天皇の政治的発言は憲法違反?

今回の都知事選挙において、宇都宮さんは結果として野党からの支援を受けられなかった。それは、鳥越さんという方を野党共闘の候補として一本化したからだったわけだ。ここまでの流れを見ると、前回の細川候補と宇都宮候補という野党分裂と似ているように見えて、明らかに違っていたのは、野党の推薦は一本化できていた、ということだ。
この後、宇都宮さんは立候補を取り下げたわけだが、例えば、今回の与党推薦の増田候補に対して、どこからの推薦もなく与党議員の小池候補が勝利したように、宇都宮さんがそのまま選挙で戦うという戦略がありえなかったわけではない。
確かに構造としてはよく似ている。小池さんは増田さんが与党の「意向」をおもんばかるがゆえに口を濁す問題をどんどん突いていく戦略で、追い詰めていった。それは、小池さんが与党にいたからこそ、与党内の「問題」を知っているがゆえの戦略であった。おそらく、それと同じことを、宇都宮さんは鳥越さんに対して行えたのであろう。野党の問題をそれと近いところから見ていたがゆえに。そのことは、選挙が終わってからの宇都宮さんのメディアでの発言を見ていれば分かる。
それにしても、前の細川候補にしても、鳥越候補にしても、おそらく市民運動をしている人たちにとっては、あまり日常的に関係を構築していない人たちが「なぜか」選挙の直前になって、落下傘候補のように現れる、という違和感があるのではないか。野党の中枢にいるような人たちにとっては、昔お世話になった関係などはあるのかもしれないが、今活動している人たちが直接関係している人たちではない。しかも、選挙に勝とうが負けようが、それ以降に、なんらかの関係ができていくわけでもない。
なんというか、「殿様」のような人たちで、下々との関係があるわけではない。
つまり、「応援」というからには、自分が「応援」するに

  • ふさわしい

と自分の実感で理解したいわけであろう。そういう「リアリズム」が大衆運動には必要だ、と考えている。それは、地元のJリーグのチームを応援するのと似ていて、このチームが「応援」するのに、十分な「徳」なり「義」なりを応援する側に思わせるものがない限り、もりあがらないわけです。
それは、まさに「民主主義」の根幹に関係していて、ある「役職」にあるから、民衆のリーダーになるのではなく、民衆が「この人がいい」と選ぶから、そういった「役職」につくことになる、という鶏と卵の関係にある。
結局、市民運動側が鳥越さんに「反発」する時点で、鳥越さんを「自分たち」の側に入れていない、ということになる。
おそらく、市民運動の人たちにとって、自分たちの「願い」を十全に体現しているのは宇都宮さんであり、鳥越さんはその中の取捨選択した一部を取り込んでくれるかもしれない、という程度の扱いであった。だから、

  • 自分たちと一緒

じゃない、という時点で、百パーセントの力で応援「したくない」という感情が先になってしまう。これを回避するためには、鳥越さんは宇都宮さんと喧喧諤諤の議論を公開の場で行って、お互いがなんらかの「手打ち」をする形を見せるようなところにまで追込まなければ、少なくとも、日常的に市民運動を行っている人たちには、鳥越さんというのは、疑わしい部分を多くもっている「知らない人」という印象のまま、関心が薄いまま終わっていた、ということなのではないか(まあ、それが宇都宮さんが言っていたことの意味なのであって、自分が選ばれるのであろうとそうでなかろうと、自分を応援してくれていた人たちの気持ちを考えると、そういう形で決めるしかなかった、ということなのだろう)。
結局、選挙というものは、さまざまな人たちの「集合知」を問うシステムなわけで、一方でディープな日常的な市民活動家の方たちの、Jリーグのサポーターにも似た「共同体」意識で応援している人たちもいれば、ほとんど日常的には仕事におわれて、選挙のときだけは政治的判断を行っている人もしるわけで、その

  • 両方

の支持を得られなければ、結果にならないということを考えば、なかなか難しい、ということなのだろう。
例えば、今の国政の政治状況を見ていると、民進党岡田党首が次期党首選への立候補をしないと表明して、次の立候補に名乗りを上げている人たちは、なぜか、野党共闘の見直しや、与党と一緒になって憲法改正を議論していくといった主張を行っているわけで、どうも、民進党の一部はどう考えても、自民党と「まったく主張の違わない」人たちで構成されている。しかし、他方において、与党の公明党は選挙目当てで自民党とくっついているだけで、公明党民進党のほとんど全ての中道は、ほとんど同じことを言っている政治集団に思われるわけで、整理すると、

となれば、ほとんどの日本の政治の「矛盾」は解決しそうに思われる(というか、こういう形であったなら、細川vs宇都宮のときも、鳥越vs宇都宮のときも、宇都宮さんが「野党共闘」の旗になりえたわけであろう)。この場合、おそらくその「対立」の中心になっているのが、「日本会議」なのだろうが、日本会議の特徴はその

  • 秘密主義

にある。宇都宮さんは野党が鳥越さんを選出した過程は秘密主義だと言ったが、宇都宮さんは日本政治の日本会議の「秘密主義」を問題にできていない点において「都議会ウォッチャー」の限界を感じてしまう。「日本会議」の秘密主義的に行われる

  • テロ的政治行動

がさまざまに、日本の政治の不安定要因を上げている。だとするなら、それをどのように「制御」するのかが、野党勢力の結集地点となるはずだが(まさに、山口二郎先生の言う「人民戦線」)、そういった対立軸にあまり関心を示していないのが、今の「市民運動」の特徴だと言えるのかもしれない。
早い話が、これは、ほどんど日本の明治以降の政治状況が、まったく同じ「構造」を繰り返している、と整理できるように思われる。

しかし、両方に言えることは、「国家」であり「国民」であり、どちらであったとしても、どちらかが「おろそか」にされていいとまでは考えていない、ということなのだ。ただ、

  • 優先

されるべきはどっちの「価値」なのかで、争っている。しかし、「優先」とはなんだろう? どちらも価値だと言っておきながら、「優先」を名目にして他方を切り捨てると言うのは、話として違和感をどうしてももたずにはいられない。つまり、国権主義側の優先は、どこか

  • 貴族制(=お金持ち・エリート優先)

の色彩が強くなっている。つまり、「差別」の肯定なのだ。しかし、そうは言っても、例えば「天皇」は世襲であり、職業選択の自由が与えられていない。そもそも、「憲法」でそう書かれているわけで、つまり憲法が「差別」をしている。だったら、

  • 差別はいけない

とか

  • イジメはいけない

とか、そういったメッセージは無意味になってしまわないか?

  • 差別には「いい」差別と「悪い」差別がある
  • イジメには「いい」イジメと「悪い」イジメがある

と言われて、そうだねと言っていたら、どんどんと「恣意的」な判断が横行する。つまり、差別やイジメが実質的に増大する。
天皇が今回、生前退位の意向を示されるということで、皇室典範の改正の動きが始まるとされているが、ここで、もう一度、原理原則をはっきりさせることが、重要なように思われる。

  • 天皇が政治的発言をすることは、憲法違反ではない。憲法は、天皇が実際の政治システム上の役割を担うことを否定しているだけで(つまり、選挙権も被選挙権もない、など)、なにかを言うことは言論の自由の範囲であるに決まっている。というか、人間ならだれでも、発言の自由という「自然権」がある。
  • 日本人なら天皇を除いて、選挙権も被選挙権もある(年齢制限はあるが)。そうである限り、前の細川候補や、今回の鳥越候補が立候補をしたことをディスるのは、一種の「差別」であり「ヘイト」だ。今回起きたことは、鳥越候補を野党共闘が推薦した、という事実であって、そういう意味では、前回の「野党分裂」という問題は回避されている。それに宇都宮候補を推していた人が反対なら、それは野党共闘の、そういった決断をした連中に向けられるべきなのであって、つまりは、自分たちの活動が、そういった「政党」中枢の意向に逆らえないのか、抗議できないのか、といったその「関係」に問題を向けなければならなかった。

はっきり言えば、市民運動の側が、野党それぞれの「党システム」に反対なら、常日頃から、それに戦ってこなければおかしいわけで、選挙の直前になって、

  • あんたたちが自分たちを推薦しないと決めた「やり方」はおかしい

は、なんで今ごろそんな話になっているんだ、ということなわけであろう。自分を推薦したら「当然」で、そうでないと「独裁」だと怒るんじゃあ、議会制民主主義の前提がおかしくなる...。