石川忠司『吉田松陰 天皇の原像』

あなたが日本の田舎のどこかで産まれて、幼少の頃をその田舎で過ごし、大人になったとしよう。その間には、近所のいろいろな人たちが、あなたを助けてくれたであろう。そういった恩義の諸関係の中には、当然、父親や母親との関係も存在するし、恩師への関係も存在するし、そういった「主従」関係が現れているであろう。
さて、

ってなに? 残念ながら、あなたは天皇となんの関係もなく生きてきた。天皇は、その街に来たこともない。自分たちの街とは関係なく、ずっと、東京の皇居で暮らしていられる方々であって、私たちのだれも出会ったことも、お見かけしたことも、ない。
その存在を考えたこともない。
ところが、天皇というのはどうやら、「日本で一番偉い」ということになっているらしい。だとするなら、上記の私たちが身近な諸関係において、つちかってきた「主従関係」を

  • 否定

してでも、天皇と自分との「主従関係」を

  • 優越

させなければならない、ということになるわけである。
意味が分かるであろうか?
この、突然、私たちの日常の中に現れた「天皇」を、自らの日常の全てに優越させる「べき」という、命法は一体、どこからなされる命令なのだろうか? どんな「実体」があるのだろうか? なぜ、私たちの日常の文脈において、そもそも存在しなかった、そのような関係が急に現れる、などということを認められるのだろうか?
そういう意味において、私は今だに、こういった超越的な「政治的正統性」といったものを認めるべき、といった考えを認めたことがない。
例えば、現在の憲法においては、天皇は「象徴」という曖昧な位置に置かれているわけだが、つまりは、形式的な役割を憲法の中に位置付けられているだけの、この憲法が与えた位置に関係するだけの意味とされている。確かに、総理大臣から、その他の大臣から、天皇によって任命はされるが、実質的な「拒否権」が天皇サイドに用意されているような意味での「任命」ではない。つまり、注意深く、天皇サイドが「政治」に介入することを避けた制度となっているわけである。つまり、まさに「立憲君主制」であり、君主は直接的に政治とは関係せず、政治サイドの運営は「民主主義」が基本的には機能する形になっている。
この形を、「一君万民」と言うことは、「万民」という形によって、国民が「平等」に政治に関係する「権利」を与えられているという意味で、「天皇の下の平等」と言うことができると思うが、その天皇は政治という実質においては、上記のように「形式的」にしか関与できない位置に置かれているという意味では、これは「天の下の平等」を意味する、立派な「民主主義」国家だと考えられるわけであろう。
つまり、よくできているわけである。現在の憲法において、天皇は確かに「君主」の位置にあるわけであり、それなりに重要な「役割」を行うことになるのだが、そのことが「形式的」な手続きにおいて、天皇が「政治的」な例えば、意志決定のような行為を

  • 直接に行わない

ようになっている、ということによって、私たち国民の「民主主義」プロセスと、天皇が担っている「権威」の部分を、うまく「切り離せ」ている、と言えるわけである。

では日本の国体の中心はどこに求めるべきなのか。天皇である。日本では「天胤、四海に君臨し、一姓歴歴として、未だ嘗て一人も敢えて天位を覬覦するものあらずして、以て今日に至れる(天祖天照大神)の末裔がこの世全てを統治し、その家系が代々受け継がれて、いまだかつて誰一人として天皇の位を奪うなどという身の程知らずな望みを抱く者が現れないまま今日に至ったのである。)」(『新論』)のだから、天皇こそ日本の中心もしくは正統的な支配者と呼ぶにふさわしい。

しかし、これは「理屈」というものである。よく考えてみてほしい。徳川幕府で家康が天下をとったとき、それは、「そのもの」の意味で家康が天下をとったのであろう。その「権力」を疑った人が一体、どこにいただろうか? まあ、「屁理屈」のようなものである。
もちろん、昔からこういったことを言っていた人たちはいるわけだが、より党派的に主張を始めたのが水戸学だったと言える。つまり、儒教における正名論において、各武家政治における「正統性」を、彼ら水戸学は「天皇」の位置を逆転せずには正当化できなかった。つまり、日本には

  • 革命がない

ということを言うために、武家政治と天皇の上下の関係を崩せなかったわけである。

山県太華は藩校・明倫館で松陰の大先輩にあたり、人間としても儒者としても非常に優秀な人だった。その太華は松陰の主張をナンセンスだときっぱり退けるのだ。儒教的普遍主義に立った論旨はきわめて合理的である。----松陰は中国と異なって日本では「天下は一人の天下なり」というが、人の道というものが国の違いで左右されるはずもない。確かに古代以来、天皇は日本の正統的な支配者であった。だがのちに徳を失い政治を疎かにしたために天命が去って、新たに武家に対して天命が下った。以後、平家 ~ 源氏 ~ 北条 ~ 足利 ~ 徳川と続く武家政権こそが日本の正統的な支配者である。人民に仁政を施すか否かが天命所有の分かれ目だ。こうした堂々たる真理に日本とか中国とか小賢しい区別はない...。
この論争は、純粋に理論のレベルのみを考慮すれば山県太華の勝ちに思える。結局のところ、松陰は「先生(太華)神代の巻(『日本書紀』)を信ぜず。故に其の説是くの如し(カッコ内引用者)」(「講孟箚記評語の反評」)と返すのが精一杯だったのだから。歴史学者桐原健真によれば、日本の独自性の根拠として松陰の念頭にあったのは『日本書紀』神代下巻に見える「天壌無窮の神勅」だという。それは「天孫降臨に際して、天照大神が皇孫である瓊瓊杵尊に賜ったという神勅」(『吉田松陰』)だ。

芦原千五百秋瑞穂国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫就きて治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、天壌と無窮けむ。(『日本書紀』)

桐原は『吉田松陰』で、太華との論争においてともすればファナティックに見えよう----「天壌無窮の神勅」まで持ち出すのだから----松陰のスタンスをうまく救った。太華の普遍主義を幕末当時の国際情勢にあてはめれば、それは政治面では主権国家、経済面では資本主義、文明の面では科学、宗教の面ではキリスト教を前提にしている近代的な国際政治システムということになろう。しかし、欧米列強はこの政治システムを「普遍」の名のもとに押しつけようとしたのがもとで当時の日本の、さらには東アジア全体を巻き込む動乱がはじまったのではなかったか。
桐原によれば、松陰も「普遍」について考えていないわけではない。山県太華の「普遍」がひとつの抽象的 = 普遍的モデルとその個別への適応の二元論で成り立つのに対し、松陰の場合、そもそもひとつの抽象的 = 普遍的モデルが存在せず、国ごとにさまざまに異なる個別例がまさに具体的な個別例のままに、どれが普遍を反映しているかを判定する最終審級なくして、互いに健全なかたちで対峙し合っている状態を「普遍」という。桐原が「講孟箚記評語の反評」から引用する松陰の言葉は非常に興味深い。「鴻荒の怪異は万国皆同じ。漢土・如徳亜に怪異なきは、吾れ未だ之れを聞かざるなり。<蛇身人首、天より降るは支那・如徳亜並びに怪異なり。>」。
松陰はこう主張したいのだ。中国人は女媧・伏羲のような伝説の三皇を信じており、欧米人は処女から子供が生まれ、長じて救世主となり一度死んで復活したことを信じている。こうした「怪異」はどの国でも持っているもので、日本もまた例外ではない。そこからどれかひとつ「怪異」を選び、「普遍」と称して他国に押しつけるのは無茶苦茶だろう。すると、それぞれの国はそれぞれに固有の「怪異」を信じるしかなく、そして互いにそんな「信仰」を承認し合うのがベストなのではないか。自分にかんしていせてもらうなら、『日本書紀』の「天壌無窮の神勅」を信じている。日本の正統的な支配者は一貫して天皇であり、ゆえに「天下は一人の天下なり」なのだ...。
桐原の著書からは、ファナティックなナショナリズムに陥っているのではなく、信仰における相対主義的な方法論的ニヒリズムに居直っているのでもなく、「怪異」 = 「信仰」をアクセレーターにして、一国の独立を守ろうとひた走る松陰の姿が見えてくるのである。

松陰は基本的に、水戸学の延長で考えている。水戸学の『新論』は、ようするに、欧米列強が日本の近海を黒船でうろうろし始めていて、日本という国家の維持の危機なんだ、という所から始まっている。だから、徳川幕府における、将軍から末端までのヒエラルキーを大事にしなければならない、と言っている。
ところが、松陰のような場所から見ると、徳川幕府が言っている将軍から末端までのヒエラルキーというのは、ほとんど、どうでもいい、というところにまで思考が行ってしまう。なぜなら、その水戸学自体が、自分たちの正統性の源泉は「天皇」だと言ってしまっているのだから。ようするに、天皇だけが偉い「一君万民」に至らないわけにいかない。ようするに、天皇以外は「どうでもいい」わけである。
欧米列強の脅威は、「なんの脅威」なのかを考えさせる。つまり、その脅威から「守る」って何を守るのか、ということである。すると、この日本というものの「価値」について議論をしないわけにはいかなくなる。日本は本当に守る価値があるのだろうか? あると言う場合、私たちはもう一度、自らを見つめなおす作業を求められる。
確かに、私たちはこの国で生きてきた。そういう意味で最初の議論に戻るわけである。自らの身の回りを世話してくれた多くの人と私はなんらかの関係をもち、この関係全体が壊されることを許せない。しかし、そのことがすぐに、「この国を守る」という論理に延長するとき、

  • この国の何を守るのか?

というのが、よく分からなくなるわけである。自分の身の回りの自分が分かっている「価値」については、確かにそうだ。しかし、それ以外とはなんなのか?
ここは重要なポイントである。
ようするに、松陰が直面しているのは、

  • 外国からの黒船の危機

から、それを言うためには

  • 日本の守るべき「価値」が何か

を決定しなければならない、というところまで来て、そこから、一切の日本の価値は

に集結している、というところにまで行かざるをえなかった。つまり、

なのだ。


朝廷を憂慮し、それゆえ諸外国に怒りを覚える者がいる。一方で、諸外国に怒りを覚え、それゆえ朝廷を憂慮する者がいる。私は幼い頃から家学である山鹿流兵学を継ぎ、兵学を講じる中で、外国からの侵攻は国難でありこれに怒らぬわけにはいかないと知った。その後に、これほど日本のすみずみまでが外国勢力に侵食っされている理由を考え、国家の力が衰えた要因を知り、とうとい今日における朝廷の憂うべき状態が、一朝一夕にしてもたらされたわけではないことがわかった。けれども、どちらが根本でどちらが枝葉であるかという問題については、いまで確信を得ることができないでいた。ところが去る八月、ある友人に教えられることで、目を開かれるように初めてこの問題について理解した。これまで朝廷の行く末を案じていたのは、みな諸外国に怒りを覚えることからそのような考えが置こったのである。この時点でもう本丸を取り違えており、本当の意味で朝廷の行く末を案じているとは言えなかったのだ。いま貴君の文章を読むに、はじめに世界の情勢から語っているが、その意図するところは、本末を取り違えていた八月以前の私と大差ないものと見える。

安政三年(一八五六)十一月、当時水戸にいた弟子の赤川淡水(佐久間佐兵衛)へ宛てた手紙である。この文章を歴史研究者の源了圓が「コペルニクス的転回」(『徳川思想小史』)と呼んだことは有名だろう。

日本における一切の価値は「天皇」を源泉としている。ということは、「天皇」さえ守れればいい。「天皇」さえ残せれば、他の日本人が全員死んでもいい。もはや日本は関係なくなってしまう、というわけである。
しかし、である。
その場合のここで「天皇」と呼んでいるものとは、なんなのだろう?

一般規則=制度=道徳をあいだにはさみ、そこに内実を注ぎ込みながらかいくぐり、上昇して行ったさきで「忠誠」が出会うのは統治者の「姿勢」ではなく、具体的な人格こそ持ちはすれ、よくも悪くも統治の資質を欠いた血筋の悠久な流れなのである。要するに、天皇は「忠誠」が充填された一般規則の上に乗っかっているだけに等しい。吉田松陰の言葉を----書かれてない不在の部分も「不在」という意味をはらむものと受け取って----論理的に敷衍すれば、人民が天朝への「忠誠」心によって一般規則を活発化・実体化し近代的な主権国家を立ち上げ、天辺にいる天皇はそれをただ黙って承認しているのが日本の政体ということになる。これはいまだ不完全ながらも、本質的には主権者の権力が制限されたいわば「立憲君主制」、「天皇機関説」、というか「象徴天皇制」ではないのか。

掲題の本の著者の主張は、私がここのところ言っている「福沢諭吉」の立場と、微妙に似ている(上記の引用の最後で、「一国の独立を守ろうとひた走る松陰の姿」を肯定的に評価しているところに、この人の基本的な立場が現れている、と考えられる)。
吉田松陰が行った「コペルニクス的転回」は、ようするに欧米列強から、国家を「守る」と言った場合に、

  • 何を守るのか?

の議論をしないわけにはいかないのであって、そう考えるなら「天皇以外の価値」などというものを考えてはいけない。唯一、

なのだ、という結論に至らなければ「ならない」というわけである。しかし、そう言った場合に、問題はここで言っている「天皇」とはなんなのか、ということになる。すると、そもそも天皇とは

  • あるシステム

だということが分かる。つまり、次々と世代を超えて「交代」していくシステム。しかも、そこにおいては、なんら「徳」だとか「仁政」といったものと関係なく、なんだか分からないけど続いている何かでしかない。
もう一度、上記での松陰と太華の議論を思い出してほしい。ここにおいて、太華が言っているのは

  • 実際の政治を担っていた実体

は、徳川幕府じゃないか、と言っているわけである。つまり、太華は松陰はバカなんじゃないか、と言っているのだ。実際に政治を行っていたのが幕府であることを分かっていながら、ずっと天皇が「天下」を支配していた、と言うのは、なんの意味もない。孟子の言う「革命」論を素直に読めば、明らかに天皇は「天下」を支配していない。こういった

  • 欺瞞

をすべきでない、と言っているわけであろう。
それに対して松陰が言っていることは、まさに「神話」である。そういうふうに「神話」であるのに、そうでないと言うのは、なんという「無礼」な態度か、というわけであろう。
ようするに、どういうことか?
松陰がここで、「天皇」と言っているのは、例えば、中国において「女媧・伏羲」(を含んだ諸々のストーリー)を自らの正統性の源泉としていたり、キリスト教では「処女から子供が生まれ、長じて救世主となり一度死んで復活した」(を含んだ諸々のストーリー)を正統性の源泉としているのと同じように、それが実際に「なんなのか」に関係なく、とにかく

  • それ

を中心にして、それを核として、「私たちが守るべきもの」のベースを作った方が、現状を説明するのに意味がある、というわけなのである。事実、松陰にとって「一人一人の天皇」が具体的に誰なのか、そういった「一人一人」が徳や仁を体現しているのか、それをどうやって分かるのか、といった命題にすでに興味はない。なぜなら、そもそも、天皇とは各世代において、代々、「交代」し続ける何か、といった意味しか与えられていないのであって、もはや、「一人一人」が何かの「価値」を体現している、という理解がない。大事なことは、ただ一つ

  • 続いている

というだけなのであって、ようするに松陰にとって大事なのは「続く」ことだけなのであって、この「続いている」という

  • 事実性

さえあれば「あとはどうでもいい」ということになるわけである。
上記のコペルニクス的転回は、この文脈において、非常に重要なことが語られている。松陰にとって、なぜこんなことを考え始めたのかのトリガーは言うまでもなく、欧米列強の黒船である。ところが、それを考えるためには、「日本の何を守るのか」という命題に、なんとしても答えなければならなくなる。よって、彼は何かに気付くわけである。つまり、

である。奇妙であるが、上記のコペルニクス的転回が「主権国家」なのである。ここで、始めて日本は「主権国家」になった。というか、日本が「主権国家」であることを

  • 発見

したのだ。
しかし、そういう意味においてなら、松陰は「間違っている」と言わざるをえないであろう。それをここでは、水戸学的根源主義のアポリアと言っておこう。水戸学が後期において変容したのは、言うまでもなく、本居宣長の影響なのであり、彼の古事記研究が大きく影響している。宣長は、まるで、古事記には日本の過去のさまざまな「源泉」を説明しているかのように、彼は解釈していったわけで、これを、平田篤胤などは継承していく。
この場合、問題なのはそういった本居宣長的な「解釈」が、基本的に根拠がないにも関わらず、より「積極的」であるがゆえに、受け入れられていく、つまり、より古代日本という宣長の頭の中の「幻想」が、実体的なものとして、リアルに受け入れられていく、というわけなのである。
こういった文脈に、松陰の同時代の黙霖や真木和泉といったような、より、神道系に近い人たちが敏感に反応する。つまり、日本の神道のなにかにより「根拠」を与えるものとして、宣長や篤胤の研究を吸収するようになる。
こういった文脈において水戸学における天皇制の中心化の強調の根拠があるわけなのだから、だとするなら、松陰の立場は不徹底だと言わざるをえない。というか、彼の立場はある意味で、天皇を「愚弄」している、と解釈してもいい。それは、実際に形式的に松陰が天皇に畏敬の念を示すかどうか(彼が楠正成の墓にすがって、わんわんと泣くかどうか)とは関係なく、実際に「それ」をどう扱うべきかに関係して、彼はもはやそれは「システムでしかない」と言っているのと変わらない、という意味ではそうなわけであろう。
つまり、もしも松陰の自らが言っていることを徹底させるのであれば、次のようにならなければ、おかしい、というわけである。

歴史家の山口宗之の『真木和泉』によれば、「『速に奈良已前の盛代に挽回』することを目標に(文久三・九・以後、坂木六郎・藤次郎宛和泉書簡)、『遠く古に立回り、天智天皇以上神武天皇神代の例をのみとり行ひ給ふ』世(文久元・三、『経緯愚説』)すなわち天皇中心の時代こそ和泉の理想とする世界であ」った。真木にとって「それへ復帰することが政治運動の中心課題でなければならなかった。諸国の国号を古称にかえし、国造・県主・稲置・真人などの位階制を復活させ(同)、租庸調の税法(『秘策』)、笞杖徒流死の刑法(『維新秘策』)の採用といった古めかしい主張をさえ真剣にとなえる和泉の脳裡には、天皇を中心にした古代王朝国家が理想像としてあざやかに映じていたことをうかがうに足る。これら一連の和泉の定義の根底にあるものは、わが国の中心はあくまでも朝廷であり、天皇こそ天下の大権を握るべきであるとする主張であった」。

こういった主張は、まるで、イスラム教におけるISの主張を思わせるものがある。真木和泉吉田松陰の過激なクーデターは、次々と人を殺すわけであるが、これは

  • 神を信じない連中

に生きさせておく理由はない、といったような、神道的な「価値」に関係している。つまり、一人一人の命など「どうでもいい」。大事なことは、古代の天皇の「統治」が、現代において廃れている「悲劇」なのであって、この許されざる蛮行が直されるのなら、日本人の一人や二人が死ぬことなど、なんの意味もない。
ようするに、「人間の命よりも価値のあるもの」があるから、日本は欧米列強の黒船から、この日本を守らなければならない、ということになるわけであるが、しかし、だとするなら、なぜ

  • 日本が世界に「侵略」しないのか?

という疑問に変わるわけであろう。その「価値」がなぜ日本に留まらなければならないのか。必然的に、松陰が朝鮮、台湾、中国へと「侵略」を野望していく方向に思考していくことは、避けられないアポリアだった、というわけである。
このように考えてくると、上記の山県太華との対話における、松陰の態度は、非常に天皇をバカにしていることが分かるであろう。松陰が太華に反論する根拠は、日本書紀にある。それは、中国において「女媧・伏羲」(を含んだ諸々のストーリー)を自らの正統性の源泉としていたり、キリスト教では「処女から子供が生まれ、長じて救世主となり一度死んで復活した」(を含んだ諸々のストーリー)を正統性の源泉としているというのと同じように、日本の「天壌無窮の神勅」も考えなければならない、というところに根拠がある。
つまり、ある種の「ニヒリズム」がここにはある。女媧・伏羲や処女懐胎を「バカにする」ことと同列に、

  • 他の国がそうなら日本だってそうやってもいいだろ

と言っているだけで、本気で「天壌無窮の神勅」を信じていない。それは、彼の楠正成の墓にすがりついて、わんわんと泣いてみせる「パフォーマス」が、嘘であることと同じであって、全部、なんちゃって、だというわけである。
しかし、そうであるからこそ、日本はアジアを侵略しなければんらない。クーデターを起こさなければならない。なぜなら、そうでなければ、自分の「なんちゃって」が嘘とばれてしまうから(それは、福沢諭吉が新聞の社説で、侵略戦争を礼賛することになる理由と同じであろう)。
どうして、こういうことになるのであろう?
もう一度、思い出してもらいたい。松陰は「なぜ」怒り始めたのか。それは、欧米列強の黒船という外圧であった。すべては、これをどう考えるかから始まっていた。彼の「感情」のトリガーは、そもそも、ここから始まっているわけである。
だということは、それ以外は、ある意味において、彼にとって「どうでもいい」ことなのである。
彼ら行きがかり上、天皇について蘊蓄を述べなければならない立場になったが、彼にとって、そもそも、天皇なんて、なんの関係もない。自分に「関係ない」ものなのだ。
自分がずっと考えていたのは、欧米列強の黒船という外圧なのであって、それ以外のことに、そもそも関心がない。そう考えてきたとき、上記で、掲題の作者が主張している内容は慧眼だと言える。つまり、松陰は実質的に現在の

を主張しているのと変わらない。欧米列強の黒船という外圧を考える上において、日本の主権国家化において、どうしても彼は天皇について言及せざるをえなかったが、生涯を通じて、別に天皇「そのもの」になんらかの、行きがかり上のコミットメントをしたこともない。日本の主権国家化と、天皇の「継承システム」が、

  • 中国において「女媧・伏羲」(を含んだ諸々のストーリー)を自らの正統性の源泉としていたり、キリスト教では「処女から子供が生まれ、長じて救世主となり一度死んで復活した」(を含んだ諸々のストーリー)を正統性の源泉としている

というのと同じ意味において、このシステムをコアに考えた方がうまくいく、といったようなプラグマティックな「判断」において、言っているに過ぎず、言うまでもなく、上記で、中国やキリスト教の神話が非科学的な物語に過ぎない、というのと同じ意味で

  • 馬鹿にして

いなかが、その馬鹿にしているものと同列に天皇を扱うことに、なんの躊躇いもない。
大事なポイントは、松陰にとって、天皇とは、欧米列強の黒船という外圧に対して、日本を主権国家化するために「手段」として発見したシステムであるに過ぎず、一人一人の天皇へのリスペクトなど、一切ないわけである。だれでもいいが、このシステムが続かなければならない。しかし、そうであると

  • ずっと思っていた(=密教

ことと、「コペルニクス的転回」以降の、

  • 自分は天皇を「手段」として扱おうなんて思っていない、本気で天皇を「信じている」

という態度との乖離が、問題となっているわけである。他人に、自分の「信仰」が疑われてはならない。だとするなら、その行動はより過激になるであろう。というか過激であれば過激であるほど、それを証明していることを意味する。クーデターで人を殺せば殺すほど、自分の天皇への「信仰」の強さが証明される。
そういう文脈で、松陰が楠正成の墓で、わんわん泣いたというエピソードも、ようするに、彼は「主人」に対するプラグマティックな行動において、自らを判断しているのではなく、楠正成が後醍醐天皇へ「忠誠を尽した」という、どちらかというと

  • 臣下

側に感情移入をしている。しかし、臣下がどうだろうが、「天皇」という価値を守るという命題にとっては、どうでもいい話であろう。むしろ、それによって「天皇が守られた」という所に「価値」を主張しないと、本末転倒な話に思えるわけである。
そもそも、松陰は長州藩の武士として産まれているわけで、彼が天皇がどうのこうのと言い始める前には、長州藩の誰かに対して、主従関係にあった。つまり、その人との、基本的には、一対一の「主従」にあった。ところが、彼は晩年、天皇という

  • 新しい「主人」

を自ら発見して、自ら「選んだ」わけである。
おそらく、そのことに対して、松陰には、なんらかの感情的な「つじつま」の合わなさを感じていたのではないだろうか。
そもそも、自分が選ぶ「主人」とは、なんなのだろうか? 主人とは自分が「選ばれる」相手であって、自分を選んでくれるのが主人ではないのか。そういう意味で、松陰の態度には、最後まで、天皇個人への「軽蔑」のようなものが感じられる。
彼にとって、考えなければならなかったのは、欧米列強の黒船という外圧であって、天皇がここで「必要」とされる理由は

  • それと戦うため

の、自分たち側、「主権国家」の定義が求められたに過ぎず、つまり、そういう意味では日本という「主権国家」でさえが、なんらかの

に過ぎない。これがなんであるのかなど、どうでもいい。彼が考えていたのは「結果」として、欧米列強の黒船という外圧が結果として危機にならない「状態」になることであって、彼にとっては、それ以外のことは、どうでもいい。
しかし、そうはいっても、自分の天皇への「真心」を他人に疑われたら「生きづらい」わけで、そうい意味での、自分がこんなに天皇をお慕い申しているかの「パフォーマンス」が、クーデターなどの、人殺しとして、ときどきやっておかないわけにはいかない。
ようするに、こと、吉田松陰という個人の文脈で考えたとき、この日本において、天皇がどうであるべきか、といったことは「どうでもいい」話になり、唯一、

  • 欧米列強の黒船という外圧

とどういう関係になり、「安定」すべきかが重要だった、ということになるわけで、そういう意味では、戦後憲法であり、今の象徴天皇制は、この「安定」を今のところもたらしている、という意味において、吉田松陰的だった、というわけだが、果してそれで、吉田松陰の「コペルニクス的転回」によって、さまざまに感情をかきたてられてしまった、日本の真木和泉的な人材の文脈を、一体、納得させられるのか(吉田松陰的な、天皇への「軽蔑」を、本気で「今のままでいい」と納得させられるのか)は、はなはだ、疑わしい、ということになるのであろう...。

吉田松陰 天皇の原像

吉田松陰 天皇の原像