蒼山サグ『天使の3P!』

日本の十代以下の子どもたちの死因の第一位が「自殺」であることが知られるようになっているにも関わらず、そのことをまったく話題にもしない、この日本社会の閉塞した感覚をどのように表現したらいいのか、私にはよく分からない。
今週の videonews.com では、相変わらず、宮台さんによるお説教タイムで、「平成」生まれの若者は「損得」にしか興味がないとか dis っているのを見ていて、ほんと、相変わらず、吐き気をもよおす奴だな、と思ったわけだが、偉そうに、「仲間のためなら命を捨てろ」とか、そういうあんたが今の今まで生きてきて、そうやって多くの日本の子どもが自殺を選んでいる状況を、さすが

  • 東大出身

の大学教授は言うことが違うなーと思ったわけであるw さすが、リア充は違うわな、と。それは、東浩紀先生も同じなんだろうけどね。
もう何が言ってもいいよ。勝手にすればいい。しかし、私自身が、そういった「ヨノナカ」的な話題に、あんまり興味をもてなくなってきた「個人的」な諸事情もあって、そういった、いわゆる「リア充」に本気でウンザリしてきたこともあって、まあ、。もっと言えば、そういった「ヨノナカ」的な多くの事象が正直

  • どうでもいい

んだよね。もっと言えば、生きている「目的」を失って、というか。別に、リア充が今を生きることに、いろいろ野心をもって、ギラギラした欲望でアブラぎっしゅに、欲望をダダ漏れさせていることを否定するつもりはないけど、まったく、自分の中に、そういった感情が生まれない。
そうしたときに、以前ならさまざまな本を読むこと自体が、多くの興味としてあったはずなのに、そういった行為自体がどこか、どうでもいいことのように感じられるようになり、どう考えても、なんらかの「前向き」なことを言うことに、モチベーションを感じられない。
宮台さんが、「正義」だとか「仲間のために死ねる」だとか、言えば言うほど、あー。ブルジョア階級の、リア充は言うことが違うよなとしか思えないし、彼が番組でさかんに、周辺の一人暮しの若者を

よばわりの「気違い」扱いをして、何度も何度も口汚く罵っていたのを思い出しても、あー、つまりはこれが「昭和」なんだなー、と。偉そうに、「正義」だとか「仲間のために死ねる」とか言ってるけど、そういった「価値」を語る連中であればあるほど、マルクス主義的な意味での

  • 経済的平等

には、とんと興味がないんだよね。そりゃそうだよね、だって、自分が「幸せ」のリア充なんだからw つまりは、「正義」だとか「仲間のために死ねる」だとか言う前に、世の中はもっと「経済的に平等」でなければいけないんじゃないの? 偉そうに、いいとこの大学に入った連中であればあるほど、なんで

  • 損得

をまずは、「平等」にしてから、始めて他人の「倫理」を云々できる、っていうことが、なんで分かんないんだろうね。
つまりは、本気で、こういった他人に説教をする「正義ズラ」の連中に、うんざりなんだよね。
掲題のラノベは、今期から深夜アニメが始まっているが、その第一話はシュールだ。
高校生の主人公の貫井響(ぬくいきょう)は、始学期が始まって一ヶ月が経つが今だに一度も学校に行っていない。中学の頃のトラウマから、学校に行けなくなり、不登校を続けている「ひきこもり」だ。家の外に出るのも、だれにもはちあわせになることのない、朝方に、コンビニに行くくらい。
時間だけはあり余っている彼は、その余った時間を使って、音楽ソフトで曲を作ってネットにアップロードをしていた。すると、ある日、一見、はるかに年上と思われる丁寧な文体のメールが届く。自分がアップロードした曲を褒めてくれていて、一度会って話がしたい、と言う。悩んだが、会う約束をして、待ち合わせの場所に行くと、なぜかそこには3人組の小学校5年生の女の子がいた。彼女たちは、彼に自分たちが住んでいる教会の児童養護施設に連れて行くと、彼女たちはこの30人くらいが入れる教会で、自分たちのバンドのライブがしたいので、彼に手伝ってほしいと言う。
3人組の女の子、後藤潤(ごとうじゅん)、紅葉谷希美(もみじだにのぞみ)、金城そら(かねしろそら)は、幼くして両親を亡くし、小さい頃から、この養護施設で一緒に育ってきた。響(きょう)は彼女たちの演奏を見ることで、「ひきこもり」を続けているにも関わらず、彼女たちのライブ活動のサポートを引き受けることを決断する。
響(きょう)は学校に行けない。外に出ると、学校の関係者に会ってしまうかもしれないので、家の外に出れない。彼は「ひきこもり」である。そのことは、たんに彼の「わがまま」であり、嗤うべき対象であろうか? 私はここのところ、この「ひきこもり」という行為自体に、がぜん興味がわいている。
「ひきこもり」は、間違った悪ではない。これは、自らが自らを「守る」ために選ぶ行為なのだ。つまり「ひきこもり」は、「正義」だとか「仲間のために死ねる」だとかといった、ブルジョア階級の「倫理」と戦うために、つまり自分が

  • 自殺

をしないために選ぶ一つの方法なのだ(子どもたちは、そういった、「仲間のために死ねる」だとかいった、ブルジョア階級の「倫理」に苦しみ「自殺」を選択する。子どもの自殺は、自分を憎む友だちの「のため」に選ぶ行動なのであり、まさに自殺とは「仲間のための死」なのであり、「ひきこもり」とはこういったブルジョア階級の「倫理」と戦うための一つの手段なのだ!)。
「ひきこもり」は、そもそも人間には「目的」がないことの意味を示唆する、基本的な行動である。なぜなら、人間は「なんのために生きるのか」についての答えをもっていないからだ。そして、そのことはこの3人の小学生がよく示してくれている。ブルジョア階級の「倫理」とは、

  • 専業主婦

を中心とした「愛」の世界である。パパ、ママ、ボクの世界で、このエディプス・コンプレックス的世界において「ボク」は、パパと同様、ママ「のために」生きる。つまり、ママが「喜ぶ」ことを生き甲斐にする。しかし、その両親を失った彼女たち小学生には、そもそも生きる「目的」が、どこからも与えられていないのだ。
「ひきこもり」は人間の基本的な行動パターンである。私たち生きる「目的」が見つからない人間は、「ひきこもり」の中に「倫理」を見出す。それは、私たちがこれから生きていくためには、どうしても通過しなければならない時期だ、と思うわけである...。

天使の3P! (電撃文庫 あ 28-11)

天使の3P! (電撃文庫 あ 28-11)