冨田恭彦『カント哲学の奇妙な歪み』

私たちは経験からしか、なにかの「知識」を得ることができない。ところが、デカルトの「独我論」においては、一切を疑った後で「我思う、ゆえに我あり」というわけで、いや。全てを疑うのだから、それって「経験」に頼れないということなのだから、それって結局なんなのか、ということになるわけであろう。

まず、デカルトは懐疑の過程を経て既得の信念のすべてを廃棄するが、このとき、物体についての信念もすべて廃棄される。自分の身体も大地も天体も、すべてその存在が認められなくなるなる。その上で彼は、不可疑の「アルキメデスの点」として「我あり」を見出すのであるが、この場合の「我」は、物体が廃棄されている以上、「心」でしかないとされる。ここにはすでに、あるもの(存在するもの)は物体か心かのいずれかであるという考えが、前提として使用されている。この物体から心かという二分法は、人間なら誰もが自然に持っている考え方というものではない。

なぜデカルトは、心と物体を「切り離した」のだろう? なぜデカルトは、心自体を疑わない(つまり、自己言及的な態度)ことを避けることを自明に「行いうる」と考えたのだろう?
いずれにしろデカルトは、その「心」というものについても、松果体だったかなんだったか、とにかく、なんらかの「実体」にその対象を指示したわけで、彼の中ではそういった態度は整合性があると思えたのかもしれない。
しかし、そうやって後世の哲学者たちは、投げ放しのジャーマンスープレックスをくらったように、このデカルトの置き土産を、どう考えたらいいのかに悩まされた。
例えば、同じようなことは、ヒュームも言っているわけだが、つまり、人間の感覚は「怪しい」のだから、ここから「確実」な学問が生まれるのか、というわけである。

前者の『人間本性論』には、次のような言葉がある。

感官から生じる印象については、私の見るところ、それらの究極の原因は、人間理性によってはまったく解明することができない。そして、それらは対象から直接生じるのか、心の創造力によって生み出されるのか、われわれを存在せしめた者に由来するのかを、確実に決定すること常に不可能であろう。

先にも示唆したように、ヒュームの場合、「印象」という言葉は、ロックの言う「観念」のうち、感覚や感情など、鮮やかな現れ方をするものを表現するのに使われる。当面の話題との関係で言えば、ヒュームはここで、「感官から生じる印象」----すなわちロックの言う感覚の観念----について、その原因はわからないと言っているのである。
もう一つ、ヒュームの言葉を見ておきたい。今度は『人間知性についての研究』の文言である。

感官の知覚がそれに似た外的対象によって生み出されるかどうかは、事実についての問いである。この問いはどのようにして解決されるだろうか。同じような種類の他のあらゆる問いがそうであるように、もちろん、経験によってである。しかし、この場合、経験はまったくなにも語らず、なにも語らないに違いない。心は知覚以外には心に現前するものを決して持たず、知覚と対象との結合を経験できるはずがないのである。

ここでも、知覚されるのは「感官の知覚」すなわち「感官から生じる対象」だけであって、その原因であるはずの「外的対象」は確認できないとされている。
カントに対するヒュームの影響力からすると、ヒュームのこうした見解に促されてカントが物自体を認識不可能と考えるに至ったことは、可能性の一つとして否定できない。

確かに、こういった「懐疑」はどこか、デカルト的である。なにも確実な「印象」なんていうものはない。あらゆる「印象」はそれが、この世界のなんらかの「原因」と対応した「感覚」と呼びうるものなのか、たんなるその人の「妄想」なのかを区別する、一切のはっきりした「方法」はない。
だとするなら、私たちは「確実」な学問をあきらめるべきなのだろうか?

周知のように、カントはアプリオリな総合判断の可能性を明らかにすることによって、純粋数学、純粋自然(科)学が成り立つ所以を示すとともに、学としての形而上学の可能性を明らかにすることを、『純粋理性批判』で図ろうとした。その第一版で彼は言う。

その正当な要求に対しては理性を守り、あらゆる根拠のない越権に対しては、権力者の絶対命令によってではなく理性の恒久不変の法則によってこれを排除することのできる法廷[......]こそ、純粋理性批判にほかならない。
しかし、これによって私は、書物や体系の批判を考えているのではない。私が考えているのは、理性が一切の経験に依拠することなく得ようと努めるすべての認識に関する、理性能力一般の批判である。したがって、それは、形而上学が可能であるか否かを決定し、形而上学の源泉とともにその範囲と限界とを、すべて原理から規定しようとするものである。

この、「理性が一切の経験に依拠することなく得ようと努めるすべての認識に関する、理性能力一般の批判」としての純粋理性の法廷が、仮説という蓋然的知識に基づくものであってはならないという強い意識が、カントにはあった。諸学の基礎を扱う学が蓋然的なものに依拠していてはならないという思いである。

カントが言っていることは、どこかニヒリズム的である。確かに、私たちは「確実」な「印象」というものを、勝ち取ることができない。私が朝起きて、まだ寝惚けまなこでやったことが、まったく、夢の続きの、支離滅裂なことだったかもしれない。
しかし、たとえそうであったとしても、カール・ポパー反証可能性や、トマス・クーンの科学者集団の練習問題といったように、なんらかの「チェック」装置は、それなりに機能しうる、というのが現代の考えなんじゃないか。
つまり、多くの場合、ちょっとくらいの「間違い」を含んでいたとしても、全体としての「相互チェック」が働いているなら、それなりの一定の「品質」は保障されるのではないか(まさに「集合知」だ)。
例えば、小保方晴子のスタップ細胞にしても、さまざまな研究機関での「検証」が次々と「成功」していれば、ここまでの話にはならなかった。だとするなら、そこまで無理をして「確実」なる学問の「根拠」を提示しなければならない、と力む必要もないわけであろう。
人間は毎日を「経験」と共に生きている。それだけでなく、その時々の経験を「再帰的(リカーシブ)」に、「前提」として、自らを「微調整」している。つまり、どんどんと変わっている。こういった存在を、どのように定義づければいいのかは難しい。例えば、私たち人間の感覚機関は、カントが言うように、その外世界をなんらかの「空間と時間」によって、

  • 再解釈

をして知覚しているように思われる。それは、私たちが三次元的な存在であり、時間的な存在であるから、と言えば分かりやすいが、だとするなら、そうやって人間が「解釈」をほどこして、人間が分かりやすく

  • していない

もの、という意味で「物自体」を論理的には考えられるように聞こえるが、しかし、それが「なんなのか」については、そもそも「人間の解釈」を介さないと言っているのだから、つまり、それは「経験」ではないのだから、つまりは、なにも言っていないのだ。
私たちは、私たちの「観点」から、世界を眺めることしかできないのであって、その「外」に出ることはできない。しかし、それでどんな困難があるのだろう? というか、この自らの「観点」を徹底させるだけでも、それなりに立派なことは多く生まれうるであろう。じゃあ、それでなにが困る?
というか、人間は経験を超えられないのだから、実際、カントが書いていることも「経験」の範囲のことなわけであろう。論理も「経験」であり、過去の人間が「経験」から導きだした「整理」であり、それ以上でもそれ以下でもない。人間が生み出せるものは、なんらかの経験との関係なしには記述しえない。実際に経験「ではない」何かを人間がやったとしても、それは「たいした」内容のことを記述することにはならない、ってくらいな話でいいんじゃないのかな...。
(例えば、デカルト懐疑論によって疑ったのは、世界のさまざまな地域では、自分たちとは違った「民俗」を生きていて、私たちの道徳とは違ったものを「自明」と思っている、といったことから敷衍しているのであって、つまりは、そういう意味での、不可知論であるなら、受け入れ可能ということであって、そうだからって、別に、あらゆる「経験」は「確実じゃない」から、科学的な評価に耐ええない、とは言えないんじゃないのか、それなりの蓋然性の範囲においての「確実」という表現は一定の意味があるんじゃないのか、ということなんだと思うんですけどね...。)