無敵の進化論的暴露論法

前回紹介した、進化論的暴露論法においては、直感的なもの、つまり、感情的なものは、進化論的に「進化」してきた、いわゆる「脊髄反射」みたいなものなのだから、これに基いて人間が行動しているのは、理性的でない、と判断される。じゃあ、どうすればいいのかということになるが、功利主義者に言わせれば、感情じゃなく、推論ならいいということから、「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義「なら」いい、ということになるらしい。
しかし、だとするなら、いわゆる

  • 共感

も感情的なものなのだから、肯定しない、ということになるのであろう。
たしかに、ここには鋭い視点もあって、そもそも「共感」は本当に相手のために共感するのかと言われると疑わしい部分もある。つまり、

  • 自分の利益のために、相手に共感している

という側面があるんじゃないのか、と疑われるわけである。もっと言えば、ここで「相手に共感している」という行為が、「もしもここで相手に自分が<共感>をすれば、自分の利益になると思っているからそうしている」ということになれば、それは純粋な、他者への同情ではないのではないか、と考えられるわけである。
同情は、利他性なのだろうか、利己性なのだろうか?
まあ、いずれにしろ、「感情」はいろいろな理由からそう現されると考えるなら、共感でさえ疑わしいと言えるのかもしれない。
しかし、である。
ここで問題にされるべきは、功利主義者が言うような、まるで、功利主義だけが唯一の答えであるかの口ぶりが、違和感を与える、ということなのであろう。
功利主義は、「最大多数の最大幸福」を目指して「計算」をする。そういう意味では、この過程は推論なのだろう。しかし、ここで幾つかの疑問がある。

  1. なぜ「最大多数の最大幸福」を目指した「計算」だけがここでは特権化されていて、その他の「計算」は返り見られていないのか。その他を目的とした「感情ではなく推論の」計算はいくらでもあるのに。
  2. そもそもなぜ、「最大多数の最大幸福」を目指そうとしていること自体が「感情」ではないのか、と疑わないのだろう? 感情的に何かを選んでいるのかが、ここでは問われているのに、なぜか功利主義者は、「最大多数の最大幸福」を目指すことにした行為自体を「感情」ではないと特権化するのだろう?
  3. そもそも「最大多数の最大幸福」というのは、具体的な内容は個々の文脈で議論されるしかないわけで、それぞれの文脈による「解釈」の場面において、これが何を意味するのかを決定する過程において、それを議論している人自体の「直観」や「感情」に大きく左右されると考えるなら、こういった「分割」自体が無意味とは考えられないだろうか。
  4. さて。「最大多数の最大幸福」とは結果である。つまり帰結主義と言うわけだが、そもそも帰結について云々するのなら、それは、論点先取りなのではないか? 結果において、あーだこーだ言うのは、だれだって言えるのであって、行動する前に判断をするための指針の話をここではしていたのではないのか?

結局のところ、問題は、

  • 何の目的を目指して「計算」するのか?

が、そう簡単に決定しない、ということなのだ。それは、私たちがなんのために生きているのかという、「人生の目的」をそんなに簡単に決定できない、ということに関係している。その目的が決まるなら、それに向かって計算することは推論なのだろうが、じゃあ、どうやってその「目的」は決定されうるのか。この議論を、功利主義者はいわば

  • 避けている

ということを、「最大多数の最大幸福」は意味しているということなのであって、ようするに功利主義者は「何も言っていない」に近いということなのである。
無敵の進化論的暴露論法は、連戦連勝。どこまでも勝ち続けるのかもしれないがw、そういった党派的な議論はなんの意味もない。そのことは、上記の「共感」についての議論と変わらない。「共感」や「同情」は、おそらくは、なんらかの進化論的な過程で、人間が獲得してきた性質なのだろう。つまりは、直感的であり感情的なのであって、それを推論と違うと言うことは可能なのだろうが、なんらかの「推論」を私が勝手に始めるトリガーには、大きく関係している。「共感」や「同情」が内面に生まれることに関係して、そういった「推論」は始まるのであって。じゃあ、その計算の結果は、進化論的暴露論法は否定するのか、否定しないのか?
つまり、何が言いたいかというと、極論を言えば、あらゆる「計算」はその目的設定の段階で、なんらかの「直観」や「感情」がなければ行われない、ということなのだ。わざわざ、私たち人間が「計算」なんていう面倒なことをやろうとする始めには、必ず、なんらかの「直観」や「感情」がある。だとするなら、その計算結果であるものを否定する

  • 進化論的暴露論法

は一切の人間の思考活動を否定しているのと変わらない、としか私には聞こえないわけであり、なんでこんなことが議論になっているのか、さっぱり理解できない、というわけである...。