今週の週間読書人

週間読書人という新聞があって、この一面で柄谷行人渡部直己との対談が載っているが(2017年3月3日号)、この対談がおもしろかったのが、私が始めて、柄谷さんが東浩紀先生について言及していたのを見たからなのですが。

柄谷 近年、東浩紀とかが「批評」についてしきりにいってますね。僕にはピンと来ないのですが。

私はずっと昔からそうなんだけれど、東先生の書く文章は一貫して、ピンと来ないんですよね。というか、私がよく分からないのは、その東先生に心頭しているような、彼の周りをとりかこんでいる人たちがなぜか東先生がやっていることはつまりはなんなのかを書いてくれるはずだとずっと思っているんだけれど、いっこうにそういった文章にめぐりあったことがない。ないというのは言いすぎなのかもしれないけれど、とにかく、そういった「エッセイ」のような短い文章があったとしても、それも

  • ピンと来ない

わけなんだけど、これってなんなんだろう、と思うわけである。
どういうことなんだろう?
つまり、東先生の書かれる文章は「批評」の対象ではないのだろうか? 最近は社長業に忙しくて、彼の周りに集まってこられる方々という「後身の育成」に忙しいのだろうか。というか、この対談においても、渡部さんは東先生を評価されているようなのだが、その文章も何を言っているのか、さっぱり分からない。

渡部 そこは逆に、文学の生産現場が、批評そのものをほとんど必要としなくなってしまったという事情が大きいんですよ。これは明らかなことだと思います。たとえば、今の作家たちのなかには、少し厳しい批評に接すると、悪口をいわれたと思ってしまう者がいる。批評と中傷の区別がつかない。文芸誌から匿名欄がなくなったのもそのせいです。作家たちが、あの「蜂の一刺し」みたいな批評を受け入れなくなった。少なくとも編集現場がそう判断したわけです。しかし、その判断は、作家を悪く甘やかすことにしか通じません。SNS的な自堕落な承認願望を作家たちまでが一部で共有しているかにみえます。したがって批評家などというささくれだった存在自体が求められない。

おもしろいよね。これって、むしろ「批評家」にこそ、あてはまるんじゃないのだろうか? つまり、なぜ東先生の周りを囲む信者の方々の中から、「東先生論」があらわれないのかって、東先生自体がそういう人を

  • 悪口

といってブロックされるからなんじゃないですかね。というか、他人の言っていることを「悪口」と言うこと自体が

  • はしたない

という感覚はないのかな。こういうことを言っている時点で、「こういうことを言う人」という扱い方しかされないんじゃないのか(なぜなら、他人を悪口扱いすることと批評って、なんの関係もないですからねw)。つまり、すでに作家が批評家を求めないだけじゃなくて、自称批評家が自らを「作家」としか周囲から扱われるのを嫌がっている。つまり批評家が批評家を求めない。
うーん。柄谷さんが「文学の終わり」と言うわけだよね...。