月脚達彦『福沢諭吉の朝鮮』

明治維新は、結果としては、薩長がイギリスと組んで、江戸幕府を倒して、新政権を作ったわけで、まあ、そういう意味では「革命」であった。福沢諭吉はそれを「文明」と言ったわけで、それによって日本は文明化された。軍事的に強くなった、と。
それに対して、中国と朝鮮はまだ「文明」化されていない、というのが彼の持論だった。なぜここで中国や朝鮮の話になるのかというと、東アジアにおいて、さまざまに迫っていた、欧米諸国による「植民地」化の波が関係する。多くの東アジアの国々が実際に植民地化されている状況があったわけで、その状況に対して、なんらかの対策が求められていた。
そして、具体的には彼は「ロシア」を考えていた。

中央アジアからアフガニスタン方面に南下するロシアが一八八五年三月三一日にアフガニスタン軍と衝突すると、イギリスは臨戦体制に入り、その一環としてヴラァジオストーク攻撃のため朝鮮南端の全羅道興陽県所属の巨文島(現在は全羅南道麗水市三山面所属)の占領を計画した。イギリス海軍が巨文島を占領したのは四月一五日である。

イギリスは四月二〇日に清国政府と日本政府に対して巨文島占領に関する占領に関する覚書を伝達した。

例えば、もしもロシアが中国なり朝鮮をほんの一部なり、植民地化したなら、その流れは、すぐに他の二国にまで迫る、という認識があった(そしてそれは、イギリスとロシアの戦争の開始によって、イギリスが朝鮮の一部を「占領」するという形で一気に実現味が迫っていた)。そこでの大事なポイントは軍事力であった。まだ、日清戦争の前。日本の軍事力はそこまでの実力がなかった。もしも、ロシアとの戦端を切られたとき、かなりの軍事力で圧倒されることが見込まれるわけで、その認識が彼を憂鬱にさせた。
しかし、ここで大事なポイントがある。というのは、福沢諭吉の「考え」と、日本政府の考えでは、ある一点において、決定的に違っていたことである。

これに先立つ一八七六年、朝鮮は近世を通じて「交隣」という対等な外交関係を結んでいた日本と、日朝修好条規という「条約」を結んだ。文明化に先んじた日本は、朝鮮との新たな関係を「条約」によって結ばなければならない。そうして、日朝修好条規は第一款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と規定した。ここでの「自主」について、日本側の理解はindependentを含意するものであり、のちに「独立自主」「独立」という言葉で表現されることになる。一方で朝鮮側からすると、繰り返しになるが、「属邦」であることと「自主」であることは両立する。朝鮮は日本との関係では、清との関係では「属邦」なのであり、これはアメリカとの間でも同様なのである(図2、図3)。
実は、一八八一年に朝土として日本を訪問し、随員の兪吉濬(ユ・ギルチュン)と柳定秀(ユ・ジョンス)を慶応義塾に預けた魚弁中は、日本視察終了後にそのまま朝鮮に帰国せず、天津に渡って李鴻章と今後の対外方針について協議していた。魚弁中は一八八二年二月にも問議官として再び天津を訪れ、アメリカとの条約締結について李鴻章と調整していた金弁植に合流したが、その際に魚は周馥との会談で次のように述べた。

ちかごろ日本に行くと、日本人は本邦を指して独立だと言います。私は大声でこの言葉を折り、「自主は可であるけれども独立は非である。大清が有り、これまで正朔を奉ってきたのだから、どうして独立ということができようか」と言いました。日本人は言い返しませんでした。(原文は漢文)

日本人は朝鮮が「独立」だと主張するが、しかし「朝鮮は自主であっても属邦であって、独立であってはならない」というのである。西洋諸国からの通信・通商の要求を宗属関係にもとづいて拒否していた朝鮮政府にとって、中国の「属邦」であること自体が体制を守る砦だった。西洋諸国や日本と「自主」の立場で条約を結んだのちにも、それたの国々と紛争が起こった際に「上国」が保護してくれるなら、それこそ「自主」と「事大」の「両得」である。ただし、清の側としては朝鮮があまりに負担になるのは厄介であり、それゆえ朝鮮は「属邦」であっても「自主」だということは、清が朝鮮と諸外国の関係に関して全責任を負うことを回避するための論法ともなる。「属邦自主」には宗主国と「属邦」の双方の思惑が絡みあっていた。
一方、「一身どくりつ して一国独立す」のテーゼに象徴されるように、「独立」は福沢にとって最重要の価値で、日本の「独立」のためにも朝鮮を日本が文明化させてその「独立」を守らなければならないというのが、福沢の「朝鮮改造論」の骨子である。朝鮮でも「一身独立」「一国独立」が達成されれば、これは朝鮮人民の幸福であり、同時に日本の防衛や貿易上の利益となる。ところが、福沢としては当たり前の価値である「独立」を、当の朝鮮政府の対外関係担当者が否定している、。壬午軍乱を契機に福沢は対清開戦論を掲げたものの、自らの経験のアナロジーでは対処できない清と朝鮮の宗属関係という問題に突き当たったのである。

上記の引用で大事なポイントは、基本的に日本が明治維新で、中国や朝鮮と「条約」を結ぶわけで、それはまあ、当然なわけである。この地域の安定を考えるなら。そして、その場合に、そもそも中国と朝鮮との、上記の「宗属関係」を認めないで、行われる「平和条約」なんて、ありえないわけであろう。
ところが、福沢にしてみれば、それはたんに「中国や朝鮮が遅れている」ということしか意味しない。彼の頭には、あらゆる古いしきたりは全て、害悪なんだから、そんなことを今だに言っている朝鮮は旧態依然としていて、ダメだ、ということになる。
しかし、福沢がいくらダメだダメだと言っても、それは福沢個人の「都合」でしかないわけで、まあ、いわば福沢の今までの「思想」に関係しているにすぎない(そもそも、江戸幕府でダメだと言ってテロを行った行為が「しょうがなった」と思わないことだって、それなりに筋の通った話なわけでw)。世の中は広くて、福沢が理解できないけど、それなりに通用しているシステムがあるわけで、だだっ子のようにいくらゴネても、日本にとってみれば、自分には関係ない話ということになる。
しかし、そうだとすると政府の中枢の連中は何を考えていたのだろう、ということになる。

だとすると、もう一つ考えられる選択肢は、清と朝鮮の宗属関係を維持したまま、東アジアの新たな国際秩序を構想する道である。そのように唱える人物は存在した。明治天皇の待講を務め、「教育勅語」(一八九〇年発布)の起草に関わった元田永孚(もとだながざね)(一八一八--一八九一)がその人である。壬午軍乱後に書かれた元田の意見書には、「今朝鮮ノ独立ヲ幇助スルハ、小義軽利ニシテ、清国ト猜忌ヲ生シ紛議ヲ招クハ、大義重利ヲ損スルナリ」とある。日本が朝鮮の「独立」を支援することは義と利に背くという、福沢の「朝鮮改造論」とまったく反対の東洋平和論である。

元田は日清戦争の前にこの世を去るが、元田のような儒教主義者が明治政府の中心となり、朝鮮政府の対外関係担当者と連携したとするなら、日本は日清戦争を回避することが可能だっただろう。

もしもこの東アジアにおける、ロシアからの植民地獲得の攻撃に「対抗」するとしたなら、日本と清と朝鮮は

  • 協力

をしなければならなかった。しかし、福沢にとって問題は朝鮮であった。朝鮮は清との昔からの宗属関係によって、ある種の「植民地」状態にすでにあった。しかも、はるか昔からその関係を継続してきたことによって、それなりに、お互いの国には「信頼」が存在していた。ところが、福沢にしてみれば、問題はこの東アジアの「安全保障」だったわけで、こういった中国と朝鮮の関係が、朝鮮という「弱点」をあらわしているようにしか思えなかった。福沢にとって、明治維新の経験は「絶対」だったわけで、これによって、日本は欧米の植民地主義を跳ね返すことが可能になったという意味で、

  • 同じこと

が朝鮮において起きればいいんじゃないのか、と考えたわけである。福沢にとって、明治維新はそういう意味で「正しい」道であった。そうであるなら、同じことが朝鮮で起きなければならなかった、ということになる。
そこで彼がどのように考えたか? 彼は、日本の明治維新でのイギリスの役割を日本がやればいい、と考えた。というか、彼自身がイギリスの役割をすればいい、と考えた。
福沢は朝鮮から半亡命的にやってくる若い青年たちを自らの家に呼び、大学に留学させ、アメリカへの留学の手助けを行い、彼らの「政権転覆」を陰で支えた。実際に、お金の工面の意味でも手伝った。
しかし、こういった行為は、旧態依然とした朝鮮や清の「体制側」にしてみれば、たんに「テロリスト」を匿まってくるのと変わらないわけで、そういう意味では福沢の行為はどこかナイーブな印象を受ける。
福沢にしてみれば、明治維新はまさに「正義」そのものなのであって、同じことが朝鮮でも起きれば、上記の宗属関係も終わるわけなのだろうが、明治維新って、たんに「テロリスト」の「テロ行為」ですからね。ぶっちゃけて言えば。それを自らが「当事者」として、その正義を疑わないんだったら、そりゃあ、朝鮮もテロでやっちゃえ、となるのだろうw というか、それが「物騒」だということへの感性がすでになくなっちゃっているような人だった、ということなのだろう。
福沢が主筆をしていた新聞の『時事新報』の記事の内容においては、さまざまに過激なことをオルグしていて、その延長で多くの朝鮮出身の若いテロリストたちを援助して、その延長で、乙未事変において閔妃という朝鮮の女王の「殺害」を日本の関係者が行う事件が起きるのだが、それに対しても『時事新報』は最初はしおらしく、事件の重大さを書いていたのに、時間の経過とともに、いかに閔妃が人格的におかしかったといったようなことを、おもしろおかしく書くようになっていくわけで、とにかく、福沢一派は「悪ノリ」が激しく、ほんとうに「品性下劣」だなあ、という印象しかない。それが「儒教」を「悪」だと言いつのる連中の言うことなんだから、なんとも言葉がない。

一八八六年のある日、福沢のもとにアメリカにいる二人の息子から手紙が届いた。福沢はその返信である同年一〇月二五日付の手紙のなかで、先に帰国した兪の消息を尋ねてきた捨次郎に答えて、次のように記している。

捨次郎より兪吉濬の義尋問、同人は朝鮮に帰りて禁獄せられたるよし。人に讒(ざん)せられたる事ならん、。野蛮国の悪風これを聞くも、忌わしき次第なり、。何れにしても箇様なる国は一日も早く滅亡する方天意に叶ふ事と存候(ぞんじそうろう)。(18五九)

前年、福沢は『時事新報』一八八五年八月一三日社説として『朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」を書いている。本書の第二章で述べたように、朝鮮政府のもとで人民は私有・清明、独立国の国民としての栄誉が保護されないのだから、イギリスのような強大文明国によって滅ぼされ、せめて人民の生命と私有だけでも安全にすれば不幸中の幸いだと述べたものである。

いや。そういう自分が面倒をみた、かわいい「教え子」が悲惨な運命になっていくことに、怒りを覚えるのは分からなくはないけど、その感情を国家の存亡と同列に語るこの人ってなんなんだろう、ということなんじゃないのか。
結局、福沢という男は外交といった「国家」の問題と、こういった「仁義」とか「義憤」とかいったことを区別できなかった人なのではないか。この二つを区別して、文章を書けなかった。その後の日本の政治は、政府関係者と懇意にしていた過激なヤクザ的な市民や、軍隊の青年将校たちの

  • 暴走

によって、どんどんと戦局が拡大していき、最後はアメリカとの戦争に負けて終戦を迎えるわけであるが、うーん。まあ、一つだけはっきりしていることは、あそこまで、朝鮮を罵詈雑言でくそみそに言っていた人間を、今だに、千円札で偶像崇拝しているこの国ってなんなんだろう、ということだろうか...。

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

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