大庭健『民を殺す国・日本』

そもそも、3・11以降、原発問題に関して問題提起をする論客は、増えてきた。しかし、その問題提起の姿勢には、必ずしも原発即時廃止の立場から行われているわけではない「曖昧さ」が見受けられる。もちろん、それについては人それぞれなのだろうが、どこか、WW2に突入していった頃の、

  • 御用学者

に似ているわけである。まさに「時代の空気」を読んで、その時代の空気に合った「発言」を行う。それが「哲学者」の役割だ、というわけであるw
だいたい、そういった連中の会話の方法は決まっていて、一種の「二元論」を使う。一方に、「左翼の極端」を置き、他方に、「右翼の極端」を置き、俺は両方を拒否するぜ(キリッ というわけである。やれやれ、である。
私たちは、こういった「相対主義」に弱い。というのは、そもそもの問題は、全体像を提示することであるのに、

  • 二つの極端

を提示されることは、まるでなにかの「選択」を迫られているかのような、強迫観念に襲われるからだ。
原発を再稼動するのは「しょうがない」が、原発の「新増設」は認められない、と。しかし、再稼動がしょうがないと言っておきながら、どういった理屈によって新増設を止められるというのか。ということは、どういうことか。新増設が決定するのは「将来」の問題である。その時代のことは、その時代の人間が決めるだろう。つまり、再稼動を認めていることの時点において、そいつの言う脱原発は嘘なのだ。つまり言っていることの本質は

  • 今は廃止しない

というだけなのであって、その態度はむしろ、原発関係者にとって「ありがたい」わけである。なぜなら、そうすることによって、原発事業の継続が決定するのだから。むしろ、大事なことは、私たちは

  • こういった連中と関わってはいけない

ということなのだ。こういった連中から、デタッチメントであることが求められている。こういった「非倫理的」存在に注意して生きなければならない、というなのことである。
私はここで、こういった連中のことを「非本質主義者」と呼んでおくことにしよう。つまり、一種の「保守主義者」である。ブルジョア哲学者と言ってもいい。
(思い出してほしい。ポストモダンとは「相対主義」のことである。つまり、右とも左とも言わない、ということである。しかし、もしもそういう意味で言うなら、それは右なのだ。なぜなら、右とは基本的な「現状肯定」であるから。原発が今あるということは、それは国家が「原発があるべきだ」という意志を表明していることなのだから、原発はなくしてはいけない、と。それは、国家の意志に反する。国家に従順であることが、保守主義の意味だとするなら、国家が原発を維持しようとしている限り、その意志に反しない、と。まさに、これこそ<一般意志=権力者の意志>。権力者の言うことには逆らわない。そして、権力者と一緒に権力者に反逆しようとしている賊軍を滅ぼす。敵と味方。そしてそれを「前提」とした上で、「お金儲け」。なぜ「お金儲け」が成功するのかは、基本的に権力に逆らわないから、である。権力の意のままに動くから、権力から「おめこぼし」をあずかることで、「お金儲け」ができる。そもそも、そんな連中と、福島の人の生活になんの関係もないわけであるw)
彼らの特徴は絶対に何かを、根底から考えない、ということである。つまり、彼らはそういった態度に興味がない。彼らが常に考えているのは、

  • どうやって自分の「放言」を他人に売るか?

である。つまり、お金儲けである。自分のあるタイミングでの発言を、もしも「自民党」が高く買ってくれるなら、そちらに都合のいいことを言うし、「民主党」が高く買ってくれるなら、そちらに都合のいいことを言う。
そもそも「フクシマ」や「フクイチ」は、彼らにとって

  • お金儲けの道具

にすぎない。福島県の人が困れば困るほど、彼らの「悲劇」が悲惨であればあるほど、彼らが「作る」物語は高く売れる。お涙頂戴、というわけであるw 彼らにとって「大事」なことは、絶対に原発廃止の可否を議論しない、ということなのである。原発は今すぐ廃止すべきか。原発の再稼動をやらないべきか。それに結論をだしてはいけない。なぜなら、そうした時点で、

  • どちらの勢力からもお金をむしりとれない

から。彼らの目的は「お金儲け」である。原発をネタにどうやってお金儲けをするかなのであって、そうやって「大金持ち」になれたら「嬉しい」というわけであるw ふざけるな、と思いませんか。「お金持ち」になったら、福島に寄付でしょ。だって、フクシマをネタに世界中から金をむしりとったんだから。
嘘つき。私たちは一般に「嘘つき」を「嘘を言った人」という意味で使うが、こういった詐欺師やチンピラの特徴は絶対に自分からは「嘘」と問い詰められることを言わない。言わないが、実質的に、それに近いことをする。例えば、もしも原発に関心があるなら、原発の情報を集めて、その全体から、一つのヴィジョンを示せばいい。しかし、そういうことはしない。なぜなら、そうすれば、原発の「瑕疵」に気付いてしまうからだ。気付いたら、それを追求していかなければならなくなる。
ポストモダン相対主義は、徹底して「保守主義」を目指す。つまり、なにか決定的になることを絶対に言わないのだ。なぜなら、それを言った時点で、原発を廃止すべきだ、とか、そうでないとか、絶対の立場で言わなければならなくなるから。彼らはそうなることを避けるために、「できるだけ原発について<いつまでも>話している」ことを目的としている。そうすれば、そうやって話したことが、商品として売れるからだ。)
彼らの目的は「原発でお金儲けをする」ことである。それは、右側からでも左側からでもどちらでもいいのだが、大事なことは、

  • なにが本質なのか

に絶対に到達させない、ことが目的なのである。そうやって結論がでた時点で、原発で儲けることはもうできなくなるからだ。
この状況はWW2を「礼賛」した「哲学者」たちに似ている。アメリカへの宣戦布告。先制攻撃を「礼賛」した「哲学者」はそれを

  • 時代の雰囲気

と言った。今は「そういう時代」なんだ、と。この「哲学者」の「自明性」が、日本の進路を狂わせる。彼らには今、どうしても、原発を即時廃止しなければならない理由が思い付かない。それはまさに

  • 自明性

なのだ。自分にはそう思えない。そんな理由があるようには思えない。つまり、再稼動は「しょうがない」。それはもう理屈じゃないわけだ。自分がそう思うからそう。
しかし、もしもそう言えば、そう言った人間は、同じエリートとして、東電や原発関連企業で働いている「今は出世している」大学の同期などからは「感謝」されるわけであろう。
ようするに「人付き合い」とはこういうことなのだ。それは、人間がこの資本主義社会で、お金儲けをして生きていくということの意味なのかもしれない。
大事なことは、なにかそこには「本質」があるのに、絶対にそこに目を向けようとしない「作法」だと言ってもいい。
本当は「そこ」に答えがあるのにもかかわらず、それにふれない、ぜったいに、そこに議論を向けようとしない。
もしかしたら、その言論には、大量の「自民党あたり」からのお金が流れ込んでいるのかもしれない(まさに、ヤクザからもらうドラッグである)。
一番、お金が儲かる方法。それは、3・11以前の東電が、日本中にお金をばらまいていた方法だと言えるであろう。一種の「文化事業」として、さまざまな「主体」にお金をばらまく。そうすると、そういった「主体」は脛に傷をもつ存在として、東電批判をできなくなる。しかし、その代わりとして、東電が提供するお金は

  • 膨大

である。お金持ちになるのなど「ちょろい」わけであるw こうやって東電に「魂を売った」連中は、それ以降、さまざまな場面で、

  • 東電の「ため」に、福島県民の<利益を損なう>ことを言う

ようになる。彼らにとって、それは「倫理」の問題ではなく、「商売」の問題なのだ。
なにか似ていないだろうか?
そうである。戦後以降の日本において、続けられた「赤狩りプロパガンダ」である。とにかく、左翼、中国共産党

  • 悪魔

呼ばわりをして、必死になって、彼らに政権を握られたら、この国の「自由」は終わる、と宣伝する。その「恐怖」を「煽る」。ところが、そういった連中が今、アメリカで、どういったことを言っているか? 99%の貧乏人と1%のお金持ち。彼らは、言わば、カール・シュミットが言った意味での友敵理論を

  • 1%のお金持ち=味方
  • 99%の貧乏人=敵

と「解釈」することで、自分が「1%のお金持ちの<味方>」であることを公言することで、この「1%」からお金を恵んでもらうことをもくろんでいる(まさに、ブルジョア知識人w)。こういった連中に「魂を売る」ことによって、お金持ちの「仲間入り」することを考えている。そのためなら、

  • 99%が飢えて死のうが「どうでもいい」

というわけである。まさに、資本主義社会。弱肉強食。怖いわけであるw
しかし、彼らにしてみれば、そんなことは「本能」のようなもので、好き勝手やるのは、ご勝手に、といったものであろう。だれも慈善事業で生きていけない。だったら、どっかのだれかからお金をむしりとるしかない。むしろ問題は、こういった連中の口八丁手八丁に「だまされて」、まるで「いい人」であるかのように、お金を「みついでいる」<頭の悪い大衆>の側、だと言えるのかもしれない。

産・官・学は、こうした振る舞いを重ねながら、しばしば暗黙のうちに連携して、マスコミや教官にも大きな影響を与えてきた。今日の大新聞やテレビ局は、年間二百数十億円の広告宣伝費を使っている東電をはじめとして、電力会社のように安定した大口の広告主・スポンサーの意向にまっこうから逆らうことあ難しい。それだけなく、ほぼそれと同類の「販売促進費」を計上している東電など大手電力会社は、折に触れて報道関係者を個別に接待し続けていたという。実際、3・11以前には、原発の安全性にメスを入れる報道あ非常に少なかっただけでなく、不透明な理由で、報道の方針や番組の編成が変更されることもあった。
こうした世論操作は、マスコミだけをつうじてなされたのではない。中学校・高等学校の社会科・公民科の教科書検定において、原発が「トイレのないマンション」に擬せられることを書こうものなら直ちに集成を求められ、耐震性などの安全審査に問題があることなど、いわんや掲載しようもなかった。
このようにして原発を容認する世論をつくろうする策動は、同時に、原発の設置に反対する運動への露骨な介入にと表裏一体であった。電力会社は、公式に巨額の補助金・協賛金を支払うあけでなく、さまざまなルートで多額の寄付を行って建設賛成派を支援する反面、反対派にはさまざまなルートを通じて、行動を監視して威圧を加えた。たび重なる事故の隠蔽に怒って経産省に抵抗しはじめた当時の福島県知事には、あろうことか、収賄額ゼロ円の収賄罪(!)で有罪判決が下される、という笑えないおまけまで付く。

おもえば、フクイチを観光施設化しようという策謀も、うさんくさかった。チェルノブイリとフクイチを比較する(観光地化する)なら、なぜ、水俣病イタイイタイ病足尾銅山を「観光地化」すると言わないのだろうね。実際にそういった場所で、猛毒で、生涯をだいなしにされた人に会いに行けばいいんじゃないんですかね。障害で手足をうまく動かせない人を見て、なにを思うんだろうね。彼らに実際に会って、公害で体をこわすということが何を意味するのかを実際に見てこられたらいいのではないだろうか(チェルノブイリで、甲状腺ガンで苦しんでいる当時は子供だった人たちが何人もいるはずなわけで、ぜひそういった人たちの今の現状を見てこられたらいいんじゃないだろうか)。できるだけ多く、そういった人に会ってこられたらいいんじゃないでしょうか。それこそ、まっとうな「ダークツーリズム」ですよね。まあ、そんな人たちに会う時間を確保しようとしたら、その他のことなんてやっている時間もないかもしれませんが。
しかし、そうじゃないんでしょw なんと、

を見に行くっていうんでしょw なんなんだろうね。発電所施設を、しかも、今は壊れた発電所を見て、なにが分かるんでしょうね。そういった施設を見ると、なにか、その土地で過していた人たちの

  • 苦しみ

でも分かるのかな。そんなに建物の中を見ることって、重要なのかな。なんか「目的」がおかしくなっていませんかねw
これさ。「観光」って言っているように、ようするに「遊び」なんですよね。「おふざけ」なんですよ。エンターテイメントなんですよね。だって、お金儲けなんですから。
ようするに「お金持ちの道楽」としての企画なんですよね。往復するだけでも、すっごいお金がかかる。そもそも、貧乏人がやれるわけがないお金なんですよね。そんなお金持ちに一体、なんの「サービス」を提供しているんだろうね。どんな「楽しい」ひとときを過してもらおうとしているんだろうね。なんなんだろうね。原発が壊れて、その土地の人たちが「困って」いて、そういうのを見ると、「スカッ」とでもするのかな。困っている人を見ることって、なんかのエンターテイメントなのかな。怖いね、そういうことを思いつく人間って...。