば、「無手勝流」であり、そういう意味で、姉のまほは、妹のみほの戦い方は「西住流」とはまた違う、と言う。しかし、この場合に「違う」という意味は、妹のみほが、いわゆる「部活動」という「自治」的な雰囲気の中での「自由」な環境で育んだ、一つの「なにをやってもいい」フリーダムな、雰囲気がもたらしたものだと考えられる。
宮永咲が麻雀の全国大会を勝ち上がることのモチベーションには、姉の照に認めさせることが含意されている。彼女の態度は、言わば、決勝で同じ卓を囲むことになれば、いやでも、姉に妹と向き合わなければならなくなるから、といった、かなり「強引」な意志がある。
私が言いたかったのは、この「確執」をどのように考えたらいいのか、についてなのである。
なぜ、妹にとって「姉」は、ここまでの意味において「特別」なのであろうか。なぜそこまで、妹は「姉」と対決しようとするのか。言わば、妹は自らの「個性」など

  • どうでもいい

という境地に至るまでに、自らの「実存」を賭けて、姉と「対決」をしようとする。私たちは、これをどう考えればいいのだろうか...。