<本当>の福島ダークツーリズム

私は福島県が、ことこの、3・11における、福島第一原発事故に関する

  • 公害問題

をテーマとして、なんらかの「博物館」や、被害者とのセッションなどを行うことで、広く大衆に、この問題への関心を高めてもらうための、一種の「ダークツーリズム」をやるべき、と考えている。しかし、その場合のその意味は、「ダークツーリズム」の本来の意味とでも言うだろうか、むしろ

  • ダーク

の方にその意図の主眼があるのであって、「観光」とか「お遊び」とか「芸術」とかといった意図はまったくない。
お金持ちの、「道楽」として、「観光=ツーリズム」がやりたいなら、まあ、勝手にやればいいんじゃないですか、といったとこであろう。
しかし、私がここで考えているものは、それとは違う。
本来のダークツーリズムの意図は、「ダーク」の方に主眼がある。つまり、あえて逆説的に、現地の悲惨な人たちの状況を、外の人々が見ることによって、その問題の「実態」に気付いてもらうことを目的としている。

先に見たように田中正造の議会内外の活動によって、足尾の鉱毒が広く知られるようになると、今風にいえば怪文書まがいの「イエロー・ジャーナリズム」(扇情的な攻撃的記事を売り物にするジャーナリズム)もまた跋扈しはじめる。そうした誹謗中傷をももとにして、「被害民はすでに示談金を多額にあるいは何度も受け取っている」とか「鉱毒被害の訴えは金目的にすぎない」等々、悪質な風聞が流布される。
こうした風評の種を撒き散らした記者たちは、自分では被災地を訪れもしないし、被災民から直接に取材もせず、「兎に角」シナリオありきのかたちで記事を書く(仮に被災民から聞き取りをするとしても、自分たちのシナリオに合うことだけを継ぎはぎする)。そのようにして、自分たちが攻撃したい個人あるいは集団を中傷する扇情的な記事を売り物にするというのが、いつの世でも、イエロー・ジャーナリズムの特徴である。
こうした扇情的ジャーナリズムの記事を枠づけているシナリオは、鉱毒調査会が設けられたころ、鉱山存続を訴えて配布された文書「足尾銅山鉱業停止請願に対する告白書」の内容とぴったり符号する。その文書によれば、近年の「鉱粉沈殿所の設備、鎔鉱精錬室の改良」によって、いまや「停止請願者の蝶々するがごとき鉱物流出などあるべきはずがない」のだから、鉱毒論者は「該鉱業(古河のこと----引用者)を脅迫して自ら為にする」者とされている。

上記の本は非常にいい視点で、問題をまとめられている。ようするに、原発政策は、国家による

  • 産業政策

だったわけである。足尾銅山の問題は、そのまま、日本の大陸への「侵略政策」と繋がっている。というか、基本的に同型なのだ。足尾銅山での住民無視が、そのまま、

  • 大陸での<住民>無視

に繋がっている。まったく、同じ精神構造によって、行われている。
私は某一部の団体が行おうとした、福島第一観光地化計画を認めるべきでない、と思っている。それは、それをやることが法律的に許されるかどうかということではなく、彼らの「意図」があやしいからだ。
おそらく、東さんは、なにか「勘違い」をしていたのではないか、と思っている。
そもそもなぜ、福島第一という壊れた原子力発電所「だけ」を見に行くことを、唱えたのか(そもそも私のような、子供の頃に、学校の行事として、原子力発電所「見学」を行わさせられた人々にとっては、こういった「壊れた」ものを見に行く、というのを聞いただけで、なにかの「侮辱」をされているような印象を受けるわけである)。このことについては、藤田直哉さんが著書『虚構内存在』で、ちょうど東さんがこのプロジェクトを提起された頃、筒井康隆の短編小説からの連想として始められたのではないか、といった推理をされていたが、確かにその頃、彼が言っていた「タークツーリズム」の説明は、より、その筒井の短編の意図に似ていたことは確かである。
おそらく、東さんは、ここでの「ダークツーリズム」という場合の「ダーク」の意図を、筒井の小説にあるような、「芸術の<悪>の絶対的聖域性」を、国民は認めなければならない、といったような「悪ふざけ」絶対肯定の延長で主張していたのではないか、と思っている。つまり、「芸術聖域論」である。芸術なら、どんな「悪」も許される。確かに、福島第一は、福島県の人々を苦しめることになった「原因」であるが、それを「野次馬」が、興味本位で見にくることは、例えば、古代ローマのコロシアムで、お金持ちが、奴隷同士が殺し合うのを「興味本位」で見に来ることに似ている。つまり、こういった「不謹慎」は「儲かる」わけであるw
しかし、そもそもの「ダークツーリズム」の意味においては、こういった「筒井的<悪>肯定」とはまったく違った意図に関係しているわけで、つまりは、歴史的な「負」の結果に、よりダイレクトに人々が「感染」することの社会的問題提起の重要さが意味されていたわけであろう。つまり、ここでの「ダーク」とは、「悪肯定」とまったく関係がない。そういった「悪ふざけ」となんの関係もない。
たとえば、福島第一の問題としてここのところ話題になっている、疫学者の津田先生の分析によって、この地域の子供たちの甲状腺ガンの多発が問題になっている。私は多くの人たちが、こういった

  • 「ダーク」の当事者になった人々

の話を聞いて、実際に被害に会われたということがどういうことを意味していたのか、を聞くということが重要だと思っている。これが

  • ダークツーリズム

なのである。もちろん、この話を聞く側も話す側も、「つらい」出来事である。しかし、それが「ダーク」の意味なのだ。わざわざなぜ、「つらい」思いをするために、「観光」に来るのか。それは、そのことに人間の「体験」として意味があるから、であろう(つまりこれが「ダーク」であるにもかかわらず、「観光」を行う、という意味なのだ)。
そもそも、福島第一は今も、リアルタイムの問題である。当然、多くの当事者がいる。はるか昔の悲劇的な事件のように「博物館」でしか、その事実の「痕跡」がないわけではない。つまり、そんなハコモノがどうのこうのを言う前に、

  • 当事者の声を聞け

ということになるのではないか。そして、そういった延長において、「低線量被曝」の問題から、「除洗」の問題から、現場の当事者の意識として見えてくる。最初から「低線量被曝」や「除洗」の問題を、愚弄する連中に、こういったことを考える資格などない、というわけである...。