地獄少女の本質

今期のアニメで、「地獄少女宵伽」の第一話が放送されている。アニメ「地獄少女」は、例えば「少女革命ウテナ」のように、定型的なストーリー展開による、各話完結の形で話は進む。
その内容は、wikipediaに書いてあるように、必殺仕事人シリーズのオマージュとなっているように、

  • 法で裁けぬ、晴らせぬ怨みを依頼者から引き受け成敗する

となる。そういう意味では、勧善懲悪のストーリーだと言っていい。しかし、必殺シリーズもそうだが、ここで言う「勧善懲悪」の意味は、この社会の「システム」によって、弱者は強者に「泣き寝入り」しなければならなくなっていることが前提なのであり、それはこの「システム」が、必殺仕事人や地獄少女が、この現実世界に介入しなければ

  • 変わらない

ことが「必然」と思われるからこそ、この「悲劇」は「物語」として求められるわけである(例えば、第一期第5話で、女社長は何度も地獄少女を呼びだそうと試みるが失敗する。それは地獄少女側によって、むしろ彼女の「悪」が地獄少女によって裁かれなければならないことを示していたわけである)。
地獄少女は、この現実世界の存在ではない。つまり、超越的にこの世界を俯瞰する。そのことは、私たち人間は地獄少女の側に「介入」できないことが前提とされている。そこは、ある意味において、必殺シリーズにおいて、仕事人の「正体」が幕府側にあばかれる可能性を視聴者がリスクとして想定させられることの不完全さを、地獄少女はまぬがれていると言えるだろう。
しかし、そういう意味では彼女は、「空想」の存在である。つまり、この作品は、前半の「理不尽」なこの世界の矛盾と、後半の地獄少女の活躍する場面には、切断がある。本来起きえない「空想」だからこそ、この恨みは晴らされる。もちろん、この両方がなければ、作品は完成しないのだが、後半はむしろ私たちが「起きえない」からこそ、空想せざるをえない、文学的な営みであることを示している。
現実世界は、「悪」がはびこっている。だいたい、社会的に成功している連中はなんらかの、日常的な「悪」を行ったから、とも考えられる。「悪人」は世にはばかる。大手をふるって、「悪」が歩いている。それが資本主義社会だと言ってもいい。
しかし、「悪」を「悪」のままにしておいていいのだろうか?
つまり、そういった「理不尽」と思われる思念は、なんらかの形で、こういった現代社会の「ひずみ」として、心理学的に昇華されなければならない。
それは、こういった「文学作品」として、何度も反復して描かれていること「自体」がそうだと言うこともできる。こういった作品は、こういった作品を作らざるをえなかった人々の「思念」が、形としてこういったものを、絶えず反復して、描きつづけている、と言うこともできる。そういう意味では、「悪」は、絶えず、社会からの「圧力」を受ける。「悪」であることは、たとえその経済的成功が、「悪」の結果としてありえたとしても、長期的な

  • 心の安寧

を保障するものではない。むしろ、こういった作品が世の中に滲透していること自体が、彼ら「悪」の心理的な負担となり、彼らの行動を牽制しているとも解釈できるわけである...。