逆算の政治学

安倍総理の今の目標は、消費税増税と、TPP成立と、憲法改正だと言えるであろう。
ということは、今年には間違いなく、参議院選挙があり、できれば、衆参同時選挙をやりたいと思っているわけだから、合わせて「大勝」できなければ、安倍総理が考える憲法改正は行えない。
しかし、彼にしてみれば、憲法改正のために、リフレ政策にコミットメントしてきたのだから、今の、景気後退局面のまま、選挙に突入するわけにはいかない、ということになるであろう。
そこで、安倍政権は何を行ってくるか。
おそらく、一つの特徴として、選挙が開始したとき、野党が攻撃のネタとしようと思っていることを、次々とさせない、ということになるであろう。
その一つが、在特会問題である。

【しばき隊完全勝利】ヘイト動画削除要請を無視し続けてきたニコニコ動画が法務省に怒られあっさり削除w

在特会のデモは、もしも「一般」の人が、この内容を知れば知るほど、かなり「ヤバい」ものであることが、どんどんと広がっていくであろう。しかも、自民党の党の役職についていた、かなりの大物が、そもそも、在特会と「懇意」であったことが、分かっている。
もしかしたら、この在特会問題こそが、今回の選挙の帰趨を決するのかもしれない。
自民党選挙対策は、CIAの手先であった戦後からずっと、「工作員」戦術であった。まず、国民のアンケートをとり、なにが、自民党の人気にとって、クリティカルであるのかを調査する。そして、徹底して、このアンケート結果で、問題となった部分を集中して、対策する。
自民党にとって、この「アンケート」で、国民の反応の鈍い部分は、言わば、「どうでもいい」わけである。自民党が行わなければならないのは、国民がアンケートで敏感に反応した部分である。つまり、ここさえ、うまく「パッチ」すれば選挙に勝てる。国民など「ちょろい」わけである。
しかし、上記のリンクであるが、ニコニコ動画は、法務省の言いなりだったわけか。これ。今後の日本のサブカルチャーにおいて、大きな禍根を残したのではないだろうか。あまりにも、ニコニコ動画の対応が悪すぎる。
あのさ。
在特会の問題というのは、非常に重大な問題なわけでしょう。これ。ハンパな考えでいたら、大変なことになってしまうわけでしょう。日本のこれからのことを考えたら、本気で、取り組まなければいけない、最も重要な課題だったんじゃないか。
それを、ニコニコ動画は、「お金儲け」に利用した。いや。利用しただけでなく、「言い訳」まで、してたわけでしょう。つまり、在特会に一定の「正当性」を、与えていた(実際に、それで、ニコニコ動画は、「お金儲け」までした)。
それが、法務省がちょっと口を出してきたら、あっさり削除ですか。今まで、多くのニコニコ動画に対して、「抗議」をしていた人たちに対して、あまりに失礼なんじゃないですかね。そういった人たちのことを、あたかも「クレーマー」のように、侮辱しておいて、法務省が言ったら、あっさり、てのひら返しですか。
だったら、もう今後は、主義主張なんてやめて、すべて「お金儲け」です、って言ってもらうしかないんじゃないですかね。どうせ、また、てのひら返しをするんですから。
なんというか、同じようなことを、原発推進派に対しても、ときどき感じるんですよね。本気で、原発は推進すべき、と思っているんですかね。そういった信念を深く心に刻んでいるんだったら、そういった覚悟でやってほしいんですよね。
でも、違うんでしょ。
政府が、やっぱり、原発から撤退する、とか、福島の被災者に手厚いサポートをする、という方針を決めたら、やっぱり、てのひら返しをするんでしょ。政府の考えに「はむかって」でも、自分の信念を貫く、というわけでもなんでもないわけでしょ。
そもそもそんな、「主張なし」なのだったら、最初から、自分には主張なんていうものはないんです、と首にでも、掲げておいてもらえませんですかねw お金儲けがしたいだけですって。
前回、ロバート・ブランダムの『推論主義序説』について、少し考えたわけが、彼の主張を見ていると、なんと言いますかね。90年代といいますか、世紀末ですよね。あの頃、宮台真司さんなんかが

  • 成熟社会

とか言いまして、ようするに、そこでどんな議論がされていたのかを、もう一度、考え直す必要があるんじゃないのか、と思わせられるわけです。
成熟社会というのは、ようするに、「複雑化した現代」においては、もう、共通の規範だとか、共通のルールだとかに頼ることができない、つまり、「啓蒙」が通用しない時代になった、といった含意があった。
宮台さんの文脈としては、学校社会における「島宇宙」と呼んでいた、小さなグループ化による、それぞれのグループごとの「共通感覚」が成立しない、細分化した「趣味」によって、もはや、学校のクラスの単位ですら、「共通の認識基盤」を前提に考えることが不可能な時代が来ていて、それを「成熟」と呼んでいたわけである。
これに対して、これをさらに一歩前に進めるような認識を示していたのが、東浩紀さんで、彼の主張は、むしろ逆に、世界は一つの「フラット」な様相を示し始めている、ということになる。世界中のどこに行っても、スーパーマーケットに置いてあるものは、基本的に、どこも同じであり、いずれは、みんな同じ言葉を話すようになり、同じようなものを食べ、同じようなことを会話し、地域差はなくなっていく。
どういうことかというと、宮台さんの言う「成熟社会」を進める結果として、世界の人口の流動化を結果する。一つのクラスに、多くの外国人がいて(もちろん、日本で言えば、地方出身者が大勢いて)、まさに、それぞれが「島宇宙」を形成する。
そういった状況において、東浩紀さんは、反語的になるけど、宮台さんの言う「成熟社会」は、日本の

  • 東京化(=都会化=東京という「グローバルスタンダード化」)

を構想したわけでしょう。つまり、地方は、言わば、その地域の人たちが「特権的」であるという意味で、「逆都会差別」の構造になっている。日本中の人を「平等」に扱うためには、逆説的ではあるが、「全てを東京化する」しかない。世界中が東京だったら、みんな「平等」なんだから、フェアだ、と。
そういった意味において、地方は「ノイズ」となる。地方について考えることは、逆に、地方を特権化、貴族化することになるのだから、あらゆる意味で、

  • 東京が世界基準

に「ならなければならない」というわけである。まず、方言は「東京語でない」という意味で、フラット社会においては排除される。むしろ、方言を話しているという時点で、「差別的」というわけである。東京語を話さないという態度自体が、「世界平等」に抵抗しようという邪な心もち、ということで、忌避される。
そして、彼らが共通して注目していたのが、ニコラス・ルーマンの言う「複雑性の縮減」という言葉であった。
しかし、ルーマンにとって、「複雑性の縮減」は、むしろ、なぜ人間社会は、基本的に「複雑性の縮減」に成功するのか、という点に関心があったわけで、彼の場合それは、いわゆる

  • 信頼

といったものが、それぞれのコミュニティにおいて「成立している」から、といった含意が最初からあったわけであろう。
ところが、宮台さんにしても、東さんにしても、むしろ、彼らの主眼は、世紀末において、この「社会の複雑化」が、極大化していく。どこまでも、状況が悪化している、という含意があった。
つまり、それは「世紀末」を前にして、もはや、人間の手に負えない、と言いたかった。
東さんの『動物化するポストモダン』における処方箋は、もはや、人間を人間として扱うのは不可能だ、といった認識があった。つまり、「感覚」「欲望」のデータベース的情報に細分化された、「動物」として、人間を

  • 管理

することを、東さんは一種のユートピアとして提示した。そして、この延長に、一般意志2.0もあるわけで、両方に言えることは、もはや、人間は「動物」であり、基本的に「国家によって管理される」なにかでしかありえない、という認識があった。
しかし、である。
上記のように、宮台さんによる世紀末を契機とした、ハルマゲドン的未来構想であり、それをさらに拡張した、東さんによる「管理社会論」は、ルーマンの言う「複雑化の縮減」を、

  • 「感覚」「感情」というデータベース情報化

の方向に、「可能性」を見出す、という構造をしている。つまり、心理学還元主義であり、精神分析主義と言ってもいい。つまり、人間をもう一度、「動物」として、国家によって管理される存在として、人間を定義しよう、という、より強力な

  • 国家

こそが「主体」として、あらわれるような方向の人間のディストピア的未来像を提示するしか、他に見出せない、といった形態になっている。
しかし、である。
確かに、ルーマンの「複雑性の縮減」の含意には、現代社会が非常に複雑化していて、今までの原始的かつ素朴なアプローチでは、現代のシステムを管理できない、という含意はあった。しかし、基本的にルーマンの、この問題へのアプローチが「信頼」という言葉に関連していたように、ここにおいて、ロバート・ブランダムの『推論主義序説』が強調するように、むしろ、

における、「言語ゲーム」性が強調されてくるわけである。そういった意味では、ここは「概念」的であり、「推論」的であり、むしろ、こういった方向においてこそ、比較的、少ない情報量で、「言語ゲーム」が成立している状況が、説明される。
ブランダムの考える「言語ゲーム」は、そもそも、各共同体の「まったり」した、ハイコンテクストを前提としない、非常に表面的な「推論」を前提にしているため、驚くほど、コミュニケーションコストがかからない。そこには、逆説的だが、むしろ「感覚」「感情」は、背景に隠れ、前景化してこない。
そういった意味において、こういった情報の「陳腐化」には、どこか、カント主義から、ヘーゲル主義への移行のような様相が見られるようにも思われる。カントのような、時間・空間の感覚形式による、

  • 基礎付け的様相

から、一切の心理学的基礎付けを拒否し、あらゆる基礎付けを拒否し、すべての「何か」に<先行>する「概念」の存在の自明化において、一切を「言語ゲーム」の範疇に囲い込む、この戦略は、一見すると「ルーマン的な社会の複雑化」に対して、無力であるように見えるかもしれないが、むしろそこに、ブランダム的な「推論=ルール」による、

  • 情報の「基礎付け」主義の<拒否>

によって、圧倒的に「情報量の削減」に成功する、という逆説が起きている、と考えられるわけで、今考えると、圧倒的にこちらの方が見通しがいいように思われるわけであるが、どうであろうか?
このことを、ルーマンのように「信頼」という一つの言葉で言ってしまうことは簡単であるが、社会の複雑化によって、そもそも社会が「信頼できない」なら、そもそも、推論は成立しない。しかし、宮台さんが最初に考えた「島宇宙」的な学校のクラスの様相は、確かにハイコンテクスト性をもたないかもしれないが、ブランダムの推論ゲームは、そういった薄い「言語ゲーム」においても成立しうる、非常に単純な骨組みになっているわけで、というか、いわゆる「心理学」的な共感すら必要としていない。この言語ゲームを続けられるような、それくらいの「弱いつながり」、つまり、

さえあれば、基本的には、ある種の「啓蒙」は期待できると解釈できるわけだから、私にはずっと、こちらの方が見通しがいいように思うのだが...。