藤井聡『ブラック・デモクラシー』

今回の大阪府長、大阪市長の選挙は、「おおさか維新」の勝利となった。これによって、どうも、大阪は「大阪都構想」の再挑戦とのことで、また、住民投票を目指す、ということらしい。
しかし、私にとって関心のあることは、そこではない。
というか、私には、このことは非常に興味深いと言ってもいい。それはむしろ、「橋下市長」がどうのこうのではなく、「橋下市長」の回りに「群がる」、知識人たちの、興味深い

  • 生態

について、だと言えるであろう。さっそうと「橋下市長」が、政治の舞台に登場してから、大阪維新の会といった、地域政党を立ち上げ、国政を目指した頃から、彼の回りには、多くの「知識人」たちが、将来的な、

  • 国政の政策グループ

として、集まってきた。言わゆる「御用」知識人である。彼らは明確に、「橋下市長」を「神輿(みこし)」として、国政になんらかの影響力を及ぼすことを考えていた。
このことは、別に、「橋下市長」の政界「引退」によって、消滅したのではない。むしろ、この動きは今も、隠微に続いている、と言っていいであろう。
なぜ、そう言えるのか?

今回見て見ぬふりをしたのは、報道の自由の担い手であるメディア関係者だったからだ。彼らは砂場で遊ぶ子供などではない。彼らは、報道の自由を「死守」し、自由な報道を公衆に届け続けねばならぬ使命を帯びた存在だ。にも関わらず、テレビ、新聞のメディア関係者は皆、橋下維新の言論弾圧に「屈した」のである。

このように言った場合、そういった「知識人」たちが、「橋下市長」の主張する「政策」に、反対だったからではない。むしろ、彼らは「橋下市長」が主張する

を、「国民の大衆的支持」をもちながら、推進できる、彼の「強力な政策推進能力」において、「橋下市長」の「能力」を

  • 評価

したわけである。彼らは隠微に「新自由主義(=金持ち減税&貧乏人増税)」を強力に推進しながら、

を両立させる、彼の「能力」を高く評価したわけである。
こういった連中が考えていたことはなんだったのか? それは「新自由主義(=金持ち減税&貧乏人増税)」を強力に、中央官僚と一緒になって、推進していく、その「能力」であった。
「橋下市長」なら、貧乏人により貧乏になることを認めさせられるのではないか? 「橋下市長」なら、金持ちが今以上に減税することを貧乏人に求めさせられるのではないか? その「ポピュリズム的人気」に、彼ら「ブルジョア知識人」は色めきたった。
しかし、おもしろいのは、そのことにあるのではない。
そうではなく、そういった「橋下市長」の回りに、腰巾着のように、まとわりついて、彼をいろいろと利用しようとする「ブルジョア知識人」たちが、この本に書かれているような、彼の

について「まったく触れない」というところにある。
つまり、ここが「興味深い」わけであるw
いやあ。掲題の本は非常に、興味深い。つまり、この本を「どこまで」、そういった「知識人」たちが無視するのか、がである。
よく考えてほしい。言論弾圧は、私たち国民にとっての最後の防波堤である。これを破られたときが死ぬときだと言ってもいい。それを、「橋下市長」をボスとする維新の会は、徹底して、掲題の本の著者の藤井氏にしかけた。
この事実から逃げるなよw
この事実に向き合うことなしに、言論人など語れるわけがない。私はこの「一点」において、今後も「橋下市長」ではなく、彼の回りに群がる、腰巾着「ブルジョア知識人」の「世渡り作法」を興味深く観察させてもらおうではないかw