浅田彰・東浩紀・千葉雅也「ポスト・トゥルース時代の現代思想」

浅田彰の還暦を祝うということで、東浩紀先生と千葉雅也さんとが対談を行うということであるのだが、そこでの話題はなぜか「ポスト・トゥルース」だというわけである。
しかし、この対談を読んだ人には、むしろ

といった認識においてw、どうやって「ポスト・トゥルース=トランプ」はダメだが

はそういったものとは別なんだ、と言えるのかを、彼らの「師匠」筋になる、浅田彰に、いわば「お墨付き」をもらうのかを、必死になって、その「言質」をとろうとしている、そのための醜い態度でしかないようにも見えてくる。
というのは、実際に浅田彰の言説は、東浩紀先生や千葉雅也さんの意図を一向に気にせず、ぶっちゃけトークを連発しているからだ。

東 では、例えばブレグジットも、基本的には経済の問題だと。
浅田 そう思います。
東 民族主義排他主義についてはあまり気にしなくていいという考えですか。
浅田 というか、経済的な矛盾によって民族主義が駆り立てられる。その意味では、ぼくは古い唯物論者なんです。

上記で浅田彰が言っていることは、つまりは「唯物論」である。どんなに「ポストモダン」が高尚な「真理主義」と戦う、一部の高尚なアカデミズムの作法であるとしても、唯物論的に言えることはある。
例えば、数学基礎論という分野があるが、これは一見すると一般の数学と比べて高尚な議論をしているように見えるかもしれないが、なぜこんなものが存在しているのかと考えるなら、そこには間違いなく

がある。つまり、数学者コミュニティ内の専門家にしか理解できないような衒学的な営みに「対抗」しようとした、アマチュアたちによる「闘争」の歴史が見えてくる。もっと言えば、これは、同じ言語も慣習も作法も共有しない

  • 外国人

が、どうやって一つの対象についての議論を成立させるのかの、作法だったと考えることもできる(公理とはそういうものである)。

浅田 そういう問題があるのは確かでしょう。ただ、非常に素朴な次元で言えば、例えばトランプの演説に対して、いつどこで正反対のことを喋っていた、という確実な情報を出すことはできる。

浅田 ニーチェもまた、命題の真偽だけではなく、誰が何のために言っているかを問う必要がある、と言った。たとえば「絶対的な神が存在する」という命題は、それを自らの権力に転化しようとする聖職者が言っているのだ、と。あるいは、解釈ぬきの事実などない、そして、解釈するのは「力への意志」なのだ、と。だから、一九世紀後半には既に事実や真理は根底的に疑われているわけですね。そのようなマルクスなりニーチェの疑いの延長線上に、ポスト構造主義などの議論も出てきた。

浅田 そう。誤解を避けるために強調しておくと、もちろん実証可能な範囲ではとことん実証を進めるべきですよ。たとえば南京大虐殺の犠牲者が三〇万人だという話が誇張だという意見は一概に否定できないので、できれば日中共同で可能なかぎりデータの収集・吟味・検証を進めるべきです。

結局のところ、「哲学」というのは、大学に入学して哲学科に入った人たちにとって始めて「存在」するなにかでしかなく、一般の人には関係がない。実際に、高校まで、それを学ぶ場所はない(「倫理」という高校の授業があるとしても、別に、その授業で哲学者の本を読むわけでもないのだから、ないのと変わらない)。
だとするなら、ここで「哲学」がどうのこうのと言っている人たちというのは、実際に誰に向かって話しているのだろう、という違和感しかないわけである。彼らにとっての

  • ボクノサイキョウノ「哲学」

は、一般の人には関係のない、衒学的な「饒舌」でしかない。つまり、一般の人がこのコンテクストにコミットメントを強いられるいわれはないわけである。
哲学を云々している時点でそれは、自分が大学に合格できた「幸せ」を自慢しているのと変わらない。そういった幸せ自慢がやりたいのなら、内輪のコミュニティで勝手にやればいいんで、それをわざわざパブリックな場で見せつけられる「醜さ」が主張されている。
千葉雅也さんが真面目に答えていないのは、これは最初から「真理」がどうのという話じゃないということなのだ。2ちゃんねるが「ソース」にこだわるのは、たんにお前が言っている「態度」が、デマかどうかを判断するための「作法」として存在しているということなのであって、デマに対立するものが「真実」だなんていう素朴実在論を言っているわけではない。何かお前が「信じる」ことになった「根拠」があって、そう言っているなら、それを示せ、と言っているに過ぎない。
それに対して、なんの根拠も示さず、断定口調で話されることは、まさに、上記のマルクスニーチェが問題にした

  • 誰が何のために言っているか

に関係している。東大教授という「権威」を使って、どんな「真理」を大衆に信じこませようとしているのか。つまり、なぜお前はここで「断定口調」で話しているのか、と聞いているのである。
それに対して、いや。そういったアンチ・エビデンシャリズム的な「文化」をなくしてはならない、というのは、ようするに、勝手に研究室の中で自分の弟子とやっててくれ、と言っているわけである。なぜ、そういった大衆には関係のない、「パズル・ゲーム」に大衆をつきあわさせたいのか。つまりは、そこにこそ、なんらかの「力への意志」があるのではないか、と。
例えば、東浩紀先生はアエラで「豊洲移転以外の解はない」と言った。じゃあ、その(断定口調の)理由は、と聞いてみるに、森山さんがツイッターで問いかけたら、「ボクがそう思うから」です、としか答えない。これって、上記でニーチェの言っている

なんじゃないのか。「絶対的な神は存在する」と言う聖職者となにが違うのか?
千葉雅也さんの言うアンチ・エビデンシャルにしても、東浩紀先生の言う南京大虐殺にしても、浅田さんの上記の引用の個所は、ようするに

  • 実証的

にやれることはいくらでもあるし、その範囲でやれるだけやるべき、といういわば「常識的」な話をしているのであって、つまりはこの範囲での「啓蒙的」な努力を行ってから、知識人は偉そうな説教をやってろ、というわけで、千葉雅也さんも東浩紀先生も、もう少し自分を擁護してもらえると思ったのにといった、肩透かしをくらった、というところだろうか...。

新潮 2017年 08 月号 [雑誌]

新潮 2017年 08 月号 [雑誌]