アニメ「僕だけがいない街」について

漫画の「僕だけがいない街」は、コミックで途中まで読んで、それ以降を読むのを止めてしまっていたが、このたび、アニメ版の方を最後まで見たが、私が一つだけ、どうしても意味が分からない個所がある。
それは、主人公の藤沼悟(ふじぬまさとる)が、一度目の過去に戻ったが、雛月加代(ひなづきかよ)の殺人の阻止に失敗した後、また、元の世界に戻るわけだが、そこで、その過去に戻った世界の事実が反映されて、加代の死んだ年齢が10歳から11歳に変わっていることを過去の雑誌の記事から知った、という事実である。
なぜこれが納得いかないかというと、だとするなら、その一度目の過去の加代が死んで、また未来に意識が戻ってくる

  • 間の人生

というのは、一体、誰が知っているのだろう、という素朴な疑問である。
そう考えると、どうも「僕だけがいない街」は、パラレルワールド説をとっていないのかな、と思えてくる。
過去に戻るのは、まだ許せる。それが、SFの設定なのだから。しかし、

  • 現代に戻る

というのは、意味が分からない。戻るとは? なぜなら、そのまま加代が死んだ世界を悟が生き続ければ、

  • 現代に戻る

わけであろう。それとの違いがよく分からないわけである。加代の死んだ年齢が10歳から11歳に変わっていることに驚けるのは、悟の意識が、一度目の過去の加代が死んで、また未来に意識が戻ってくる間を

  • 生きていない

から、ということが分かるわけだが、だとするなら、その間を生きた藤沼悟は一体どこにいるのだろう? 「その」藤沼悟は、加代の死んだ年齢が11歳であることを知っている。なぜなら、その事件の当事者であるわけだから。だとすると、加代の死んだ年齢が11歳であることが書かれた雑誌を見て、

  • 驚かなかった

もう一人の悟がどこかにいなければならない。
もちろん、こういったタイムリープものの作品として、未来の記憶を過去においても持っているというところに対して違和感を、そもそも、感じる人は多いであろう。
この作品は、最初、多くの「賞賛」を受けていた。その理由を私なりに考えてみると、東北の田舎の片隅で、国家に守られることなく、大衆という「サイコパス」が野放しにされていることの「危険」を、多くの人に啓蒙している、といったような、どこか都会エリートたちの田舎差別、または、田舎恐怖、田舎フォビアが反映されていたからではないか、と思っている。都会エリートの自分たちの正当化の論拠は、最後は

  • 国家

が国民を守るのであり、国家が国民の正義の味方なのであり、だから、国民には国家の監視がいるのだ、といった、パターナリズムの正当化にある、と思っている。国家はどんなときも、国民の危機に、助けに来てくれる。それに比べて、田舎の大衆は、なにをおっぱじめるか分からない、危険な犯罪者予備軍だ、というわけであろう。それは、近所に住む、年上のユウキさんが、彼の家の部屋に、幼女もののポルノがあったことを理由に、ユウキさんが連続幼女殺人犯に仕立て上げられたことと関係する。
そしてその「問題」を、過去にタイムリープして解決しようというアイデアは、確かに斬新であった。
ところが、途中から、雰囲気が変わってしまった。
それは、犯人が小学校の教師だった、といったところからであった。
言うまでもなく、小学校の教師は「エリート」である。というか、小学校の教師が象徴しているのは、全ての教師である。はては、高校の教師から、大学の教師まで。こういった、いろいろの教師を、この作品は

  • 警戒すべき存在

として、名指しした、とも読めるわけである。確かに、この作品は、どちらかというと「サイコパス」が作品の主眼をなしていると思う。しかし、そういった「サイコパス」が自分の

  • 居場所

を確保している場所として、普通にリアルに想定されうる場所を考えようとしたとき、そこは小学校の教師のような、ある意味、特殊な職業においてしか、考えられなかった、ということなのではないか。
例えば、作品の前半は、加代の母親とその恋人のDVが問題の主眼であった。そこにおいては、

  • 大衆の悪

が描かれる、といった想定があった。ところが、この姿勢は最後まで貫けなかった。つまり、加代の母親を最後まで「悪」の象徴として描くことはできなかった。それは、母親が、しょせんは、ただの「大衆」だったため、

  • 純粋な「悪」

として描くには、あまりに、「素朴」すぎたから、ということになるであろう。加代は加代の母親の母親が、加代を引き取り、DVの母親は何年も加代と会うことを禁止されるという、比較的、穏当な裁量によって「解決」してしまっている。そういう意味では、

  • 大衆の<悪>を強調し、その大衆を「監視」する国家監視システムの、今以上の正当性

を礼賛したかった、エリート主義者の「思惑」を、この側面からも、この作品の後半は裏切っている、と考えることもできるかもしれない。
それは、例えば「オデッセイ」という映画で、主人公のマーク・ワトニーを最初に一緒に火星まで行ったクルーたちが、NASAの命令に背いて彼を助けに火星に戻ることに、

  • 国家の命令に背く

といった行動を、あまりに当たり前に彼らが行っていることに、なんらかの「不快感」を感じる「エリート根性」が、どうしても、反映してしまう、ということなのかもしれない...。