片山杜秀『近代天皇論』

島薗進との対談。
近代日本の成立過程を一つの「パズル」のように考えようとする態度が、多くの「不可思議」な今の日本のこの状態を説明すると考えると非常に重要なことに思われるのだが、あまり多くの人たちには、そういったことが興味とならない。
結局、今この社会の状態になんらかの働きかけを、なんらかの意味のあるものにするためには、そういったことが他者に「合理的」に受けとられなければならない。つまり、相手にとってのなんらかの「納得」の地平において行われなければならない。
人を動かすのは、そこに人が理を見出すときでしかない。
近代日本を考える上での最大の謎は、明治維新だということになるが、その理念を体現した水戸学派の水戸学はどのような文脈から現れたのか?

徳川光圀は、もっと筋の通った、より普遍的な理屈が欲しかった。大義です。将軍家を力ではなく義の観点から意味づける。なぜ将軍家を守ることが命を捨てるほどにつねに尊いのか。征夷大将軍の位を天皇から与えられているからです。天皇に信任されているからです。そして天皇は神話時代から連綿と続く他国に例を見ない特別な存在である。日本という国が特別で、その特別さを守るのが将軍である。そう考えれば大義が出てきますよ。

もともと水戸藩は各藩の中で、一番の権力を与えられていたわけではなく、せいぜい三番くらいの位置で、なにか大事が起きれば一番に身を犠牲にして幕府を守るような立場であった。しかし、だからこそ、彼らは「なぜ自分たちはここまでやらなければならないのか」を突き詰めて考えることを強いられた。
しかし、そうして彼らが見出した「理由」は、よく考えてみると物騒な内容であった。というのは、これを素直に読めば、

というふうな結論に簡単に導かれるからだ。

このふたつは一見、分裂している。時間の向きが正反対である。「王政復古」は過去や伝統を志向するものであり、「文明開化」はつまり西洋文明化であって、日進月歩の西洋近代の科学やら制度やらをどんどん取り込もうということで、これはもう未来志向。
しかし、徳川時代身分制度を解体して、「天皇と臣民」という関係をつくる点では一致しているのです。
王政復古」の理想は、はるかいにしえの王朝時代に戻ることです。その時代には士農工商身分制度は存在しません。天皇とそれに仕える臣。その臣には天皇に仕える民もふくまれる。臣民ですね。日本には天皇と臣民の二種類しかいない。そういう世界です。「王政復古」を唱える人々の「理想」のなかでは、天皇と臣民の関係だけが存在したということです。

明治維新を担った理念的イデオローグである、水戸学派の考えから考えると、明らかに明治維新は「王政復古」だ。これは、飛鳥時代律令制国家に「戻る」ということを意味しているのであって、あくまでも、その延長で「文明開化」があった。文明開化はその「理念」を踏まえた上で、邪魔にならない限りにおいて認められたのであって、そのことが、後々の日本の混乱をもたらした。
例えば、明治維新で議会制民主主義が始まるが、よく考えてみると、ここに変な機関があることが分かる。つまり、

である。しかも、軍隊は議会制民主主義と関係なく「天皇」直属の組織にされている。
このことが何を意味しているのかを考えると、ようするに、

  • なんちゃって民主主義

なのだ。確かに、議会制民主主義は欧米マスコミへの「立派な近代国家」風情をかもしだすために、延々と議論をしているところを見せびらかすわけだが、こういった議論と「関係」なく、元老院天皇との合議制によって、

で勝手に軍隊を動かして、戦争を始めてしまう。国会はお飾りなのだ。
というか、明治の志士たちは、始めからそのつもりで、この制度を作ったのだ。
国会は、国家の行事における面倒くさい瑣末なことを勝手にやらせておく機関で、元老院は国会など関係なく国の重要な舵取りを勝手にやってしまう。つまり、始めから民主主義などやる気がなかったわけである。
同じことは、政教分離についても言える。確かに、大日本帝国憲法には、政教分離の記述があるが、不思議なことに「神道」については、それを天皇教として、「政教一体」とした。

竹橋事件の場合も、軍隊の階級の上下よりも武士のときにどちらが高禄だったかとか、「農工商出身の軍人の言うことを士族がきけるか」みたいな、そういう意識の軍人兵士がいるから、統率がとれなかったわけです。
そこで、昔は侍だったとか、何石どりだったとか、 農工商の身分であったとかに関係なく、上官になっているならその者の命令は下に対して絶対であって文句を言うなということで、「軍人勅諭」を出す。たしかに、「軍人勅諭」の精神を徹底していくことで、軍の秩序はできていったのですが、それがずっと残ることで、今度は窮屈で風通しのきわめて悪い前近代的でまったくフレキシブルでない軍隊づくりに貢献して、日本陸海軍の悪しき文化をつくり上げてしまうわけですね。

日本の天皇の特徴は「しらす」にあると言われる。それは、天皇と臣民がお互いに相手の気持ちを「知る」ことが完成することを意味していて、ようするに天皇は「命令」をしない。なぜなら、そんな俗世の細かいことに、いちいち、正確に反応していられないからなのだ。
ところがその天皇が、歴史的な文脈の中で、止むに止まれず、なんらかの「考え」を発表すると、その「言葉」が勝手に「独り歩き」していってしまう。軍人勅諭はそもそも、武士階級あがりでプライドの高い、軍人をどうやって庶民上がりの士官の命令に従わせるのか、といった歴史的文脈の中で作られた苦肉の策であったわけだが、その内容が、それ以降、軍隊の硬直した上下関係を決定してしまう。
早い話が、戦前においては、天皇がなにか「言葉」を述べるということは、それ以降の日本の未来を決定づけるくらいの意味をもってしまっていた。つまり、それによって国家が滅んでもしょうがないくらいの意味に。というか、だからこそ、征夷大将軍という制度で、長い間の日本の政治システムは運営されていたのに、水戸学派イデオロギーは、また太古の問題ある制度に戻してしまったわけである。
この「なんちゃって近代」の日本のシステムは、それが本当の民主主義ではなかった、ということについては上記でも注意をしたわけであるが、しかしWW1を終え、WW2にさしかかるにつれ、このことが世界史的な文脈において、注目されるようになる。

第一次世界大戦の敗戦国や戦争からの離脱国は戦争で負けたわけではない。ペテルブルクやモスクワやベルリンに敵が来たのではない。内部崩壊です。国民が言うことをきかなくなったのです。「皇帝のため」という旗印では国民総動員を続けることができなかった。
ところが、イギリスとフランスとアメリカでは不満を持ったとしてもやり場がない。だってデモクラシーですから。戦争を選択しているのはわれわれ国民だという理屈がまず根幹です。

なぜ民主主義が重要だったのか? それは近代戦争、特に、「総力戦」に関係していた。つまり、総力戦が普通選挙であり、国民皆保険であり、国民年金といった「福祉」国家の理念を推進することに、大きく影響した。
民主主義とは「総力戦」に参加する、いや、「徴兵」される国民の「動機」に関係していた。非民主主義は、軍隊が弱い。軍人たちが長く続く塹壕戦において、

  • なんで皇帝のために命を捨てさせられるのか

という疑問にさいなやまされるわけである。自分となんの関係のない皇帝のために、なんで命を捨てさせられているのか?
ところが、民主主義は「それはお前が選んだ行為じゃないか」というトートロジカルな再帰性にからめとられてしまう。
しかし、それ以前に日本の軍隊が強かったのは、以下の理由からと言っていい。

日本の陸軍には理想の兵隊は農村から供給されるという信仰がありました。日本軍は明治維新後の建軍当時から、国防予算も不十分だし、装備は西洋列強に比べると貧弱で、それでも西洋列強を仮想敵国にしているわけですから、どうしても兵隊のやる気に頼るという発想になる。
そこで日本の農民なのです。武士ではありません。プライドが高い少数精鋭では困る。大勢いて、農村共同体で和を重んじ、目上に従順な気風を持ち、家父長的なリーダーシップによく従う。そしてなりより粘り強い。こういう人間によって予算や装備の不足を補うのが日本陸軍の歩兵であり海軍の水兵というものです。
ところが近代化にしたがって、第一次産業から第二次産業へと労働人口は移転してゆく。都市に出てくると、個人主義自由主義の空気を吸って、すれてくる。言うことを聞かなかったり、戦わないですむように隠れたりする。総力戦体制で戦う時代になっているのに、社会ではむしろ戦力減になる人口が増えている。そういう構造的な矛盾を解決できるのかできないのかが、第一次世界大戦以降の時代の焦点になっていきました。

そもそも、今の日本のマンガやアニメやラノベなどの「サブカル」を見ていると、こういった「感性」は農村共同体の印象をすごく強く意識させられる。だからこそ、都市住民には、こういった感性をなにか「アホの子」といった差別語で表現したくなるのであろう。
しかし、こういったどこか「半強制的」にも見えるような、共同作業的な日本社会の特性は、農村共同体を思わせるわけであり、そもそも、日本の軍隊の強さの根源は

  • 武士道

ではなく、農村コミュニティにあった、と考える方が自然なわけであろう。自意識ばっかり大きくて、プライドが高く、すぐに逃げようとする、都市住民の「逃走論」は、日本の軍隊を弱くする。おそらく、そういった認識が、過剰なまでの天皇崇拝国家へと、

  • 文部省

の指導体制を強いていった。
言うまでもなく、日本のアメリカへの戦線布告はまったく勝目のない戦争に思えた。そもそも、物資の確保の面で日本がアメリカを上回るまったくなんのめどもたっていなかった。というか、石油などの最も重要な物資を、そもそもアメリカから「輸入」をしていたくらいなわけで。そういう意味では、元老院のなくなった昭和初期の日本は、完全にコントロールを失った暴走国家だったのであろう。
しかし、私は概ね、世の中の多くのことは、それなりに「合理的」にできていると思っていて、それはWW2での日本の敗戦についてでさえ、そうだと思っている。
そのことは、例えば、平泉澄が敗戦直前において、日本の軍隊がまったく、「原子爆弾」の開発に成功していないことを知り、露骨な侮蔑の感情を抱いたことに端的に示されている。彼は敗戦直前まで、この「無謀」な戦争への「コミットメント」を行い、国民を戦争にかりたてるオルグをし続けていたわけであるが、おそらくそこには、この「原子爆弾」の開発に日本が成功していて、

  • 最後の最後には勝てる

といった、なんらかの「情報」に依拠していたのではないか、と思われるわけである。だからこそ、敗戦と共に、大学を退職して、実家の田舎の神社に蟄居して、晩年を過ごす。つまり、そういった自らが「デマ」に踊らされたことへの、自らの

  • 国家の道を危まらせた

責任を自覚して、国家の最前線に立つことを自らに戒めた、と(どこか、3・11の福島第一原発事故での御用学者の見苦しい姿が重なりますね...)。