東大はいらない

ここ何十年かの間に言われてきた、日本の衰退の最も大きな問題は、東大が「必要ない」ということを誰も言わないことなんじゃないのか、と思い始めている。それは、言葉を変えれば、日本に「エリート」は必要ない、ということなのだ。
早い話が、エリートとは自らの

  • 保身

を生きる存在なので、常に、「炎上マーケティング」をし続けないと死んでしまうから、ひっきりなしに、金切り声をあげて、大衆に罵声をあびせる。彼らの「わがまま」な、所作が、人々を不安にするし、社会を「混乱」させる。彼らは一種の「猛獣」だ。本当は、ある種の「鎖」に縛りつけて、暴れ回らないようにしなければいけない存在なのだが、まさにサイコパス。彼らは巧妙に振る舞うことで、社会的な地位を奪い、発言権をもち続ける。彼らは「目的」のない暴走列車だ。しかし、そういった彼らを生み出したのもこの社会。つまり

  • 東大社会

というシステムが、彼らの「アイデンティティ」を再生産し続ける。つまりは、単純に邪魔なのだ。
もう、エリートは「必要ない」のだ。エリートとは、「発展途上国」のシステムに組み込まれて始めて意味のあるものでしかない。役割が終わっているのだ。
東大ができたのは、明治の最初であり、その目的は「先進国」の制度を日本に伝えることであった。つまり、

  • たんにそれだけ

でしかなかったのにも関わらず、この東大システムは今も続いている。今だに彼らは、欧米と日本の「差異」を神経症的なまでに、細部を探し出して、

  • ドヤ顔

で日本の大衆を愚弄する。「欧米はこんなに進んでいるのに、日本の大衆のなんと愚弄な連中であることか」と。というか、これが彼らの「アイデンティティ」なのだから、その態度を止めろと言っても止められないのだがw
普通に考えてみよう。もしも東大のアイデンティティが、「先進国」の制度を日本に伝えることであるなら、彼らは東大に入学するやいなや、海外の「先進国w」の有名な大学に留学して、そこにいる世界的に有名な学者の下で勉強して、立派な、そういった学者に「認め」られて、日本に

  • 凱旋帰国

をしなければ、おかしいわけでしょう。つまり、こういう手続きをふんでいない、日本国内にずっと居座って、偉そうなことをマスコミで言い続けて、国内の大学を転々としている時点で、なにかがおかしいわけである。
もしもそうやって、海外の大学に留学して、その大学の世界的に有名な学者の下で勉強して、立派な論文を書いて、彼らに「認め」られるなら、その時点で、彼らは

  • そういった

一定の「評価」をパブリックかつグローバルに勝ち得た人間だ、ということになるであろう。しかし、そういった手続きもふまず、国内で「たんに東大に入った」というだけで、意味不明な、博士論文を、学内の意味不明な派閥の中で、でっちあげて、死ぬまでそれで、国内の大学を教授として転々とする連中は、たんに「えらそうにしている」というだけで、なんの成果もあげていない、本気で邪魔な連中なのだ。
もしも今の日本に「エリート」がいるとするなら、それは、市場を介して、国内向けのサービスを行うことで、なんらかのビジネス的成功をおさめたビジネスマンということになるであろう。そういう意味では、日本国内に、なんらかの

  • 経済的貢献

をしたかどうかこそが、「エリート」の定義ということになる。はて、東大に「入ったかどうか」がまったく関係ないことが分かるであろう。東大に入ろうが、今、東大にいようが、大事なのは、彼らが卒業して、社会人になって、どれだけの日本の国民に向けた「経済」的貢献をなしえたかが重要なのだから、つまりは東大は関係ないわけである。
しかし、そういう意味では、東大は「彷徨えるオランダ人」の状態なのだろう。
つまり、彼らはずっと「アイデンティティ」を探しているわけである。
どうすれば、自分たちの「意味」を見つけられるのか。どうやれば、自分たちをもう一度「エリート」として、世間の人が「評価」し

  • 承認

してくれるのか。その試行錯誤の過程で、彼らはさまざまな姿態を見せることになる。ときには、ドヤ顔をしてみたり、ときには、すねてみたり、ときには、ニヒリズムをただよわせてみたり。それもこれも、彼ら自身の「アイデンティティ」が揺らいでいることを彼らなりに理解してのことなのかもしれない。

「その理由は脳にあります。頭がいいのに、相手の表情や空気感をつかめず、商談や交渉事で相手を怒らせるタイプの人がいます。こうした人の脳をMRIで見てみると扁桃体とその周囲が発達していないことが多い。扁桃体は感情の記憶や情報の処理に関与している部位で、例えば近しい人が亡くなったとか愛している人にフラれたとかの悲しかった記憶や、親が怒っている様子などはここで処理するんです」
つまり高学歴の人は、扁桃体とその周りが発達していないために喜怒哀楽など感情の機微が乏しくなるということ。「確かに...」と、身の周りの才女の感情の欠落に心当たりがある人も多いのではないか。
たび重なる失言で、辞任を迫られているが、どこまでも他人事かのようにふるまう稲田朋美防衛大臣(58才)も、早稲田大卒の弁護士。少し風変わりなファッションやメイクを好み、国際会議の席では自らを「グッドルッキング(美人)」と称したこともニュースになった。
ともに周りからどう思われてるかなんてまるでカンケーないと言わんばかり。よほどの強心臓と思われているが、実はこれ、頭がよすぎるせいかもしれないのだ。
「凡人は、勉強を始める前に、『これは難しいなぁ』『今日は気分が悪いし』と感情によって意志が影響を受けてしまいますが、感情が鈍感だと、そう思う間もなく勉強をする。行動が感情に邪魔されないんです。だから知的な人は周囲とうまくいかない場合がある。頭がいいのに表情や空気感をつかめないんです」(加藤氏)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170707-00000021-pseven-soci

私は早い話が、東大をなくせばいいのだと思っている。つまり、それは実際の東大が廃校になるかどうかに関係なく、東大が「普通の大学」になればいい、と言っているわけである。そもそも、大学ごとの偏差値という時点でおかしいわけである。大学にはたんに、ある教授がいて、その教授の研究しているものがあって、その下に、若い学生が集まっている場所に過ぎなくて、それ以外の意味不明な

  • 国家を「御用」する教授(=知識人)の役割

だとか、

  • 大衆を「(動物的に)管理」するための「(東大の)エリート」の役割

だとか、

  • 国民を「(東大出身者とそれ以外の大衆という「存在論」的な)能力」に分ける「生物学的進化論」

といったような、「東大的マインド」といったような

を、バブル以降の日本が今だに払拭できていないことが(つまり、宮台真司さんや東浩紀先生のようなw)、それ以降の日本の「衰退」の全ての元凶なのであって、というか、まさにこういった感性こそが、西田亮介さんが『不寛容の本質』で書いていた

  • 昭和的マインド

ということなんだと思うんだけどね...。