ロジック

日本の文芸批評系の人たちの文章を見ていて思うのは、なにか、ある話をしている途中で、奇妙な

  • 抽象用語

がとびだした時点で、彼らが、その問題を論理的に突き詰めることを止める作法をもっていることだ、と思っている。
その理由はなんなのかを、ここで私が追及してもきりのない話なのかもしれないが(なにかしら、科学知識がないとか、数学知識がないとか、そういった原因から身に付けた作法なのかもしれないが)、あるマジックワードが飛び出た時点から、急に、考えることを止めるわけである。
これってなんなのかな、と思って考えてみると、なにかに対して

  • 自信がない

ということなのかな、と思えてきてしまうわけである。つまり、自分の専門でないものに対して、自信がない。もっと言えば、論理的に突き詰めることによって、自分に「不利」な結論に至ってしまうかもしれない可能性を恐れている、とでも言うか。
例えば、大学の教授という人たちがいるが、彼らが、本当の意味で、生産的な仕事をしているのかは怪しい。実際、大学教授ほど、もらっているお金に比べて、社会にアウトプットしている仕事の「量」が少ない分野は少ないだろう。特に、その状況が顕著なのが、文系なのだろう。
文系の論文は品質が悪い。それは、間違ったことを言っているからではなく、なんとなく間違っていないことを、ただ言っているだけで、

  • 社会の役に立たない

から、と言うしかない。なぜ役に立たないかというと、ロジカルになっていないから、と言うしかない。ロジカルになっていないから、他人が使えない。
とにかく、徹底して、ロジカルに「記述しよう」という

  • 生産性

がない。ロジカルに徹底させて、それが生産物だ、という感覚がない。上記にあるように、なにかの「ロマンティック」の抽象用語が飛び出した時点で、「分かるよな」の世界に入って、悦に入る、というわけである。

同志社大に雑なシュートがなかったわけではないし、決定的なシュートを外したシーンもあったが、選手たちには「決まるシュートとは何か」、「決まるシュートのシチュエーションに持っていくにはどうすればいいか」という明確なロジック(論理)があった。
「決まらないシュートは打たない」、同志社大が示した思考のアップセット(小澤一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

その中西氏は常々、「日本サッカー界には『決定力不足』という言葉がありますが、日本には物事を抽象化してしまうマジックワードの弱点が幾つかあって決定力不足もその一つ。私は絶対そこから逃げないし、『全て論理にする』という覚悟を持って取り組んでいます」と話している。
「決まらないシュートは打たない」、同志社大が示した思考のアップセット(小澤一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

これはサッカーの話だが、言うまでもなく、サッカーの相手のゴールの前には、相手のゴールキーパーがいる。その前には、守備の選手がいて、こちらは、この状況で、相手ゴールに入れようとボールを蹴る。しかし、言うまでもなく、目の前にコールキーパーがいるのだから、

  • 普通

はゴールにボールは入らない。ゴールキーパーはなるべく、リスクのあるところを防ごうとするし、回りの守備の選手は、その「隙間」を埋めようとすることで、リスクの穴を作らないようにする。
だとするなら、シュートをする側も、基本的には、より得点になりやすい角度なり、方向からシュートをしようと「考える」ことなしに、得点の確率を上げることはできないであろう。
それぞれに共通しているのは、徹底して、思考すること、だと言えるであろう。大学教授というのは「身分」が保証されているから、必死になって、生産物を生み出そう、というモチベを欠いているんですよね。ずっと、曖昧なことを言っていても、授業の担任とかやっていれば、

  • ある学派は、こう主張していて、別の学派は、こう主張していて

といった感じで、ずっと、「チャート式」に整理している、キュレーターみたいなことやっていれば、飯が食っていける。
ようするに、ずーっと、他人が言っていることを「整理」し続けている毎日、ということだよね。
どうしてこうなるのだろう?
おそらく、なにも「判断」をしないと、ずっと「正しい」ことを言い続けられるから、ということなんだろうね。ある思想家は、ある年を境にして、思想の転回を行ったって。まあ、読めば、誰でも気付くよね。つまり、こんなの何も言っていないに等しいんだけど、少なくとも、「変わった」「変わった」と騒ぐことは、

  • 間違ったことを言っていない

ことではあるわけで。
こういった人たちは、早い話が「才能」がなかった、ということになるんでしょうけど、まあ、徹底して考えない。というか、そうやって徹底して考えたことを発表する、という慣習がない。
まあ、つまりは、「モチベーション」がないんでしょうね。なにかにコミットメントをする、という動機が自分の中にないから、なにか一つを徹底して思考して、突き詰める、ということを行い始めないんだよね。
自分が、なんらかの価値にコミットメントをするということは、その価値に対して、党派的にならざるをえないわけだけど、代わりに、そのロジックを徹底させられるわけだよね、
しかし、こういった態度を自らとしない限り、総花的な話を死ぬまで続けるしかないよね。あれもいいけど、こっちもいいし、みたいな。
例えば、自然科学における「客観的」といったものを、人文系にもってくると、まあ、総花的な話になるよね。でも、それって、少しも、おもしろくないんですよね。逆に、そういった総花的な態度って、価値にコミットしないから、頭が悪くても言えるんだよね。
つまり、なにかを徹底的に行うというのは、それを行うことの動機が自分の中から獲得できているということなのだから、必然的に、その価値にコミットしている、ということになるわけで、なにかに価値を見出さない人っていうのは、凡庸なんだよね。
つまり、頭の悪い人って、価値コミット的に振舞えないんだと思う。例えば、数学の、例えば、一連のブルバキの教科書なんかでも、おそらく、それを読んで、基本的に理解する、とか、そういったトレーニングもされていないのだろう。だから、

  • 自信をもって「言えない」

ということなんじゃないか。なにを言うときも、それが本当にこの場合に正しいのかどうかに「不安」をもっている。はっきりと断言できない。もっと偉い人に、「お前は間違っている」と言われると反論できない。
それは、自分の頭で徹底的に考えて、どうもこれは正しそうだぞ、といった、だれに何を言われても、反論できるくらいに、徹底的に思考したものじゃないから、不安なんだよね。
もしかしたら、人文系の学問というのは、そういう意味で、早晩「終わる」のかもしれない。しかし、その場合の「終わる」という意味は、

  • 自然科学系の人たちが、「自分たちが今もっているメソッド」で人文系の学問を行う

ようになる、という意味で、言わば、全てが自然科学系になる、ということなんだけど、おそらくそれがどういうことを意味しているのかを、人文系の人たちは分かっていないのだろうから、こうなっていくのは早いように思われるわけである。
例えば、幕末の吉田松陰という人がいて、彼の愛読書というのは、まあ、水戸学派ですよね。そして、浅見絅斎の『靖献遺言』ですよね。この『靖献遺言』というのは、中国の歴史において、たぐいまれな

  • 忠誠心

を見せた人々のエピソードを集めたものなわけであり、水戸学というのは結局は、護教論的なところに収斂するわけで、こういった『靖献遺言』のような、やたらと、

  • 忠誠心

ばかりを無上の価値とするわけだけど、言うまでもなく、孔子であり論語が主張していた「価値」には、さまざまなものがあったわけでしょう。
私なんかは、この価値を、『靖献遺言』のような、ただただ「忠誠心」という価値だけに特化したものを書くのではなく、その他の、孔子であり論語が主張していた

  • 価値

のどれかに特化したエピソードを集めるようなものは、十分にその価値がある、と思っているわけである(私の考える「ジャンク」であり、サブカルという意味は、今あるような、ラノベであり、アニメであり、といったものから、そういった「価値」に関係したものを、まさに、『靖献遺言』のようにエピソード化し、体系化するということを意味しているわけで、むしろ、そういった倫理的なもの以外のなにかに対して「価値」を認めない、という意味で「ジャンク」なんですけどね)。
私が「ロジック」と言っていることはそういうことで、徹底して、論理的に突き詰めることによって、なんらかの「生産性」が生まれるわけですよね。逆に、そういった動機をもたないということは

  • 何も言わない

ということであって、仕事の成果を生み出さない、ということなんですよね。つまり、頭が悪い、ということ。頭がいいということは、それだけ、仕事の生産している量が多いということなんだけど、多くかつ、クリエーティブであるということなんだけど、そうであるということは、必然的に、その人はなんらかの「価値」にコミットしているということになるわけで、逆に言えば、そういった「覚悟」のない人は、死ぬまで、凡庸なことを言い続けるよね...。