国家という「宗教」

もしも「科学」が「宗教ではない」という「定義」なら、新宗教

  • 私たちがやっていることは「科学」です

と自称すればいい、ということになるであろう。まあ、それが「オウム真理教」だったわけであり、「幸福の科学」であったわけであり、というか、ほとんどの新宗教がそうなわけであろう。「なに言っているんですか。私たちのやっていることは科学ですよ」と、高学歴のオウムの信者が言っていたことは、あまりにも有名で、ようするに科学業界はその「総括」を今に至るまで一度もやっていない、ということなのではないか。新宗教系にしてみれば、自らを「科学」と自称しておけば、科学という「権威付け」ができるわけであり、それを一貫して「許して」きた科学業界界隈が、「俺たちは宗教じゃない」って、いや、新宗教の人たちだって似たようなロジックで「俺たちは、<いわゆる>宗教じゃない、科学なんだ」って言ってるんだよ。
うーん。だとするなら、「科学」ってなんなんだろうね。
もし自らが「科学」を自称することが、それが「宗教でない」ことを意味しないなら、じゃあ、科学を自称することになんの意味があるんだろうね。
おそらく、そういった「科学」を一種の

  • 聖域

のように主張する人の中には、科学が「国家」や、国際的な「学会」コミュニティによって権威付けられているという意識があるのではないか。つまり、日本で「科学者」と呼ばれる人の多くが

  • 大学教授

なわけで、国立であれ私立であれ、どっちにしても国家による許認可によって成立しているのだから、それが「科学」なわけであろう。しかし、この事実は新宗教からしてみれば、どうやって自分たちが運営する

を作るのかといった話になるだけのことで、宗教団体として税金が免除されている事実からして、それほど高いハードルではないな、と思っているのではないか。
こういった状況は、自然科学系だけでなく、人文科学系においても深刻な問題となっているように思われる。
というのは、いわゆる「御用学者」問題として語られることであって、実際に彼らが政府の審議会の委員に選ばれたりしているのをみると、もはやそれは、自然科学であれ、人文科学であれ、そんな

  • 中立的

な名で呼ばれるような活動なのか、という疑いがまあ、普通におきてくる。実際、彼らが反原発運動を行った人文系知識人をボロクソに批判しているのを見ると、これのどこが「科学」なんだろうな、とあきれてくる。
もしも自称「科学」なるものが、

  • 国家

による「許認可」といった「権威付け」しかないのなら、それは国家という「宗教」ではないのか? おそらく、「オウム真理教」であり「幸福の科学」でありは、福島の低線量被爆は「福島県民になんの影響も与えない」と言うであろう。そして、原発推進、新たな原発建設を、こりることなく提唱する。
なぜなら、原発は多くの「お金」を吸い寄せるプラントだから、この建設に関わることこそが、「お金」を自らに吸い寄せる一番簡単な方法だから。よって、より「原発」は「宗教」的な色彩を帯びるようになっていくであろう。
今後の原発は、こういった「新宗教」系の人脈と切れなくなっていく。原発が一種の「力(ちから)」であるなら、こういった新宗教系の勢力が引き寄せられていくことは必然であろう。そこにはもはや、合理性は関係ない。「力(ちから)」を制することが、現代社会を制することなら、原発マネーに新宗教が群がってくることは、必然なのだ...。