映画「沈黙」への素朴な違和感

映画「沈黙」は、基本的には、遠藤周作の原作に準じていると受けとっているが、私はこの作品を見ていて、正直ずっと違和感を感じていた。つまり、明らかにこれは

  • 現代

の作品だ。つまり、これは遠藤周作の「思想」を書いているのであって、遠藤周作という「現代人の感覚」を、過去に投影しているのであって、これを史実と考えては、あまりに無理がある、と思ったわけである。
その問題の中心はなんなのか、ということであるが、例えば、田川建三は以前に、遠藤周作を痛烈に批判しているわけであるが、そこで一つの興味深いことを書いている。

先に引用したように、遠藤は、「イエスが実際に奇蹟を行ったか、否か」という問いを「通俗的な疑問」とみなして軽蔑し、「無力な愛」こそ本物なのだ、という主張に話を持っていこうとしている。しかし実はこの「無力な愛」の「イエス」こそ、病気治療の奇跡などは行なわない、という前提にまず支えられている。病気治療などは、直接的な利益のみを求める頑迷な欲望であって、だからイエスは病気治療を行なわなかったのだ、というのが遠藤の前提である。前提というよりも、遠藤のイエス像の中心部分である。イエスが奇跡を行なったか否か、という問いは通俗的であって、そういう問いはどうでもいいことだ、と言いながら、遠藤の「イエス」は終始一貫、頑強に、絶対に奇跡など行なわなかった人物なのである。つまり遠藤にとってはこの問いはイエス理解にとって最も根本的な問いであったにもかかわらずこれを通俗的とみなして馬鹿にしたから、この問いをよく考えてみることもせず、はじめから自分できめた答を当然のこととして前提してしまったのだ。遠藤はこの「通俗的」な問いに与えた通俗的な答をその著作の柱にしている。しかし私はこの問いを通俗的だとは思わない。「奇跡」に焦点をおいてみるから、何か非科学的な迷信のような気がするが、話の焦点は病気治癒なので、イエスが本気になって病気治癒の実践活動に取り組んだか、それともそういうことを馬鹿にして何もしなかったのか、という問いは通俗的どころか、根本的に重要な問いである。通俗的なのは、この問いに対する遠藤の答え方である。
近代の、ミーハー知識人の心情かたすれば、病気治癒の奇跡などというのは、頑迷固陋であほらしい迷信にしかすぎまい。そういうものをまともに取り上げるのはくだらない、と思うだろう。「イエス」の高尚な宗教的「愛」を示すためには、こういうあほくさい迷信など排除しておくに限る......。これこそ、古代人の奇跡信仰に対して、近代人の通俗的心情からのけりをつける視点にほかならない。

宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉 (洋泉社MC新書)

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遠藤周作は、まさかイエスが「奇跡」を行ったわけがない、と考える。そんな非科学的なことを行ったら、

  • トンデモ科学

になってしまう。そうではなく、イエスの「精神」の「並ぶものなき位の高さ」が、キリスト教の「他と比べるもののない」価値を意味しているはずだ、と。つまり、遠藤の描くキリスト教徒は、次々と燃えさかる火山に飛び込んで

をする、狂信者たちにされてしまう。なぜなら、そうでなければ、キリスト教には「価値がない」と遠藤は考えるからなのだ。
しかし、よく考えてみると、イエスが「奇跡」を行ったということは、普通に考えれば、

  • 医療行為

を行ったということなのであろう。当時の医療衛生概念から考えるなら、ちょっと清潔にするだけでも、多くの人にはかなりの体調の好転が見込めたりしたわけであろうし、単純に飢えかけている人に食事を与えれば、大きく体調を取り戻したわけであろう。
これは、映画「沈黙」においても、読み込めるわけで、キチジローが何度も神父に懺悔をするわけであるが、あまりに変なわけであろう。何度も「許す」から、その神父の「精神性」の高さを意味するって、たんなるパロディにしかなっていない。こういったことを言いたくなること自体が、なんらかの

  • 精神的

な「価値」を強調しようとする歪な態度なのであって、どう考えても、こんなのは現代人の投影でしかないわけであろう。
当時の彼らの状況を考えれば、神父がもっとも考えたことは、信者たちの食事であり、医療であったわけで、そもそも人間が生きるということは、こういった最低限の糧食を満たすことなわけであろう。
同じことは現代にも言えて、一方で資本主義は「しょうがない」と言っているから、貧しい国々の人々がなぜ「救われない」のかの理由が

  • 薬が高すぎる

という、まさにその「資本主義」のルールが、大企業に人道的見地から、新薬をなんとかして安く売らせて、お金のない人を助けようという発想にならない。
なぜ資本主義を「制限」する、という発想にならないのか?
資本主義の「ルール」に従ったら、貧富の格差が広がるなら。資本主義になんらかの制限をつけるのは「当たり前」なんじゃないですかね。それは、民主主義という「ルール」に従ったら、だれもが不幸になるから、民主主義になんらかの制限をつける、というのと同じわけでw
ようするに、この人間の住む状況を「良く」したいんだったら、

  • お金持ちのお金を奪って、没落した中産階級に手厚く福祉を与えて
  • 農地改革で、お金持ちの土地を奪って、無産階級にその必要に応じて配れ

ばいい、ということになるであろう。どこの国でも同じようにすればいい、ということになるし、むしろ、これこそがイエス・キリストがやろうとしたことなのであろう。変な哲学的な「精神」だとか「神」だとか、そういった衒学的なバズワードにまどわされるんじゃなくて、素朴にこういった「衣食住」を充実させるといった「唯物論」こそが、まさに「衣食足りて礼節を知る」なわけで、むしろ、そういったことから論点をそらせようとする「御用学者」こそが、遠藤のような変な精神性(=気持ち悪い哲学)を主張したがるわけである...。