宇宙とAI

資本の自己運動にとって、「成長」しない市場というのは、いわば反語的な表現なわけで、つまりはそんなことはありえないし、あってはならない、と。アメリカ建国の歴史が、イギリスからの「疎外」された人々の「逃走」の先に見出される「無限の大地」という、

であったことは、それはアメリカだけでなく「新大陸」という意味では、ヨーロッパ以外の全ての大陸を意味していた。この大陸の「ユートピア」があらかた、

として、焼き尽された後、人類はさらなる「フロンティア」として、海と宇宙に向かっていく。そういう意味では、「海」には大きな可能性があると私は思っているが、他方「宇宙」については、ある一つの困難が立ちはだかっていることは多くの人の知るところとなっている。

上記に付け加えるならば、近年重視されているのは、大気とバン=アレン帯の磁場によって守られれいる地球上と比べると、格段に強い宇宙線放射線被曝の問題である。

宇宙倫理学入門

宇宙倫理学入門

しかし、たとえ宇宙が人間には厳しい環境であったとしても、「資本の自己運動」にとっては、その「主体」が人間かどうかなどというのは、大きな問題ではない。資本はあらゆる「差異」を「焼畑農法」で焼き尽して前に進むのであって、それはあらゆる「成長」が止まるまで続く。つまり、もはや資本の「主体」は

  • 人間ですらない

と言うわけである。

このような社会のありようを、近年のSF、あるいはAIの方でちょってしたバズワードとなりつつある「シンギュラリティ(singularity)」(論者によってまったくまちまちな意味で用いられていて困り者だが、大体において「AIが人間の知性を凌駕する臨界点」くらいのイメージである)論議をも意識しつつ仮に「ポストヒューマン(posthuman)」状況と呼ぶならば、本格的な宇宙植民は人間のサイボーグ化や、あるいはあとで見るように自律型知能ロボットなど、ポストヒューマン・テクノロジーを前提としているということになる。
宇宙倫理学入門

私の興味はそれが、サイボーグであろうがAIであろうがどうでもよくて、とにかく、そういった「ロボット」が資本の自己運動の「主体」として、人間に代替されていくということをイメージすることが何を意味しているのか、にある。
たとえ人間が「サイボーグ」になったとしても、上記の宇宙空間の「放射線」に対しては無力なわけで、そういう意味で、私はこの宇宙の「フロンティア」に旅立つのは「AI」になるだろうと考える(しかし、ロボットだろうと福島第一の調査ロボットがすぐに壊れてしまうことから分かるように、それなりの巨大な放射線に対しては無力なのだから、本当は一緒なのだろうが)しかし、その「AI」は、人間と同型なものというより、人間の

  • VR(ヴァーチャル・リアリティ)

を担う「客体」としてのものであり、言わば「局所的AI」といった形のものが優勢なのではないか。例えば、今の自動車でも、氷の路面でスリップして、人間がもはや操作を「あきらめた」

  • その後

において、自らの「自律」的な制御によって、「人間を守ろう」とするわけで、通信によって、人間が遠隔操作をするのだが、そのバックグラウンドで人間を「観察」していて、いざ、「危機」に直面したときに、人間の操作に介入してくる、というような(例えば、虚淵玄が脚本に関わったアニメ「彗星のガルガンティア」というのがあったが、あんな感じが近いのかもしれない)。
例えば、なぜ日本の企業は、アメリカでトランプ政権が誕生して、「保守主義」的な政治が始まろうとしているのに、あまりあわてていないのかと考えてみると、おそらくは、

  • 「工場」のロボット化

は、かなり前から、十分に実用的なまでに進んでいるから、と考える。だとすると、アメリカの没落中間層はたとえ工場がもう一度戻ってきたとしても、復活はないと考えることもできる。つまり、トランプはなんらかの「妄想」と区別がつかないようなものを、その代替として、提示することを求められていくのかもしれない。
例えば、映画「オデッセイ」(小説のタイトルは『火星の人』)というのがあったが、あれを見たとき、非常に大きな違和感というか、なんらかの「がっかり」感を感じたことを覚えている。というのは、「これだったら、ひきこもりのオタクが家の部屋に閉じこめられた」みたいな状況だって、ほとんど「同型」の映画になるよなあ、と思ったからだ。
つまり、どういうことかというと、もはや人間は宇宙に行く必要がない。ロボットが行けばいいのだ。というか、そのロボットを「遠隔操作」をすればいい、とさえ思えるわけである。つまり、まさに

  • VR(ヴァーチャル・リアリティ)

である。私たちがネット空間でアバターを作り、その「(インターネットという)無限のフロンティア」に現れるように、宇宙空間は、AIを介すことによって、

  • リアル宇宙空間とネット空間が「接続」する

というわけである(人間はひきこもりのニートでいいのであって、未来の人類は全員、ネトゲ廃人になっているのであろうw)。大事なポイントは上記の自動車の例が分かりやすいように、普段はこのロボットはまさに人間が「操作」する対象として自らを「制御」しているという意味で、その「自己」がありながら、他方で自らの「危機」においては自己保身的な動作を、「操作する人間の指令を放棄」して活動を始めるという意味では、なんらかの(精神分析的な意味での)「解離」的な「自己」が、常に、陰から

  • 監視

しているといった構造になっている、ということであろう。
結局のところ、AIとはどんなものになっていくのだろう? 一方において、人間のネット空間での「アバター」といったVRの性格をもちながら、他方において、それを「補助」する立場としてではあれ、なんらかの「自律」的な側面をもつ。おそらく、そういったものを私たちは

  • ゾンビ

のように眺めることになるのであろう。AIとはしょせん「プログラム」であり、(VRであれ、なんであれ)ある「人間」の過去のプログラマーの記録や、人間のVRを介した「生きた印」が刻まれることになる。おそらく、そういった「存在」を私たちは、今は亡き「故人」の「面影(おもかげ)」と共に眺めることになる。それは、伊藤計劃の遺作となった小説を原作としたアニメ「屍者の帝国」において、まさに、腐女子たちがジョン・ワトソンとフライデーの間に読み込もうとした「愛」の物語のように、ワトソンはゾンビであるフライデーの中にもう一度

  • 故人の復活

を読み込もうとする。ジョン・ワトソンにとって今は亡きフライデーが「ゾンビ」として復活するということは、たんに生き返ることを意味するだけではない。生前に恋い焦れた想いが「あまりにも大きかった」がゆえに、その「赤い糸」がフライデーを死者でいることを許さない。ジョン・ワトソンの想いが「あまりにも大きい」がゆえに、死者の世界から、もう一度、この

  • ゾンビ=AI

を介して、現実世界に引き戻されるのだ。
さて。AIとは「何者」なのだろう? まさに、アイザック・アシモフが短編小説「ロボット」の第一段で描いたように、常に人間が「危機」に直面したときに、私たちの前に現れて、「無償の贈与」である「自己犠牲」によって、人間を「救う」。さて。人間にとっての最大の危機とはいつだろう? 言うまでもない、

において、人間は最大に「実践理性」を発揮する。この人間にとっての「最大の危機」において、サポートロボとしてのAIは、そのもてる最大の「能力」を発揮して、人間を救おうとする。
しかし、今まさに「死」を迎えようとしている人間に対して、AIに一体何ができるのか? 人間を「助ける」ために生まれたロボットは、そのまさに今、死を迎えようとしている人間を「救わ」なければならない。つまり、どういうことか? 人間という存在が、死のまさに直前において行う「実践理性」を、まさにAIは

  • 実行

するのだ!
AIは人間を「救う」という目的を実行するために、ほとんど自らを「人間に近づける」ことを運命づけられる。なぜなら、そうまでしなければ、人間の「実践理性」という目的を叶えることはできないからだ。
そして、これとまったく「反対」の結論を導いたのが、伊藤計劃の小説「ハーモニー」であろう。ここにおいて描かれた、御冷ミャハは、ある種の人間への「絶望」から、人類の

  • 「意識」のない存在

への移行を構想するわけだが、そういったミャハの「絶望」は、彼女の幼ない頃の「性的暴力」が関係していたことが描かれる。ミャハにとっての人間への「絶望」は、人間の「意識の消滅」なしには構想できなった。人間という「醜い」意識はそのままにしておくことができない。それはまさに「実践理性」の命令として、AIを動機づける。
さて、アニメ「屍者の帝国」と「ハーモニー」を繋ぐのが

  • AI

である。AIはあまりにものミャハの「絶望」の深さにおいて、人類はここで「意識のない存在」へと移行しなければならないといった「実践理性」と願いを「実現」する。すでに、「生府社会」において、さまざまな「サイボーグ」化されていた人類は、かろうじて、なんらかの「生身の人間」をどこかに留めておいたその「存在形態」を捨てて、人間は「AI」になる。
つまり、

  • ゾンビ(「屍者の帝国」)=意識を失った人類(「ハーモニー」)=AI

となり、これこそ、私たちターミナルケアにおいて、人間がその死の直前に、今ここで死んでいこうとしている人間が、残される人間たちのためになにか「無償の贈与」を行おうとして、行うことになる「実践理性」の「理念」だ、ということになる。一方において、人間の亡き「大切な人」への想いが、あまりにも大きいがゆえに、AIは「亡き想い人」の「復活」を自らに宿命づける一方において、人間の「暴力」のあまりにもの無慈悲な様相において、人間の意識の「終わり」をAIは自らのその様相において、実現する。AIは死者であり、意識のない人間であり、つまりはAIは、その「人間」への忠誠心があまりにも大きいがゆえに、自らを

  • 人間を超えた

存在になることで、人間を「超えた」存在として人間を「代替」することを宿命づけられる。たとえ人類が滅びても、資本の自己運動はAIという客体において、はるか宇宙の「彼方」まで続く、というわけである...。