ゲアハルト・シェーンリッヒ「尊厳・価値・合理的な自己愛」

カントの実践理性批判を現代的なパースペクティブのもとに再検討をしている人として、クリスティーン・コースガードの本(『義務とアイデンティティ倫理学』)を紹介したことがあるが、この本が興味深いことは、明らかにカントを超えてしまっていて、もはや、それは「道徳」であることを要請していない。そういう意味では、このコースガードの議論はカントを、まったく別の新たな世界に開いてしまっている、という印象を受ける。

クリスティーン・コースガードが以下のような論証を提示している。

その論証は純然たる意味において超越論的である。すなわち、われわれは自分たちの目的のいくつかを、たとえそれらが明らかに条件つきであるとしても、善と見なす。というのは、それら目的の善さには条件が、それら目的の価値の源泉が存在しなければならないからである。われわれはそれらの目的が十分に合理的自律でもって選択される場合にはいつでも、それらを善と見なす。その意味でも合理的自律はそれら目的の価値の源泉である。

カントの実践理性においては、そもそも道徳は「自律」に関係して定立されている。しかしだとするなら、その人の「自律」による活動は、それが「道徳」であれなんであれ、等価な位置にあると言えなくはないわけである。ようするに、その人は、そういった自らの「自律」的な活動によって、さまざまな

をもつわけだけれど、もはやそれらの間の価値づけ(道徳的な優越)を議論できない。そうではなく、その「合理的自律」そのものが価値なんじゃないのか、となってしまうわけである。
このことは確かに上記のコースガードの本を読んだときには、少なからぬ驚きのようなものを感じたわけであるが、しかし、だからといって、カントがむしろ「中心的」にそのことを考えたかったであろうと思われる

  • 尊厳

といったものと、このまま分かれていってしまっていいのか、というのは自然な違和感として残るようには思われる。前回も書いたように、カントにとって「尊厳」概念は明らかに、カント以前のそれと違っているわけで、そこには人間の各個人の間の「能力」の差異とは

  • 独立

して主張されている印象がある。つまり、各人間の個人が「どういった人か」に

人間には「尊厳がある」と言っているように聞こえるわけで、つまりこのことというのは、例えば儒教における「徳(とく)」の概念に似ていなくはない、と思ったりするわけである。
儒教における徳は、例えば、あるその個人が自らをもってして、「俺って徳があるぜ」みたいに思っているとか「知って」いるとかに

  • 関係なく

論じられる概念で、たとえその人が学歴があろうとなかろうと、衒学的な本をたくさん読んでいようがいなかろうが、お金持ちであろうがなかろうが、本人がどんなに日常生活を「アホの子」のように振る舞っていようがそうでなかろうが、つまり、当人の

  • 自覚

とまったく「関係なく」、きっと、おそらく「外的」に存在するんだろうな、と昔から思われてきたし、そう語られてきたような「態度」なわけであって、そこには妙な「客観」性が認められているわけであろう。
つまり、こういったものは、まさにその個人が「どうであるか」に先行して、そういった「徳」ということは議論できるんだ、といったものではあるんだけれども、それをどう言ったらいいのかが、うまく説明できないんですよね。

(1)によれば、Sは賛成態度を現実に持っている必要はない。相応しい状況が与えられるときにSがこの賛成の態度を取ることが可能であるだけでよい。最後に、価値評価主体はたびたび居眠りをすることもあるし、無知から賛成態度を取らないこともある。

非常に奇妙な印象を受けるかもしれないが、こういったものが「尊厳」に関係して考えられているわけで、つまり、なんなのだろう? どこか「確率」に似ているんですよね。
なぜ、カントの言う「尊厳」概念は、その人が「どうなのか(=一般化)」の

に、そういった「価値」に似たようなことを言うのか? なぜ、この概念は具体的な「個人(の一般化)」に「先行」して、そういったものを考えるのだろうか? そう考えると、確かにこれは、柄谷行人が『探求』で考察した、「普遍」概念に近い印象すら受けてくる。
もちろん、こういったものを説明するときに普通使われる言葉として「理念」というのがあることは知っている。まあ「理想」と言ってもいいけど。しかし、いずれにしろ、これがなんなのかという問いには、上記のコースガード的な合理的自律性に拡散させることで、道徳に限定されない「アイデンティティの哲学」にシフトする立場と、ここで問題にしている、カントがその考察にこだわった「尊厳」との「分離」を、なんらかの形で「和解」させなければならないんじゃないのかと感じることは、普通に理性的な態度に思われる。

(3) 適合的な価値評価の機能としての尊厳:この場合、尊厳は一般に相応しさ、すなわち価値評価の相応しいこととして理解される。そうすると、たとえば理性的主体がそれに特有の価値評価に値するとしたら、それは、それに特有の価値を構成する特性、この場合その理性的な自律のおかげである。価値評価に相応しいことは、たとえば尊敬や愛といった賛成態度がその下で適合的であるような条件のことである。

こうして構想(3)だけが残る。それを展開できるためには、自律の価値を構成する特性が道徳的ではなく、道徳中立的に把握されなければならない。こうした戦略によって、価値として評価されるが、道徳的行為として命じられるのではなき尊厳なるものを考える余地が生み出される。その場合に関わってくるのは、尊厳という賛成態度ではなく、自己愛という賛成態度である。自己愛においてはわれわれが道徳中立的な仕方でわれわれ自身にとって価値ある存在なのである。
自己愛というたいど においては理性的存在だけが自己自身に対して価値ある存在なのではないから、ここで思いもかけず、尊厳概念を非-理性的存在にまで拡張する概念が訪れたことになる。非-理性的存在者は----本能にコントロールされて理性的存在者と同じように振る舞うとしても----その存在者自身にとって暗黙の裡に価値ある存在だと見なされうる。そうするとしかし、非理性的存在者はわれわれにとっての道具的価値を持つにすぎないと見なすわけにはいかない。

ここで掲題の著者が提出する概念である「自己愛」がなんなのかということになるわけであるが、例えば、カントが問題にした、ナルシストやエゴイズム、利己心、私欲、自惚(うぬぼ)れといった否定的な道徳的な価値判断と区別の難しいところがあるとしても、たとえばそれは、ストア派の「自己配慮」とほとんど同じ意味だとも言えるわけで、ここにおいて、カントを再度ストア派との近似性によって考える、といった方向だと言える。
しかし、ここでおもしろいのは、このカントが提唱した新しい「尊厳」概念が、ここで「非理性的存在」と言われているわけだが、つまりは人間を除いた

  • 動物

に、この「尊厳」概念は拡張可能なのではないのか、といった見通しを示しているところに、おもしろさがある。
人間にしろ、動物にしろ、確かになんらかの「自己配慮」をしているように思われる。それを「自己愛」と呼ぶとするとしても、なんらかの「そういった態度をとる存在」には先天的になんらかの

  • 尊厳

がそこにはあるんだ、といった解釈は確かに、ありうるように思える(言うまでもないが、現代でも「ストイック」という言葉を使うときがあるが、こういったストア派的な徳目というのは、現代社会においてもとても重要ななにかを示唆している部分はあるわけで、そういった方向であまり考えている人が少ないというのは、少し哲学の危機を思わせる)。
カントがヨーロッパの当時の「地震」の体験から考えたことはよく知られているように、カント的な尊厳概念にはどこか、「人類の絶滅」といった問題を考えようとしたのではないか、といった印象を受けることがある。道徳なんていうのは物理学の法則にないんだから、そんなの従わなくていいんだ、といったような、一種の「自然」主義は間違っているかどうか以前に

  • 人類の滅び

を示唆していますよね。つまり、人類が滅びるというのは、ちょっとしたことで簡単に起きてしまう。まずはそれを認めましょう、と。その上で、いや、俺は人類が滅びるかどうかより、道徳に従わない「自由」の方が

  • 価値

があると思うんだと言うなら、もう話は続けられないであろう。なぜなら、究極的には道徳とはそういうことを言っているのだから。だから、道徳ではなくて「ルール」なんですよね。ルールに従うのか従わないのか。だから実践的と言っているのであって、だってあんた、道徳が存在するかの前に、目の前で死にそうな人がいたら助けるよね、という、ものすごく単純なウィトゲンシュタイン的問題なわけでしょう。
そう考えると、結局はみんな「平等」に扱うしかないわけでしょう。どう考えても、そうでなければ、なんらかの「合意」は成立しそうにない。もちろん、ここで言っている「平等」が、それぞれの文化的な文脈によって意味を変えていてもいいんだけど、とにかくもそういった「配慮がされるべき」存在として扱われるべきというのは、そんなに突飛な想像不可能な倫理ではないとは思うんですけどね...。

思想 2017年 02 月号 [雑誌]

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